Midsummer Fires 6

SCAPE IN THE DARK.





 飛び交う拳、ブリキの皿、白目(ピューター)のジョッキとカップ、血糊、罵声。時たま凶暴な怒りを浮かべた(アルマの仲間含む)男達の顔と身体が目の前を吹っ飛んでいく。狭い店内の全体が闘技場と化し、粗末なテーブルと椅子は一つ残らずひっくり返っている。所狭しと殴り合いを続ける彼ら二組以外の客は早ばやと皆、別の店に避難してしまっていた。喧嘩は外でやってくれと店主が叫んでいたが、日常茶飯事なのか、その声にもさして必死な響きは聞きとれない。
 「もうやめて!」汗だか酒だか血だかもわからない液体の飛沫が飛んでくるのを手で払いのけつつ、アルマは壁際から声をはりあげて叫んだ。「やめなさい!」
 無駄だった。乱闘の騒音と罵声の中で、彼女の声が誰かの耳に届いたのかも怪しかった。
 そのときちょうど一人の男が目の前でツァランの胸ぐらを掴み、彼をテーブルに押しつけたので、アルマはぎょっとした。慌てて駆け寄り、男を引きはがそうとその襟首を掴む。「やめなさいって言ってるのに!」もう一度そう叫んだと同時に、だが彼女は後ろから何者かに腕を掴まれ、乱暴にひきずり離された。思わず悲鳴が漏れた。
 「女は引っ込んでな、お姉ちゃん!」彼女をひきずり寄せた男が顔を間近によせてそう凄む。
 興奮に血走った男の目に、ざわりと背筋に鳥肌が立つ。「放しなさい!」とっさにそう一声叫ぶと、アルマは近くのテーブルに転がっていたブリキの盆でしたたかに男の頭を殴りつけていた。
 くわぁん、という小気味よい音が、戦場の混沌のなかでなお明瞭に、周囲の空気のなかに響きわたった。男はぐるりと目玉を回し、よろめいたように見えた――まちがいなく、かなり効いたようだった――だが、鍛えあげられた体の警備兵を一撃で粉砕するほど、ブリキの盆も彼女の筋力も強靱ではなかった。男はぎゅっと一瞬目を瞑って意識を戻すと、凶悪無比に目尻をつり上げてアルマを睨みつけた。
 ぐいと男が拳と腕を後ろにひいたのを確認した瞬間、アルマは無意識のうちに手にしたブリキ盆を掲げて来たるべき一撃にそなえていた。再度盆が鳴る――だが、今度は鈍い音で、ぐにゃりという感触とともに。迫り来た拳は、女の力で防ぎきれるものではなく、盆は見事に折れ曲がってアルマの額を撃ち、さらにそれでも衝撃を抑えきれず、彼女は後ろにどっと倒れ込んだ。拍子に背中を近くの椅子でしたたかに打ち、ごほっと空気が肺から押し出される。アルマは床で背を丸めて咳き込んだ。盆を持っていた手がじんじんと痛む。
 「引っ込んでろと言ったのが聞こえなかったか!」盆を思い切り殴った拳の痛みが予想以上に大きかったか、ますます激昂に顔を赤らめて男が迫ってくる。「痛い思いをしたくなきゃ――ぐっ」
 そこで突如男の頭に紙袋がかぶせられたかと思うと、後ろから登場した影が男を横にどつき倒す。デューラムだった。「大丈夫か、アルマ!」
 「大丈夫」アルマが咳き込みながら答えた、だがそのときのことである。
 ――馬のいななき?
