oophole.

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 雨は翌日の朝方にやんだ。日が少し高くなってきたあたりで、ツァランは二日酔いに痛む頭を抱えながら家を出た。酒精をできるだけ飛ばそうと、寝る前も起きた後もしこたま水を飲んではいたのだが、流しこんだ火酒の量がさすがに多すぎたようだ。
 そのままイジー通りに足を向ける。ふだんツァランが夕方か夜にしか来ない東の下町は、昼前に来てみるとまた別の風景を見せていた。記憶の中では騒ぞうしい酒場や食堂であったはずの場所には、今は門を閉ざしてひっそり佇む建物群があるだけだ。代わりに、近隣の狭い裏庭で並んで洗濯をする女たちや、まりつきをする幼い子どもらの姿、それから、なめし革の巨大な包みを背に急ぎ歩いていく露店商人などの姿がちらほら見えた。
 文具店にたどりついてみると、店は閉まっていた。ツァランは少し驚くとともに、嫌な予感をおぼえた。この店は安息日以外は昼前から店を開けているはずだ。今日は安息日ではない。だとすれば、特別に休みをとったということだ。
 何かがあって。
 開店中は開け放しになっているが、今は閉ざされている扉を、ツァランはノックした。しばらく待つが、返事はない。どうしたものかとツァランは思案した。
 (待つか)
 扉の前で座り込むとすれば、かなり目立つ姿である。なぜそんなことをしているのかをてっとり早く説明する口実をどうでっちあげようかと、ツァランが思案していると、横から「お客さん」と声がした。振り向けば当の文具店の店主である。しばらく見ないあいだに、ずいぶん老け込んだようだった。
 「こりゃ失礼しました」と店主は言った。「久しぶりなのにすいませんが、今日は店は開けてないんです。ちょっと野暮用で」
 「そうですか」とツァランは言った。「それは残念だ、しばらく来られなくて、紙もインクもずいぶん尽きてしまったんだが、買うならぜひここの商品をと思って我慢していたのでね。――ところで何か悪いことでも、ご主人。あまり顔色がすぐれませんが」
 ええ、まあ、と店主は言いよどんだ。その苦笑のなかに、おおっぴらに喋りたくはなさそうな気色が垣間見えていた。ツァランはもう一押しを試みた。
 「何か力になれることがあればお聞きしますが。お望みなら他言はしません」
 店主はばつの悪そうな顔をして、あたりを少し見回した。それから小声で言った。
 「実はうちの娘が見えなくなって」
 「娘さんが?」
 「いや、たいしたことじゃないんです、すぐに戻ってくるはずですんで」
 (間に合わなかったのか)
  ツァランは内心の焦燥を表に見せないよう押さえ込み、極力自然な驚きを装った。「それは大変だ。いつからです」
 「今朝、なかなか起きてこないんで部屋に入ったら、寝台がもぬけのからでして。最近あいつ、体を少し悪くしていて、伏せっていたんですよ。だから心配になりまして。昨夜はたしかにそこで寝てたんですけどねえ。いやあ、夕方になったらひょっこり帰ってくるんじゃないかと思うんですけどねえ」
 「では、今は治安衛兵の詰め所から帰ってこられたのですか」
 「行こうと思ったんですが、さすがに今朝の今じゃ相手にしてくれないかとね。このあたりでほかに店を開いてる知り合いや、娘の友達なんかに聞きに行ってたところです。夜になって帰ってこなけりゃ、詰め所に行ってみますよ」
 ツァランは少し考え、それから聞いた。
 「娘さん、お体の調子が悪かったとおっしゃいましたが、どのような具合だったので?」
 「いえ、たいしたことじゃないんですよ」
 そう言って、店主は茶を濁そうとした。だが、市壁近くの館に住む降霊術師が自分の知り合いであることをツァランがほのめかすと、観念したように溜息をついて、「じゃあ、お客さん、みんなご存知なんで」と言った。
 それから店主はちらちらと周囲に目をやると、懐から鍵を取り出して扉を開けた。「――中に入って話して行かれますか」

