Midsummer Fires 9

EAR OF THE LIGHT AND HOPE IN THE DARK.
A FAREWELL.





 <西の広場>に一歩足を踏み入れた瞬間、鼻面を橙色の灼熱で焼かれ、アルマは思わず手で顔を蔽った。歩いているときから前方に光と熱を感じてはいたものの、広場の中のそれは近隣の通りから感じられるものの比ではなかった。デューラムの言ったそのとおり、小さな家くらいはあろうかという火の塊が、広場の真ん中でごうごうと燃えさかっている。巨大な炎が激しく蠢き、のたうち、いくつもの舌で暗い天を舐める。かと思えば、無数の火の粉が空に向かって舞い上がり、ぱちぱちと音を立ててひっきりなしに爆ぜかえり、藍の空を赤く染めるのだった。
 広場は群衆でごったがえしていた。焚き火から少し距離を置いていくつもの屋台が出ていたが、そこに並べられた林檎酒やエールの樽、果物などに、人々は競いあって群がっていた。焚き火のきな臭い匂いに混じって、炙ったチーズの香ばしい匂いがぷんと鼻をつく。
 屋台の横には音楽隊が出ており、小太鼓のリズミカルな音を響かせていた。そのすぐそばには、横笛のしらべにあわせて踊る若い娘たちの輪がある。時おり、少し体の線は崩れているものの美しい晴れの衣装を身にまとった中年の女性が前に進み出て、熟練を感じさせる見事な足さばきで裾のレースを華麗にひるがえし、大勢の感嘆の視線を独り占めにしていた。さらに広場のそこかしこで、何組もの若い男女が手をとりあってステップを踏んでいる。
 アルマは微笑して横のデューラムを見た。「今日はマーヤは村なの?」
 デューラムは頭を掻いた。「いやあ誘ったんだが、牝牛が一頭、調子が悪いらしい。ついていけなきゃいけないから、今夜は行けないと言われた。……明日は出てこられるらしいが」
 「おい、のろけ話か?」後ろから登場したダグラスがデューラムの首にがっしりと腕を回す。デューラムはぐうと唸って目を白黒させた。「あっちに大道芸人が出てるぞ、来いよ。いまジョンが酒を買いに行った。飲もうぜ」
 連れ去られるデューラムを呆れ半分に笑って見送ったアルマは、あらためて祭りの熱気に沸きかえる広場を見渡した。と、密集した人々の顔と顔のあいまに見知った姿を認めたように感じて目を止める。――ツァランである。人ごみからやや離れた屋台の影の、少し暗くなった場所に彼は一人で立っていた。
 アルマは人混みをかきわけて彼に歩み寄り、少しからかうように笑いかけた。「どこにいるのかと思ったら、早々とお祭りを楽しんでたのね。――それにしても、どうしたの、こんな静かなところに引っ込んで」
 ツァランは腕を組んだまま、やってきたアルマにちらりと目を向けた。
 「いや、焚き火をこうしてぼんやり眺めているのもたまには良いかと思ってね」
 彼は簡潔にそれだけ答えた。アルマはおやと首をかしげた。この男の台詞にいつも漂っている、人をむやみに挑発してよろこぶ意地の悪い響きがなぜだか今ばかりは引っ込んでいる。なんにせよ、少しでもまともに話ができる数少ない機会かもしれなかった。屋台の布壁の影になったその場所は、燃えさかる焚き火の熱からも人々の肌から立ちのぼる熱気からも若干遠く、ひんやりとさえしていた。彼女はツァランの横に立って、中央の喧噪を同じように眺めた。
 「……ねえツァラン。ずっと昔から、夏至は邪霊が飛び交う日と信じられてきたと言ったでしょう」
 聞いているのかいないのかもわからない顔で腕を組んだままの隣の男の様子に、アルマは少し迷ったが、続けた。
 「どうして夏至なの? 一年で一番明るい日なのに。むしろ寒くて暗い冬のほうが、じめじめと陰鬱な感じで、怨霊だの悪魔だのが色々出てきそうだけど」