 喧噪を縫ってかすかな音が聞こえた。――遠くだ。いや聞き間違いかと、アルマがそう思ったのとほぼ同時に、それまでえんえんとラルフと孤高の殴り合いを繰り広げていたイザクが、相手の隙をついたものか戸口に突進した。そのまま外を覗くと、店内に向かって怒鳴る。
 「衛兵だ! デューラム!」
 「くそっ!」デューラムは素早くアルマの手を引き彼女を引っぱり起こした。「客の誰かが呼んだな! ここを離れるぞ!」
 衛兵――王宮衛兵隊の一部で、市街警備にあたる騎馬兵隊だ。警備団の上部組織にあたり、下部層の人間からなる警備兵たちの上官、お偉方たちである。このところ祭りの熱気が高まるのと同時に暴動の可能性に警戒を強めていた衛兵隊が、下町のあたりまで騎馬巡回を行っていたに相違なかった。いずれにせよ、捕まればやっかいなことになるのは目に見えていた。
 「ちょっと待って」アルマは叫ぶと、ひっくり返った椅子とテーブルの山をかきわけ、壁際の椅子の上でなぜだか幸運にも戦場から隔離されていたダグラスのバグパイプを抱え上げた。デューラムの背中に続いて廃墟の様相を呈している店内を走る。
 店の裏口に突進したデューラムは、そこで表戸のほうに避難しようとしていた店主をひっ捕まえた。店内で大喧嘩が起こっているというのにさっきまで見物をしゃれ込んでいたその店主が浮かべる怯えた表情を見て、アルマは衛兵隊を呼ばせたのはこの店主かもしれないと思う。おおかた、彼ら全員がお縄になれば、慰謝料か何かが衛兵隊から出るのだろう。
 「裏口を開けろ!」店主の胸ぐらを掴んでデューラムは凄む。
 襟元をしめつけられた店主はなにやら声が声にならないように口をぱくぱくさせていたが、異議を唱えようとするかのようにカウンタに手をふんばって抵抗している。そこへ見るからに喧嘩には邪魔そうな長い衣をはためかせて走ってきたツァランが、店主の横のカウンタにじゃらじゃらと硬貨をぶちまけた。
 「修理代だ!」
 銀貨にして数十枚はあろうかというその硬貨の山にちらりと目を走らせるなり、店主は素早くエプロンのポケットから鍵束を取り出した。「こんな迷惑は二度とごめんだぞ!」
 裏口の錠が開き、デューラムとアルマが外に飛び出すのと、表扉が乱暴に開かれるのは同時だった。
 「王宮衛兵隊(ロイヤル・ガード)! 王宮衛兵隊! 総勢ただちに暴乱を中止せよ!」
 背後の店内に太い怒鳴り声が響き渡る。直後、いまだ殴り合いを続けていたダグラスと、それを無理やりひきずってきたイザクが、二人に続いて裏口から転がり出た。
 「早く来い! 何してる、ツァラン!」
 デューラムが叫んだまさにその瞬間、いまだ裏口の内側にいたツァランが、懐から取り出した何かを店内の床に向かって叩きつけた。とたん、どうんという鈍い音と共に、鉄と硫黄が混じり合ったような奇々怪々な異臭が床から吹きだした。もうもうと黒い煙が店の中に立ちこめてあらゆる視界を奪う。その煙の中に、衛兵たちのものらしき驚きの叫びがいくつも響く。煙のかすかな尾をひいてツァランが裏口から飛び出すが早いか、一行は夜の中に走り出していた。









 もうわずかで深夜になろうかという時刻だった。夏至まであと数日を残すばかりといえど、さすがに景色は一面に深い藍色に染められている。建物の影からかろうじて道のありかがうかがえたが、隣を走り前を行くのが誰であるかもはっきりとは識別できなかった。
 アルマはただ、どこに向かうかもわからないまま、前の背中について走った。道を曲がっても曲がっても建物の直線的な影ばかりが続き、いったい自分が街のどこにいるのか彼女にはちんぷんかんぷんだった。しかし、明るかったとしてもさして事情は変わらなかったかもしれない――このあたりはごみごみと裏道が複雑に絡み合い、いくつもの住居をぎゅっと詰め込んだような建物が無数に立ち並んでいる地区のはずだ。街をよく知った者でなければ、アルマでなくともすぐに方向感覚を失ってしまったことだろう。