 ツァランが通されたのは、カウンタを通り過ぎ、少し奥に行ったところにある小さな食堂だった。作りも家具も古臭く、こじんまりとはしていたが、よく手入れと掃除の行き届いた気持ちのよい家だった。
 「奥方は」とツァランは聞いた。
 「運の悪いことに、今はちょうど実家の親のめんどうを見に行ってるんで。あさってに戻ることになってますが」
 ツァランは店主が出してくれた水に口をつけた。よく冷えた水の清涼感が心地よい。彼は家の中をぐるりと見回し、
 「良いお宅だ。ここにはいつからお住まいで」
 「店を開いたころからですから、二十年ほど前ですかねえ。嫁と一緒に入りまして、それからしばらくして娘が生まれて」
 「その前にはどのような人が?」
 「さあ、よく知りませんが、裁縫屋か仕立て屋だったかな。けっこう持ち主の変わっている家のようで――。その前には長く空き家だったと聞きましたな。この家も、両隣もそうです」
 空き家、とツァランはつぶやいた。もしもネイエドリの隠れ家がこのあたりだったのなら、表向きは空き家ということになっていたのだろう。つじつまは合う。
 「娘さんがいなくなったということですが、たとえば屋根裏や物置などは調べられましたので?」とツァランは聞いた。「娘さんは多少の心神喪失状態に陥っていると知人から聞きましたが、――だとすれば、普段人が見ないところにもぐりこんで眠っているのかもしれない。あるいは、そう、地下室とか。……よければ、ぼくも探すのをお手伝いしましょうか」
 「地下室は、ええ、あります、さっきも覗いてはみたんだが」と店主は歯切れ悪く、「いや、だが、実を言うとわしはどうもあの地下室が苦手でね、何しろ暗くて湿ってますんで。さっきもきちんと見られてるかどうかわからないんで。そうですな、むしろ外の人に見てもらったほうがいいのかもしれません」
 そこで二人はめいめいランプを手に、家の地下室に向かった。暗い階段を下りて、つきあたりの横の扉を開けると、そこが地下室だった。窓のない部屋で、昨夜の雨の湿気が溜まっているのか、むっと空気がこもっている。かすかにかびの匂いがした。
 ツァランは部屋に足を踏み入れる。店主が壁際の棚に歩み寄って、さらに二つの燭台に火をともした。そこでようやく、地下室は全体をぼんやりと見わたせるくらいの明るさになった。
 ツァランは入り口の近くから壁に沿いながら、注意深く部屋を検証していった。角にある衣装棚、床に並んだ甕、藁、瓶詰めの並んだ棚。どこにも変わった点はなく、出入り口も彼ら二人が入ってきた扉だけだった。
 「何もいませんで」と店主が肩をすくめる。
 ツァランはもう一度、角の衣装棚の前に戻った。保存食の貯蔵にだけ使われているかのように見える地下室で、そこの角にだけ衣装棚が設置されているのがどうも不自然に思われたのだ。少し触れてみたが、動かない。壁に固定された、つくりつけの棚になっているのだ。
 「この衣装棚は?」ツァランは店主を振り返って尋ねた。
 「そいつは使ってません」と店主は答えた。「わしらがここに入る前からあったんです。越してきたときには同じような形の衣装棚が壁一列に、三つか四つほども並んでいたんですがね。地下室にこんな棚はいらないんで、ほかのは上にどかしたんですよ」
 「ほかのは動かした?」ツァランは眉を寄せた。「つまり、その三つか四つの衣装棚のなかで、この一つだけが壁に固定されていたんですか」
 「そうです」
 奇妙な話だとツァランは思った。
 「開けてもよろしいですか」
 「何も入っとらんですよ。わしもさっき念のために開けてみたんですがね」
 店主が言ったように、衣装棚の中は真っ暗で、空っぽだった。ツァランはランプをかかげ、身を乗り出して中を覗き込んだ。じっと背板を眺めてみるが、とくに継ぎ目があるわけでもなく、なんの変哲もないもののように見える。ツァランはトントンと背板を指で叩き、それから軽く押してみた。
 動く様子はない。
 (押して駄目なら)
 「ねじ釘と錐はありますか」とツァランは店主に言った。「それから、丈夫な長めの紐も」
 店主は変な顔をしたが、すぐに頼んだ品を持って上から戻ってきた。ツァランは礼を言い、それから「少し傷をつけますよ」と断りを入れた。
 「かまいませんが、どうするんです」
 「手前に引きます」
 「引く?」店主が怪訝そうに、「なんで、また」
 ツァランは答えず、背板に二箇所、錐で穴を開けねじ釘を差し込んだ。そこに紐をひっかけ、思い切り手前に引く。
 動かない。
 「手伝ってもらえますか」とツァランは言った。店主はツァランが何をやっているのかさっぱりわからないといった表情で、だがしぶしぶツァランの差し出した紐の片端を握った。せいのと声をかけ、二人で手前に一気に引く。動かない。
 (違ったか)
 ツァランは思う。「もう少し、力を入れられますか。一、二」
 ――と、
 ず、と背板が手前にずれた。わずかに開いた背板と横板のあいだに、ちらりと深い闇が覗く。
 隣の店主が息を呑む。
 興奮に喉が詰まる感覚があった。ツァランは唾を飲み込み、背板に駆け寄ると、開いた隙間に指をねじ込んだ。体重をかけて思い切り前に引く。
 「こりゃ、なんだあ」
 店主が呆然とつぶやいた。
 ツァランが手前にこじ開けた、棚の背板のその奥。横から続いているはずの壁は、大きく巧妙にくりぬかれ――
 そこには、代わりにぽっかりと闇が広がっていた。