 ツァランは変わらず広場を眺めている。すでに夜もずいぶん更けていたが、群衆はいっこうに散る様子を見せない。むしろ活気をましたように思える人々の踊りが、背後のあざやかな炎の色彩によく映える。
 「……たしかに一見すると、夏至は一年でもっとも光の力の強い日のように見えます」と、ややあってツァランは口を開いた。「太陽がもっとも長く地を照らす日ですからね。そうして、冬至こそが一年でもっとも闇の力の強い日のように思える。だが、考え方を変えてみれば、冬至というのは、これ以上暗くなりようのない日であるわけだ。冬至において、人は誰しも、明日からしだいに光が取り戻される――それを知る」
 わかったような気がして、アルマは頷いた。「人びとの明るさや暖かさへの希望がもっとも強くなる日だということ?」
 「そのとおりです。そして夏至はその逆だ。夏に向かって地平線を一日一日と北進してきた太陽が、夏至をさかいにふたたび南に後退しはじめる。一年ごとに繰り返される光と闇とのせめぎあいの物語のなかで、闇が攻勢に転じるまさにその転機となる夜――それが夏至なのです。もっとも明るい日ではあるが……」
 「明日から次第に寒さと暗さが押し寄せるのだと、みんながそう感じる日というわけね」
 後をひきついだアルマの台詞に、ツァランは頷いた。「そうです。……地域によっては、秋分――すなわち夏と冬との中間点である日に、邪霊を払う大焚き火を催すところもあるようだ。季節が夏よりも冬に近づくその日こそ冬の始まりであり、闇の精を追い払う儀式が必要だ――そういう考え方のほうが、わかりやすいと言えばわかりやすい。だが、ぼくは夏至にこそ悪霊払いが必要とする考え方のほうが、好きですね」
 「なぜ?」
 ツァランはのろりとアルマに顔を向けて、微笑した。「もっとも明るい日こそがもっとも暗い日であるという、そうした逆説を隠し持っているからですよ、アルマ」
 アルマはその微笑の意味を、ぎりぎりのところではかりかねた。単にひねくれた物言いを好むがゆえの笑いであるようにも思えたし、同時にそれ以上のものであるようにも思われた。ゆえにアルマは彼が向けてきた視線をまっこうから見つめ直すほかなかった。
 ツァランは焚き火に目を戻した。「衰えと死の歌は、人や事物がもっとも美しくなり、もっとも強くなるその瞬間に始まるのです。繁栄が輝かしくあればあるほど、滅亡と闇への恐怖は強くなる。おのれに害なす闇の霊とは、人々が我が身我が世の衰えに対していだく恐怖にほかならない――あるいは、その不安のなかから、その不安を食って忍び現れるのが異界異形のものどもであると言おうか。かくして人びとは、まぶしい光と繁栄のただなかにこそ、邪悪な霊や闇の精霊の息吹を聞くというわけだ。……とぎすまされた感性だとは思いませんか」
 アルマは広場に視線を向けた。巨大な炎を見ているだけで瞳の表面が熱くなってくる。「……でも、逆のことだって言えるでしょう」
 その言葉にツァランはふたたびアルマをちらりと見、それから肩をすくめた。
 「そうです。春分を新年とする地域もあるようですが、このヘプタルクをはじめとして、冬至をもって新年とする地域は多い。興味深いことです……多くの異なる地域で、多くの異なる人々が、晴れやかで明るく暖かな――それこそ夏至のような日ではなく、冬の真ん中をこそ新しい始まりの日として選んできたのだ。そうした慣例のなかには、闇のもっとも濃くなる、そのただなかに新しい何かの誕生を見ようとする深い祈りがあるのかもしれません」
