Midsummer Fires 7

N UNBORN CHILD.
A GIFT UNGIVEN.





 「わざと追(つ)けてきたわけじゃない」
 裏道のはしに立ちつくしたままジョンは言った。どこか決まり悪そうな、だが緊張を漂わせた声で、逡巡するように唇を噛んでからぼそぼそと続ける。
 「ただ暗くて誰が誰だかわからなかっただけだ。おれの仲間らも何人かは逃げおおせたようだが、間違ってそいつらのほうじゃなくこっちのほうに走ってきちまった。おれは夜目がきかないほうでな。だが、いいかげんに気づいてどうしようかと思ってたあたりで、突然誰かに腕を引っぱられてこの裏道に引っぱりこまれた」
 とすれば、あのときデューラムが引っぱりこんだのはジョンだったのか、とアルマは思う。どうりでダグラスにしてはひょろりとしていたわけだ。
 デューラムが困惑したように頭をがりがりと掻く。「衛兵が後ろに来てる音が聞こえていたから、誰かも確かめずに引っぱりこんじまったんだ」
 奇妙な沈黙が落ちた。全員の注意がジョンに向かっていた。だがそれは、血みどろの乱闘がいつまた始まりかねないという一触即発の緊張状態では、必ずしもなかった。それはここにいるのが先程まで容赦なしの殴り合いをしていた相手のひとりだということを考えればおかしな話だったのだが――しかし、間に派手な逃避行をはさんだ今となっては、先ほど煮えたぎっていた敵意も攻撃心も、どこかに霧散してしまったように思われた。酒場では挑発を愉しんでいるかのようにすら見えたツァランは、今は何を考えているのかわからない無表情で、言葉を発する様子も動く様子も見せず、ただじっと蝋燭を掲げているだけだ。先手必勝の殴打で喧嘩の幕を切ったダグラスも、顎を撫でさすってジョンを眺めているだけである。近くに転がっていた大きな木箱に腰かけたイザクは、いつものごとくうんともすんとも口を開かない。だがアルマはとりあえずも、一対多数の一方的な暴虐を行う様子を仲間の誰一人として見せないことに安堵した。――むろん、そのような人間と数ヶ月であれ、つるんできたつもりはなかったが。
 沈黙を破ったのはデューラムだった。「すまん」と、またしても頭を掻きつつ一言だけ彼は謝ったが、それがジョンに向けたものなのか、はたまた彼の仲間たちに向けたものなのかは、やはり不明だった。だが険しい表情で彼らの雰囲気を推しはかっていたジョンも、全身にみなぎらせていた緊張をその言葉でわずかに緩和させたようだった。
 「いや礼を言うよ」ジョンは平坦に言った。「おれも一応、下っ端とはいえ衛兵隊に雇われてる身だからな。喧嘩でお縄になったら最悪クビでも切られかねないところだった」
 「まあなあ」ダグラスが大きな体を壁にもたれさせつつ、「そのへん、警備兵って仕事はご苦労さんなこった。大変だよ」
 ジョンは肩をすくめてそれに答えた。「それじゃあな、おれは行くぜ。お互い、しばらく会わねえことを祈るよ」
 かぼそい灯りに背を向けて遠ざかっていく背中に、デューラムが声を投げる。「……このあたりはおっかない鬼火が出るらしいぜ。気をつけろよ」
 ジョンの後ろ姿が足を止める。
 「出ねえよ」
 肩越しにそう聞こえた声に、デューラムは苦笑した。「――冗談だよ。じゃあな」
 そう言って挨拶がわりに軽く手をあげたデューラムを、だが、振り向いたジョンはじっと眺めた。デューラムがきょとんとして手を下げる。ジョンは小さく鼻を鳴らした。どこか自嘲じみた笑いだった。
 「信じてないわけじゃねえよ。おれの前には鬼火は出ねえと言ったんだ」
 奇妙な台詞だった。デューラムといぶかしげな視線を交わしてから、アルマは思い切って口を開いた。
 「あなたの前には出ないって、どういうこと?」
 答えはない。だが、それは不自然な沈黙だった。だからアルマは躊躇しつつも、さらに聞いた。