 「こんなもんが――あったとは」
 隣で店主が呟いた。声から力が抜けている。当然だろう、自分の家の地下室が得体の知れない地下道につながっていることを、彼は二十年も知らずに暮らしてきたのだ。
 「なんなんですか、学士さん、これは」
 「昔、名を世に知られた大怪盗がおりましてね。その盗人のアジトがこのあたりにあったんです」ツァランは簡潔な説明になるよう言葉を選びながら、「その男が作った抜け穴でしょう。もしかして、娘さんはこの抜け穴のことをふとした拍子で知るにいたり、ここを抜けてどこかに行かれたのかも知れません」
 「いや、そんなわけが」と店主は慌て、「こんな、先に何があるかわからん場所に――わしだって、こんなものがあるなんて知りもしなかったんです。うちの嫁だって、娘だって」
 「若い少年や少女は、こういう不可思議な出入り口には異様なほど詳しいものですよ」とツァランは言った。「ぼくがこの奥を探してきましょう。ご主人は念のためここで待っていてください」
 「待ってください」店主は叫んだ。「なんぼなんでも、衛兵を呼んだほうがいいのじゃないですか。お一人じゃ危ない」
 「いや、急いだほうがいいでしょう。じっさいに娘さんがいなくなってるんです」とツァランは答えた。「だが衛兵にしてみれば、たった半日ほど一人の街娘が家に帰っていないという、それだけのことです。長年住んでいる家の地下に秘密の抜け穴を見つけたと騒いでも、今の時点では相手にしてもらえないでしょう」
 「そうは言っても」
 「だが、かわりにお願いすることがあります」とツァランは言った。「これから、都の南にある<まだらの竜>という酒場に行ってください。そしてそこの店主に、ぼくの知人が来たらすぐにここに向かうように、と伝えてください。ぼくの名は――」
 「ツァランさんで」
 ツァランは眉を上げた。「そうです」
 お得意さんですから、と店主は呟いた。ツァランは苦笑すると、ランプをかかげ、衣装棚の中に足を踏み入れた。と、
 「あの、お客さん」
 店主のくぐもった声に、ツァランは振り返った。
 「変な質問だが、どうしてうちの娘のために、そこまでしてくれるんで。もしかしたら娘と何か――」
 「おたくの店にはよくしてもらいましたのでね」とツァランは店主をさえぎって言った。「娘さんにも親切にしていただいた。なんと言ったか、名前は、……」
 「ブラジェナです」
 「そう、ブラジェナ」
 ツァランは微笑した。「では、<まだらの竜>のほうを、よろしく」
 