 二人が見つめるその視界の先では、横笛が陽気な旋律を奏でている。二フィート(注:六十センチ強)もあろうかという上げ底の靴をはいた芸人が、その足で器用にステップを踏みつつ横笛を吹き鳴らし、黒山の人だかりをこしらえているのだ。芸人を野次り、その芸に喝采を送り、されば自分もとばかりに笛のしらべにあわせて踊り出す、そうした町人たちのくるくると変わる表情は、生き生きとした活気に満ちあふれていた。人々は笑いさんざめき、熱気と音楽とに身をまかせ、夏の夜の享楽を純粋に謳歌しているように見えた。
 「大事な人の最後の忘れ形見も埋めてしまうことで、ジョンのなかには何か生まれたのかしら」アルマは呟いた。
 「アルマ」ツァランは皮肉っぽい抑揚を強めた。「……とぎすまされた感覚とぼくはさっき言いましたが、それはあくまで、年中行事の背後にひとつの美学が横たわっているのを感じ取ってのことだ。逆は……ひとりの個人の生に季節の移り変わりの法則を安易に重ねるのは危険ですよ。個人の経験に法則はないからです。
 「われわれの季節の経験は、ある意味では儀式的なものです。……冬のただなかにあって、われわれは必ずや夏が来るということを知っている。夏のさなかにあって、その先には冷気と静けさが訪れるということを、われわれは知っている。さらに言えば、衰えと冷気の暗喩でもって示される季節はそのじつ生の休息のときでもある。ぼくが儀式的といったのは、それゆえです。いかに負の意味を課そうとも、われわれはみな、秋と冬が世界にとって必要であることを知っている。闇を追い払うと同時に、われわれはそれをもたらした冬の存在に感謝しているのです。
 「ならば、そこにある冷気や闇がもつ意味は、心身を引き裂く痛みや存在の苦しみの経験とはまったく別のものだ。人間は苦しまなければならないと人は言う。だがそれが苦しみを通過儀礼と見なす物言いであるならば、ぼくはその文言をただ軽蔑するのみですね。儀式には必ず始まりがあり、終わりがある。だが、どれだけ深い苦痛のときにあろうとも、その苦痛が終わる日が来ることを世界は保証しないからだ」
 アルマは返すべき台詞を知らなかった。彼のいまの発言に、何かとても皮相なものを感じたが、いっぽうで、それを論破できる何をも彼女は知らなかった。
 ツァランは腕を持ち上げて焚き火を指さした。
 「……ごらんなさい。焚き火は荒あらしいでしょう。どれだけ空気を舐めつくしても、まだ餓えきっていて、なにもかも貪婪に呑み込んでやろうと息巻いている。あれが夏至の夜に異界から訪れ、怒りと歓喜に荒れ狂い、天に踊る妖魔ですよ。
 「……数十年ほど前、大焚き火が近隣に燃え広がったことがあったそうです。下々の者が住む地区から高級商人が住まう通りまで、広く焼けただれた。お上(かみ)は当然、その後数年間、焚き火を禁じる布令を出し、禁令にそむこうとした者どもを厳しく罰しました。それでも、二十年もすると焚き火はいつのまにやら元通りになっていたそうです。
 「さらに数百年ほど前の圧政の時代には、市街の反対側――<東の広場>で催された焚き火から王宮に火矢がいくつも放たれ、宮殿が大火事になったそうです。その後は当然ながら、下層民の祭すべてに強固な弾圧が敷かれた。それでも祭りも焚き火もこっそりと生き延びて、反乱と弾圧の記憶が薄れるやいなや、こうしてまた華やかに返り咲くのです。
 「……悪霊を払う行いのなかには、いつだって不穏な謎がかくれている。その行いは、払わねばならない悪霊がたしかにそこにいることを、人びとにそのつど知らしめるのです。さもなくば忘却のなかに沈み消えていく悪霊の存在を。……だとすれば、大焚き火は悪霊払いであると同時に悪霊を呼び寄せる行事なのだ。――あるいはこう言い換えてもいい。夏至の日に焚き火を焚くことで、住民たち自身がいっとき、異形の妖怪になるのです。それを知りながら、人々はこの焚き火をけしてやめない。王宮も、この行いをけしてやめさせることができない。禁じても禁じても消せぬ熾火(おきび)が、つねにちらちらとくすぶり続け、そのうち燃え上がって大火となり、こちらとあちらの境界に裂け目を開くのだ」