 だが先頭を走る誰か――離れていて見えないが、ダグラスかツァランだとアルマは推測した――は周囲の地理にかなり明るいようだった。騎馬の衛兵から徒歩で逃げてもすぐに追いつかれるのではとアルマは懸念したのだが、複雑に分岐した迷路のような横道を幾度も折れるに従い、馬の足音はむしろ後ろに遠ざかっていくようにも思われた。
 前の背中に続いて角を曲がると、少し広くなった通りの真ん中に、ずんぐりした人影が佇んでいるのが見えた。「曲がれ。声を立てるな!」影はイザクの声で低く言うと、そこからすぐ左手に見える闇――どうやら狭い裏通りらしきもの――に向かって合図をした。
 「ほら、こっちだ!」アルマのすぐ前の影がデューラムの声で鋭くささやき、一番後ろを走っていた人影の腕を掴んで裏通りに引っ張り込んだ。
 そのままに彼らが声をひそめて表通りの様子をうかがっていると、少しして、衛兵のものとおぼしき幾人もの足音、つづいてひづめが石畳を蹴る固い音が、騒ぞうしく表通りを通り過ぎていくのがわかった。
 デューラムがふうと長い息をつく。イザクが指をちょいと曲げ、裏道の奥をさした。奥に来いということらしい。
 表通りから百フィート(注:約三十メートル)ほど入ると、建物に四方を囲まれた、小さな空き地のような場所が開けていた。裏窓からごみや汚水が捨てられているのか、ぷんと饐えた異臭が漂う。そこには既にいくつかの人影が立っていた。
 「けっこう走ったなあ!」とデューラム。めっぽう体力のある彼だが、あれだけ長い距離を走った後でありながら、すでに息を切らした様子もないのはさすがである。「全員いるか? 明かりをつけられないかな」
 「たぶんもう大丈夫だろう」奥に立っていたぞろりとした長い衣服の影が、ツァランの声で喋った。「少し待て……」
 ぼっと音がして、小さな橙色の明かりがともった。
 「やあ、五人ともたいした顔だ!」細い蝋燭を掲げてツァランが笑う。そう言う本人は喧嘩を引き起こした張本人のわりには傷が少ない。鼻血でも出したのか、鼻の下と薄い唇に乾いた血がこびり付いている程度である。「あなたも奮闘するとはね、アルマ。血が出てます」
 そういえば額に何かがついている感触があった。手でぬぐうとぬるりとした感触があり、アルマは舌打ちした。「たいしたことはないの。たぶん椅子の角かなにかに頭をぶつけたんです。ところでデューラムは大丈夫なの?」
 声こそ元気そうだったが、灯りに照らされたデューラムの顔はさんざんなものだった。片方のまぶたがひどく腫れ、唇も切れて膨れあがっている。鼻血もまだ止まりきっていないようで、上衣の胸元にいくつもの血の染みがついていた。
 「一度に何人もの相手に手を出しすぎたなあ」言うと、彼はぺっと血の混じった唾を吐いた。「まあでも、たいしたことないさ。あとでクリッサに見てもらうよ。しかしなあ、ツァラン、店主に金、払いすぎじゃないのか?」
 ツァランは肩をすくめた。「交渉で時間を食って衛兵隊にとっつかまるよりは、有無を言わせぬ額を払うが良策というものだろう」
 アルマはこっそりと口の中で、納得、と呟いた。翻訳だの写本だのという、通常下町に住む人間がするような仕事ではない頭脳労働をしているはずなのに、どうして彼がいつも貧乏なのかよく分かった気がしたのだ。
 「まあそりゃそうだけどな!」デューラムはあっけらかんと笑って、「それで、全員ちゃんといるか?」
 「そのようだな。一、二、三、四、五……」
 蝋燭を一人一人にかかげて数えていたツァランはそこで言葉を止めた。
 「……どうしたの?」
 「全員いるにはいるが」ツァランは抑揚なく答えた。「全員以上がいる」
 少しの間ののち、デューラムが訝しそうに聞き返す。「……なんだって?」
 ついでその場の全員が、ツァランが視線を向けるその先をいっせいに振り返った。
 蝋燭のかぼそい明かりにかざされ、ただでさえ長い影をさらに長く長く足から闇に伸ばし、一行から少し離れた位置に居心地悪そうに立っているのは、先程まさに彼らが死闘を繰り広げていた相手、
 ――――すなわち<のっぽのジョン>その人だった。






  
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