 その抜け道は狭かった。中背のツァランでも、顔を上げれば鼻の先に触れそうな位置に天井がある。幅も、両手を軽く横に開けばすぐ左右の壁に触れられる程度しかない。土を掘りぬいただけの簡素な道で、床はじっとりと湿ってところどころが泥の水溜りになっていた。ところどころ、天井土が崩れぬように太い木材で支えがしてある。
 左右にゆるやかに蛇行しながら伸びる道を歩いてゆくと、すぐに背後の入り口は見えなくなった。狭い道であるから壁や天井は小さなランプでも十分に照らしえたが、前後はわずか一、二ヤード(注:一、二メートル弱)しか見ることができない。暗く湿った閉塞感を、ツァランは感じた。彼の靴が立てる足音も、微細な壁土の粒子にすべて吸い込まれてしまい、すぐにあとかたもなく消えてゆく。地中深く一人生き埋めになったとすればこんな感覚を抱くだろうかと、そんなふうにも思われる不気味さだった。
 この先はどこに続いているのだろう、とツァランは考える。別の家の地下室へとつながっているのだろうか? あるいはこのまままっすぐ伸びて、市壁の外へと脱走者を導いていたのだろうか。
 そしてネイエドリもまた、八十年前、この同じ抜け道をたどって生き延びたのだろうか。
 追っ手から逃れ、生き延びて――今もなお?
 名の知られたおたずね者の彼は、ふたたび追われ捕らわれるのを恐れ、太陽のあたる場所に二度と出ることもなく、地上の世が巡りゆくあいだ——人びとが喜怒哀楽を生き、生まれては死んでいく数十年のあいだ、この土の中で、じっと息をひそめていたのだろうか。
 そうして地下の獣に身をやつしたかつての怪傑は、八十年の後のある夜、ふとしたことから失恋に泣く一人の娘と出会った。そのとき、世をはかなみ情を求める女を食い物としていたかつての本能がよみがえったと、そういうわけなのだろうか――
 だとすれば、自分は説得するのか、ブラジェナを? その男は化け物だ、おまえを食い散らかすだけのけだものだと、そう言って聞かせるか?
 どの口で?
 ツァランは溜息をつく。 
 (あの親父が不思議がるのも無理はない)
 いったい自分は何をしているのかと、我ながら呆れる。行く手に何があるとも知れない、否、いつ崩れるとも知れぬ怪しい地下道に、あてもなく、小さなランプだけを頼りに、たった一人で乗り込むなどと。肉体派でもあるまいに、がらでもない――。
 ふと、ツァランは目の前に開けた光景に眉を寄せた。狭い土壁の道が、前方で左右に開けている――分かれ道だ。
 用心深く前に伸ばした片足が、かつんと音を立てて下方の床に触れる。石だ。石の床。ツァランはランプをかかげ、土壁の道から分かれ道に半身を突き出し、目を凝らして周囲をよく眺めようとした。石の壁――光が届かぬ高い天井――左右に長く延びた闇。
 土の抜け穴が、石の廊下と接続しているのだ。
 (こいつは驚いた)
 ツァランはランプをかかげる。かすかな明かりではぼんやりとしか分からなかったが、周囲の石壁がおそろしく古いものだということだけは分かった。ひょっとすると数百年以上昔に作られたものかもしれない。ツァランは通路の一方向にゆっくりと歩き出しながら、感嘆の念をおぼえずにはいられなかった。
 (ネイエドリはこの古い地下道の存在を知っていて、こことあの隠れ家の地下室を接続するために、あの土の抜け穴を作ったのか)
 しかし、だとすれば、この地下道はいったいどこまで伸びているというのだろう。ひょっとすると……ヘプタルクの都中の地下に、こんな地下道が張り巡らされているとでもいうのだろうか。
 まるで地下迷宮のように?
 (まさか、そんな地下道の存在に触れた歴史書は見たことも聞いたことも……、)
 と、そのときのことである。
 いっさいの前触れもなく、突如耳元で甲高い音が鳴り響いた。完全に意表をつかれて立ちすくんだツァランの視界に、間髪いれず何か黒いものが覆いかぶさってきた。声を上げる間すらなく、ツァランは恐怖と驚きと防衛本能で大きくあとじさり、よろけて石壁に倒れかかった。宙を舞い来たその襲撃者は一体にとどまらず、次から次へと彼の体をかすめ、頭に飛びかかってくる。迫りくるその無数の何がしかに対し、ツァランは必死で腕を上げて頭を守った。腕に、首に、ばちばちと何かが当たる感触がある。やわらかく――羽毛のような――だが中に尖ったかぎ爪が——、
 蝙蝠だ。
 一陣の突風のように襲ってきたその蝙蝠の群れは、あっという間に彼のそばを通り過ぎ、キイキイと口々に泣き叫びながら去っていった。  そろそろと顔を上げ、黒い小さなものの群れが完全に行ってしまったのを確認してから、ツァランははーっと長い息をついた。予想だにしない遭遇だったので、すっかり度肝を抜かれたが、ただの蝙蝠ならば害はない。さて、体を起こし、歩みを進めようとして――
 そして、ツァランは自分がランプを失っていることに気づいたのだった。