 ツァランは少しのあいだ口を噤み、そうして目を細めた。
 「……そうしたわざわいの門を開く者が魔法使いと呼ばれるのだと、ぼくはそう信じているのです」
 青黒い野心に満ちたその言葉に、アルマは答えを返さなかった。ただ周囲を赤く染める巨大な炎を、彼女は見つめていた。焚き火は先ほどよりもさらに激しさを増しているように感じられた。時折、橙と白色の炎の中心で、がたりと薪の黒い影が揺れる。丸く中央でふくらむ凶暴な光はそれをけして見逃さず、たちまちのうちに舐め尽くす。黒い影がきしむような悲鳴とともに朽ち落ちると、その饗宴に歓喜した無数の火の粉の群がこうっと夜空に舞い上がって、暗い夜空にちらちらと微細な光の粒を撒き散らす。
 そうだ、それは燃えさかる火が作り出す熱情に下から煽られて、暗い空を上下左右に乱れ飛ぶ邪精どもなのだ。貪欲にうごめく異界の王のまわりで無数の人びとが高らかに笑い、叫び、首を腕を背中をしならせて踊りまわり、裸の肌と乱れた髪から汗の光を飛び散らせる。欲望にみちびかれ、人びとは男の、女の肉を求めて手を伸ばす。いくつもの横笛のしらべが絡まりあい、戯れあいながら、火のまわりをくるくると巡り回る。異教の女のどこか土のにおいのする懐郷の歌が聞こえる。人びとが手を叩く。足を踏みならす。高まりをます太鼓の音。
 よろこびと情欲と、深い欲動の叫び。









 終わりを知ることなく燃えさかるかと見えた大焚き火も、だが、数刻もせぬうちにその勢いを減じていった。薪の黒い影が少しずつ小さくなっていくのと同時に、荒あらしく伸び縮みを繰り返していた炎の舌も、しだいにその活力を失っていった。密集していた町人も、酒と踊りと祭りのほろ酔いかげんに満足そうな表情をうかべつつ、ひと組、またひと組と寝ぐらへ帰っていく。屋台がようやく店じまいを始めたころ、一行もまた広場をあとにした。
 ふと気がつけばまたどこかに姿を消してしまっていたツァランをのぞく五人は、行きと同じ道を歩いて戻った。やはり焚き火を見終えて家に戻る幾人かが周囲を歩いていたが、<西の広場>から離れるにしたがい、人気はしだいに薄くなり、他の足音や話し声も聞こえなくなっていった。
 「どうだった、焚き火は」
 隣のデューラムがおもむろに尋ねてくる。酒を少し飲み過ぎたか、顔が少し赤いのが星明かりのなかにも見て取れた。
 アルマは微笑した。「面白かったです。迫力があるのね。まわりの民家に燃え移らないか心配だったほどよ」
 「ずいぶん昔に燃え広がったことがあるって聞いたぜ」デューラムは愉快そうに、「それでもちっとも懲りないのがヘプタルクの人間のいいところだよな。まあ、みんな阿呆者ってことかもしれないが」
 「阿呆者を呼ぶ匂いみたいのを出してるからな、ここの土は」と、前を歩いていたダグラスが振り返り、「その匂いにひきつけられて、おまえみたいのがふらふら集まってくるってわけだ」
 「ヘプタルク生まれに言われる台詞じゃねえや」と、デューラムは足元の小石をダグラスの背中に向かって蹴り飛ばした。腕か首筋にでも当たったか、ダグラスが痛ッと声をあげる。
 アルマは思わず笑った。ツァランとの会話にも上った、その同じ事件であり現象であるはずのものが、この二人の口から出ると不思議とまったく異なる趣に聞こえる。その物言いと空気にアルマは理由もなくほっとしたのだった。「ここに住んでる時点で、わたしたちみんなお互い様って――」
 「おい」
 低い、鋭い声がした。イザクである。前を歩く彼が突然足を止めたので、五人は驚いて立ち止まらざるをえなかった。