 「……鬼火について何か知ってるんですか」
 ジョンはのろのろとアルマに視線を向けた。蝋燭の光の先にようやっと見える彼の瞳は、やはり先ほどと同じように、どことなく表情の読み取りにくい、どこか人を落ち着かない気持ちにさせる色を帯びていた。
 少しの間ののちに、ジョンは低く呟いた。
 「あの鬼火は、おれのガキだからな」









 「おれは三年前までボローハ通りに住んでたんだ」
 木箱に腰かけたジョンは、視線をぼんやりと地面に向けて、そう話し始めた。組み合わせた両手の指が、手持ちぶさたのように時折開かれたり閉じられたりする。
 「汚い通りだが見晴らしのいい屋根裏があって、そこから寺の鐘楼が見えるってんで、女房はあの家を気に入っていた。赤ん坊が生まれたらその屋根裏からヘプタルクの街を毎日見せてやろうと言っていたよ。遠くのでっかいお屋敷に住んでるのは偉いお貴族様だが、そのお貴族様は夕暮れどきに屋敷の屋根が真っ赤っかになるのがどれだけ綺麗かは知らないんだってな。だからそのお屋敷の一番綺麗なところはおまえのものなんだって、ここから見えるヘプタルクの街は全部おまえのものなんだって言ってやろうってな。二人でそんな話をしていた。……女房は子どもを楽しみにしてた」
 一同はひしゃげた木箱にめいめい腰かけ、地面に立てられた蝋燭を囲んでいた。肌がほとんど感知すらしない微風にも小さな蝋燭の光は煽られて、そのつど背後の建物に映る彼らの影がお化けのように伸び縮みする。
 夜はすっかり更けていた。おおかたの夜遊びの時間もとうに過ぎ、酔っ払いはすでに酔いつぶれている時刻である。夏至の近いこの時期、あと一刻もすれば空が明るくなってくるだろう。表通りも人通りはほとんどなく、一同の座る裏道となればなおのこと、物音もなくしんと静まりかえっていた。
 饒舌とはとても言いがたい、抑揚の少ない口調ではあったものの、訥々とジョンはその話を物語った。口数の多い方にはとても見えず、人なつこいようにもうかがえなかったが、あるいはこの偶然の会合の奇妙な雰囲気が、いかようにか彼の舌を軽くしたのかもしれなかった。
 「――そのころおれは仕事がなくってなあ。探しても探しても駄目で、見つけたと思えば数日だの数週間だのでくびになってな。そのたびに、ろくでもない仲間と飲んだくれてた。……だが子どももできるんだから、酒浸りの生活なんぞしてたら別れるぞと脅されて、そんな風に女房に尻をひっぱたかれて、ある日警備兵の仕事を志願しに行った。女房が近所の女衆から聞いてきた仕事口だった。おれに兵隊なんぞ向いてない、仕事をもらえるわけがないと言ったんだがな。
 「なんでか知らないが――ガタイがあるせいか――コネもないのにその仕事はもらえてな。女房に自慢してやろうと思って飲みもせずにまっすぐ家に帰ったよ。そうしたら家で産婆が待ってやがった。臨月だった」
 ジョンはそこで言葉を切った。
 はるか遠くを一台の馬車が通り過ぎていく、そのひづめと車輪の音がごくかすかに聞こえてくる。
 奥さんは、とアルマはおだやかに尋ねた。先ほどの台詞から、子どもがどうなったのかは聞かなくてもわかっていた。
 ジョンはうっすらと苦笑いを浮かべた。「……人ってのはあっさり逝くもんだなあ」そう言ってひとつ息をつくと、アルマの背後の壁の煉瓦をすうと見上げるようにする。
 「おれが家に飛び込んだ時には、もうその手は冷たくなってたよ。身体はどこも悪くなかったんだ。ただお産がちょっとうまくいかなかっただけでなあ」
 アルマは目を伏せた。他の四人も静かにジョンの話を聞いている。
 ジョンはその小さめの目を一度、二度またたかせた。しばし間を置いてから付け加える。「……いや、いつも元気にふるまってたが、無理をしてたのかもしれない。なんせ亭主が飲んだくれだからなあ。そのころ二人分の食い扶持を稼いでいたのは女房だった。身重の体で働きすぎたのかもな。