 完全なる無明のなかで、ツァランは途方にくれて立ちつくした。絶対に手放してはいけないものを、とっさの驚きで床に落としてしまったのだ。しかし悔やんでも後のまつりだった。おそらくどこか近くに転がっているが、拾い上げたところで栓はない。この地下で火はともせない。まさかこれほどの規模の地下通路があるとは思わなかったから、ほくち箱も何も持ってきてはいない。
 幸運だったのは、まだ自分がやってきた土の抜け穴から遠くに離れてはいなかったことだ。手探りで石壁をたどってゆけば、土の抜け穴にたどりつくことはできるはずだった。そうすればもときた場所までは一本道だ。まだブラジェナの痕跡はつかめていなかったが、このまま灯りもなしに、先がどう枝分かれしているかもわからぬ地下通路を進んでいくことは自殺行為だった。
 石壁にもたれかかって前後左右を確かめながら、ツァランはつのる焦燥感を抑えようと、あえて苦笑する。これほどの闇は久しぶりだった。目を開いているはずなのに、閉じているのとまったく変わりがない。盲目になったかと錯覚するほどだ。ふだん目ばかりに頼っていた彼の体は、いったん視覚情報を失うと、上下の感覚もおぼつかない――。
 (まさか反対の方角へ進んではいまいな)
 先ほどの蝙蝠のせいで、前後左右が混乱してしまっている。壁を伝いながら適当な方向に検討をつけて歩き出したが、不安がないわけではなかった。しばらく行って土の抜け穴にたどりつかないようであれば、引き返すよりほかない。
 ふと、つま先が何かにこつんと当たる感触があり、ツァランは足を止めた。行く手に何かが置かれている――何か棒状の硬いもの――、硬くて軽いものだ。
 先ほど来た道の途上には、こんなものは確かになかった。したがって、やはり彼は反対の方角に歩いていたということになる。ツァランはため息をついたが、とりあえず目の前にあるものを確かめようと、しゃがみこみ手でさぐった。布の感触——棒状のものに布がかぶさっているのだ。その棒は長く伸びてふくらみ、やがてほかの棒と組み合わさり――より大きな布の塊へと――
 (人の足?)
 ツァランはぞっとして手を引いた。まちがいない、彼が触れていたのは人間の脛から膝、腿にかけての骨である。彼は完全なる闇の中、人間の死体を己が手でまさぐっていたのだ。
 ツァランは何度か大きく深呼吸をした。――不気味がっている場合ではない。落ち着け、落ち着いて考えろ。これは誰の死体だ? その朽ちた感触からして、まずブラジェナの死体ではありえない。では誰の、いつのものなのだ。
 ツァランは意を決し、ふたたび手の感触だけに集中して、目の前の死体を検証する。視覚情報を奪われ、色も形もわからなかったが、衣服の布の感触だけはわかる。もろく破れかかっている……。その衣服をまとった足は骨ばかりで、肉はすっかりなくなっている。朽ちはてて骨と皮だけになっているのだ。あきらかに、ずっと前に死んだ人間だ。何年も、あるいは何十年も前に。
 しかし、何者の死体なのだろう。あの地下室の抜け穴は向こう側からは隠されていて、何十年もそのありかは知られていなかったはずだ。では、この地下通路のどこかがやはり地上に通じていて、そこから迷い込んだ何者かがここで力尽きたのだろうか――。
 ――いや、それよりも先に、もっとも可能性の高い人物がいるではないか。
 (すなわち、当のネドバル・ネイエドリだ)
 では彼はここで死んだのか。八十年前のあの夜、数百の兵に追われ、深い傷を負いながらもなんとか隠れ家に逃げ込み、秘密の通り道を抜けた。そして、衣装棚のトリックに気づかなかった兵たちを撒き――。なんとか生き延びる可能性を手にした、その後で――
 力尽きたのか、ここで。
 受けた矢傷が内臓にまで届くものだったのか。ここまで這いずって、逃げて、逃げようとして、そしてここで動けなくなり、死んだ。
 そうだったのか?
 あわれな魚屋の三男坊を縛り首にせずとも、ネイエドリは誰にも知られず、この地下の闇の中で死んでいったのか。
 
 ツァランは溜息をついた。
 (とにかく、戻らなければ)
 いずれ必要なのは、灯りを取ってくることだ。何もかも、確かめるのならばそれからだ。とにもかくにも反対の方向に向かっていたことはわかったのだから、逆向きに行けば戻れるはずだった。ツァランは死体をそのままに、立ち上がってもときた方向を振り向こうとした。

 背後に何者かの気配を感じたのは、そのときだった。
 
 




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