 「どうした」怪訝そうに、デューラム。
 イザクは黙ったまま前方を指さした。アルマははっとした。気づけばもうボローハ通りのすぐ近くまでやってきていたのだ。このまままっすぐ数十歩を歩けば、もうすぐにも石畳の広場に出る場所だった。そしてその広場のほうを――建物が開けた向こうに広がる暗闇を――イザクは指さしているのだ。
 その暗闇の中に、きらりと光るものがあった。
 青く丸い光のかけら――池の水が星明かりに反射したものかと、アルマは最初そう思った。それほど淡く、薄白く、温度を感じさせない光だったのだ。先ほどの大焚き火のまぶしさがまぶたの裏に焼きついているためもあって、目をこらさないと見過ごしてしまいかねないほどの、そんなかすかなきらめきだった。だがよく見れば、その位置はまちがっても池の水面ではありえなかった。ほぼ人の胸あたりの高さである。さらには、その光はゆるりと弧を描くように空中を揺れ動き……。
 「あれだ」
 ダグラスがぽつりと呟いた。「……あれだ。おれが見たのは」
 アルマは息を詰めて、真正面に開けた闇を見つめていた。その奇妙な光まで百フィート(約三十メートル)程度の距離だったろうか。現れては消え、また現れては消えを繰り返しながら、無明の宙に小さな光が優美な曲線を描くさまは、はかなげで、気まぐれで、そしてどこか神秘的だった。
 ――おれの前には鬼火は出ねえんだ。
 数日前にジョンはたしかにそう言わなかったか。その当の本人は、いまイザクの横、アルマからすれば斜め前に立っている。その位置のためにアルマは彼の表情をうかがうことができなかった。ただジョンはその場に無言で立ちつくし、ほかの四人と同様、広場に浮かぶ光を凝視しているようだった。
 静かだった。誰一人口を開こうとせず、動こうともしなかった。通りに立つ五人の前方の広場の真ん中で、無音のまたたきと戯れだけがあった。青い光は黒い闇のなかをすいと動いては止まり、くるりと上っては下に降り、時おりちらちらと震え、無造作に点滅する。鬼火というよりは、手の届く闇にふと間違えて紛れ込んでしまった小さな流れ星のような、そんな光だった。
 アルマの脳裏にエーリーンの声が甦る。鬼火の下には宝物が埋まっていて、それは夏至の日に掘り出せるのだと、あの娘はそう言った。――そうだ、あの光が鬼火であったならば、たしかにその下にはいま宝物が埋まっている――ジョンの子どもにとっての宝物が。その子がこの世に生まれ出ようとしていたこと、生まれることを心から望まれていたということの、そのたったひとつの証がいまはその鬼火の下に埋められているのだ。
 青い光はしばしの間、不可思議でとりとめのない、それでいて美しい曲線を描きながら宙を飛んでいた。だが、ちらり、ちらりと二回またたいた後、突如としてふっと闇の奥に隠れ、以後二度と現れようとしなかった。
 一同はその場にしばらく立ちつくし、ただ黒い闇だけになった前方を言葉もなく見つめていた。
 どのくらいとも知れぬ沈黙のあとで、デューラムが呟く。
 「さよならの挨拶か」
 ジョンは答えなかった。石畳の広場をずっと見ているばかりである。彼がどんな表情を浮かべているのか、やはり後ろに立つアルマにはうかがい知れなかった。彼女が見たのは、ただ体の横でぎゅっときつく握りしめられるジョンの拳であり、唇を噛みしめたかのようにぴくりとうなじで震えた首筋の筋肉であり、そして――
 それだけだった。
 アルマは前方に目を戻した。もう何もないその暗闇に、どこからか虫の声だけが、りいんりいんとかすかに響きわたっていた。





 
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