 「――女房の葬式は出した。だが、それだけで持ち金は底をついた。だから、死んで生まれた子どものために坊さんは呼んでやれなかったのさ。しかたなく、木ぎれを集めて小さな手づくりの棺桶を作った。そうして家の裏の庭に埋めたんだ。粗末な墓標を立ててな」
 ダグラスが着ているチョッキの内側をごそごそと漁り、小瓶を取り出した。中の液体が蝋燭の明かりをかすかに反射して飴色に光る。いつどこでくすねたのやら――ウィスキーである。彼はきゅぽんと闇に響く音を立てて栓を抜くと、ジョンに向かって掲げてみせた。「飲むか」
 ジョンは何も言わずに手を伸ばし、ウィスキーの瓶を受け取った。くいと勢いよく一口あおり、手で口元を拭う。
 「……それからおれはその家を離れた。女房と一緒になってから住んでた家だったからな、少し気持ちを変えようと思ってな。子どもの墓にはいつでも来れると思ってた。このへんに住んでる野郎どもの顔はみんな知ってたしな。それが三年前のことだ。……まあ、だがその家も汚ねえ裏庭も、去年のブルックマンの彫像騒ぎでみんな取り潰されちまった。子どもの墓も石畳になって、どこだったのか皆目検討もつかなくなっちまった。……仕方ねえな。
 「――鬼火ってのは、ちゃんとあの世に行けなかったガキが化けて出たものなんだろう? おれのガキは生まれきってもいなければ、坊さんにあの世にちゃんと送り返してもらったわけでもねえからな。あの世に入れずに、夜にふらふらさまよってるんだろうよ」
 そう言って、ジョンはふたたび苦笑を浮かべた。そうした表情をすると、酒場で見たときの凄みのある印象とはずいぶん違って見えた。弱々しく見えたというのではない。ただ唇の横に刻まれた皺には自嘲の色が濃く、かぼそい明かりの影とあいまって、彼をずいぶん老けて見せていた。
 「どうしてツァランを殴ったんだ?」大きな木箱の上にあおむけに横たわって話を聞いていたデューラムが、おもむろに口を開く。「大事な場所とガキの墓をつぶされたんじゃ、ブルックマン大臣に腹を立てて不思議はないだろ。やつのヒトガタを燃やされたんなら、むしろせいせいしたんじゃないのか?」
 ジョンはすぐには答えず、正面をぼんやり見た。
 「……さあな。なぜだろうな」
 ただそれだけを言って、彼はもう一口ウィスキーの瓶を傾けた。
 壁際に立っているツァランは、だが腕を組んだまま何も言わず、じっと蝋燭の火を眺めているばかりである。その口元からも目つきからも、彼が何を考えているのかは読み取れなかった。
 「奥さん、好きだったんですね」
 アルマの声にジョンは少し眉を寄せた。「惚れてたっていうかな。まあ心残りがなあ。子どもの持ち物をおれがぶんどっちまったみたいでな……いや、女房が生まれてくる子どものために作っていた布人形があってな。どうもあいつの形見のような気がして取っておいたんだ。だが、本当は子どものなきがらと一緒に埋めてやれば良かったんだな。ヘプタルクの全部をそのガキにくれてやろうなんて言っといてな、母親からのたった一つの贈り物さえ渡してやらなかった。……
 「鬼火はおれの前には姿を見せないんだ。あのあたりを見回ってる警備兵のほとんどが何度も見ているのに、おれだけが、まだ一度も見てない。だが無理もない。葬式も出してやらなかったおれのことを、父親だと思えないんだろう。……会いたくないのも当然さ」
 沈黙が落ちる。
 「会ってる女なぞいねえのか」ダグラスが尋ねた。連れ添った相手を亡くした話をしているところに、少しぶしつけな質問ではないかとアルマはちらりと思ったが――だが、そういうものなのかもしれなかった。彼らの空気のなかでは、それでいいのかもしれなかった。だから、何も言わないでおいた。
 「いねえなあ」ジョンはぼりぼりと太股のあたりを掻いた。「探してんだ。いい女がいたら紹介しろ」
 ダグラスが笑う。「いたらおれが先にものにするに決まってるだろう。誰が他の野郎にわざわざ紹介するか」
 はん、とジョンは鼻を鳴らした。「ならこのウィスキーは女の代わりにもらっとくぜ」
 「おまえ、ウィスキーは嫌いだとぬかしたくせにがぶがぶ飲みやがって!」ダグラスは呆れたように、「まあ、いいぜ。くれてやるよ。倍にして返してもらうがな」
 ジョンは少し笑った。それから、や、つまらん話をしたなと言うと立ち上がる。「身の程も知らずに身の上話なんぞすると、ろくなことにならん。ま、誰しも酒が入ると感傷的になるってことで、勘弁してくれ」
 つまらないことなんてありません、とアルマはかぶりを振った。われながら下手な言葉だと思ったが、それ以上にうまい言葉は見つからなかったのだ。
 ジョンはすいと肩をすくめた。「じゃあ今度こそおれは行くぜ。またな」そう言い残すと、こちらに背を向けて歩き出す。
 「……まあ待て」
 ツァランだった。
 ジョンが足を止めて振り返る。
 アルマは少しぎょっとした。――この男はまたもや何かをまぜっかえす気だろうか? 少なくともツァラン特有の皮肉や挑発が、いまこの空気に適切とは思えなかった。黙って見送ればいいのに――
 デューラムもどうやら同じことを思った様子だった。ツァラン、と鋭く名を呼んで牽制する。
 だがツァランはそれを無視した。奥の石壁に背を預け、鷹揚に腕を組んだそのままの姿勢で、「あんたの子どもがさまよってるのは、きちんとした葬式を出してやらなかったからなどではないぜ」
 ジョンは疑い深げに裏道の奥を見返した。だがツァランは声音を崩さない。
 「……偉い神父や坊主が見送らずとも、この世に未練を残さなければ、死人は勝手に向こうに行くものだ。……あんたの子どもはその布人形がほしいのだろう。自分の母親が作ってくれた人形がな。そいつを子どもにくれてやればいい。子どもが無事に生まれていれば与えられていたはずの、その人形を」
 ジョンは目を細め、奇怪なものを見るような目つきでツァランを見つめた。何かを言おうと口を開き、それから神経質に唇を歪めて笑う。「――ばかばかしい。何を言い出すかと思えば、墓を暴けっていうのか。ばちあたりにも程があるぜ。しかも、もうあのあたりは石畳になってる。ひょっとしたら棺桶はまだ残ってるかもしれんが……」
 「べつに棺桶まで暴く必要はない。棺の上か、もしくは棺を埋めたその場所の、石畳の下の土に埋めてやればいい。そうすれば死人には手が届く」
 「何故おまえにそんなことがわかる」
 ツァランは唇の片側を吊り上げた。「おれは魔法使いだからだ」
 答えはただそれだけだった。平坦なその口調からも表情からも、彼が冗談を言っているのか否かすらうかがい知れなかった。
 ジョンはしばらく厭わしげにツァランを見ていたが、それから一行を順繰りに見回した。その視線が最後にダグラスに向かうと、ダグラスは眉を持ち上げて肩をすくめた。
 ジョンは渋面を作って地面を見つめた。ばかばかしい、ともう一度繰り返し、それから当惑したように視線を泳がせた。
 長い沈黙ののちに、またしても静寂を破ったのはデューラムだった。ようし、と言うとぱんと手を叩いて立ち上がる。
 「手伝うぜ。どうせ退屈してたんだ。坊さんを呼んだ葬式ができなかったんなら、これからみんなで鬼火のとむらいをしてやりゃあいい。だいいち、夏至の夜に宝探しをするんじゃなくて、宝をおれたちが埋めてやるなんて――ちょっと洒落てるじゃないか!」






  
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