yes in the Darkness.

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 息の音が、すぐ頭の後ろで聞こえた。つづいて首筋の血が流れるところに、ひやりと冷たいものが触れた。
 全身の肌が緊張し、総毛立つのがわかる。
 手だ。
 何者かの手が、背後から彼の喉元を覆うようにぐるりと巻きついたのだ。
 ツァランは声なく息を呑んだ。押し殺そうとした自分の喉の動きは、しかし思いのほか大きく、急所が長く骨ばった指に当たる感覚があった。
 少しでも動けば次の瞬間、喉仏を握りつぶされかねない予感に、背筋を不愉快な汗が伝う。
 だが、首に巻きついた手に力がこもることはなかった。ただツァランの喉もとの太い血管と、呼吸の気の通り道とを、覆い掴むように押さえたままじっと動かない。
 ツァランは目を閉ざし、喉もとの感触を吟味した。ひらかれた親指が一方の耳の下に、他の四つの指が反対側に。手全体がおおよそツァランの首を半分以上も覆っている。大きな手だ。とても大きな手。
 ツァランはゆっくりと息を吐きながらたずねた。
 「ネドバル・ネイエドリ?」
 答えはない。
 「八十年をへてなお、おまえはこの地下をさまよいつづけているのか?」
 二度目の問いへの答も、やはり沈黙のみだった。喉もとの手はなんの反応も見せない。
 ツァランはもう一度、深く息を吸って、それからゆっくりと吐いた。……何を言うべきか。何をすべきなのか。これは何者なのか? ネドバル・ネイエドリでなどありうるのか?
 自分はここで死ぬのか。できることは何かあるのか?
 わからなかった。だが思考が答えを見つけ出す前に、言葉が口をついて出た。
 「ネドバル・ネイエドリ、おまえが何者であるかは聞かない。だが、もしこの地下道につながる家の娘をとらえたのがおまえなら、あの娘は帰してやるがいい。あれはまだ、もときた世界で生きるべき娘のはずだ。おまえが数十年前に惑わし、殺し、あるいは連れ去った幾人もの女たちが、おまえに唆されたときどのような境遇にあったのか知るよしもないが」
 小石か何かを踏みにじるごく小さな音が足元から聞こえた。背後の何者かがわずかに身じろぎしたのだ。首にかかった手は動かない。力もこめられはなしない。
 否――ツァランの顎のすぐ下を押さえる親指と長い人差し指が、ふと首の皮膚と筋肉に少しだけ沈み込む。息苦しさがわずかに募る……。
 ツァランは目を閉じた。
 そのまま長い時間がすぎた。
 こめかみに浮かび上がった汗の粒がしだいに大きくなり、つうと垂れて頬を伝い、ゆるやかに顎の線を伝って、その「手」に落ちるのがわかった。ツァランは体の両脇に力なく垂れたままの自分のこぶしを静かに握りしめた。爪をてのひらの皮膚に深く食い込ませ、その感覚に集中することによって、恐怖が思考を押しつぶすのを防ごうとする。まぶたをうっすらと開き、また閉ざしても変わらぬまったき無明は、液体の中にいるような、密度の濃い、息苦しい緊張を、彼の五感に伝えていた。
 ざりと床で音がして、背後の気配がふたたび身じろぎした。「手」を動かさぬまま、ゆっくりとツァランの周囲を回り、彼の前方に移動する。静かな足音……かすかな衣ずれ……。
 次の瞬間、ツァランは壁に叩きつけられていた。
 背と後頭部をしたたかに石の壁で打って、ツァランは目を見開いて喘いだ。気管の詰まる感触に上体を折り曲げようとするも、首に張り付いた手はそれを許さなかった。ツァランは身体を痙攣させるように幾度か咳きこみ、その何者かの手を思わずかきむしって自由になろうとしたが、無駄だった。その「手」の力は恐ろしく、彼のあがきに対しても微動だにしない。一瞬、彼の指が相手の腕に触れる。やはり生きているとも思えぬほど冷たく、獣のように毛深い――
 「手」はツァランの喉仏を正面から押さえ、彼の体を壁に押しつけている。ぎりぎり気道が確保されてはいるが、すぐに首を絞められる状態、ひとひねりで彼を殺せる状態だ。ツァランは細くせばめられた気道で喘ぐように空気を求めながら、目の前の闇を凝視した。目と鼻の先、文字通り息の触れる距離に何者かの顔があって、自分をじっと見つめている気がした。
 異様なほど濃厚な視線の感覚に、目のきわの粘膜と唇の皮膚とがちりちりと疼いた。完全に己が手中に命運を握ったツァランを――束縛からの解放と空気を求めて力なくあえぐ弱弱しい獲物を――、その者がいかなる表情で眺めているのかは、だが、わからない。その顔に浮かんでいるのは、怒りか、憎悪か、軽蔑か、あるいは嘲笑なのか? もしくは目の前にいるのは、人間的な情さえ見せぬ化け物であるのかもしれない。そうだ、八十年前に世を騒がせた怪人がこんにちもなお生きつづけているというのなら、長い四肢で地下を這いずる白い悪魔が実在するというのなら、その真の全貌が人間の正気では信じえぬような怪物であったとしても不思議はない。この闇の中で誰が知ろう? ずらりと鋭い牙の生えそろった巨大な口が、いまにもツァランの首を食いちぎろうと、目の前でぱっくりと開かれているかもしれぬではないか。
 「そうだ、ネドバル・ネイエドリ、あの娘を拒絶したのはおれだ」
 ツァランは言った。喉仏を押さえつけられて声はしゃがれ、途切れ、時折ひゅうひゅうと呼気の音が混じった。
 「――あの娘が世をはかなんだのも、すべてはおれのせいかもしれん。だがそれでもおれは言ってやろう、どれだけ無責任であろうともな。あの娘を返せ、ネドバル・ネイエドリ。あの娘はまだ彼女の生まれた世界で生きられる」
 そのときのことである。ツァランは確かに暗闇の中に二つの目を見たのだった。その双眸は金属的な緑色に光っており、瞳孔は針のように小さく、だが黒々と瞳の中央に穴をうがって、異界の混沌へとつながっていた。二つの目はわずかに見開かれ、そして細められ、最後にツァランの言葉に応答するかのように、たった一度だけまたたかれた。
 のちにツァランは何度もこのまたたきを思い返したが、なぜ完全なる暗闇の中、反射する光も一筋とてないあの地下深い石廊で、何者のものであれ瞳がああした明滅を発しえたのかは、どれだけ考えてもわからなかった。あるいは窒息するまぎわまで追いやられたツァラン自身の混濁する意識が、己が目のちらつきを何者かの瞳のまたたきと錯覚させたのかもしれなかった。
 すっと喉の手の感触が消えた。
 ツァランは崩れ落ちるようにして地面に膝をつき、二度、三度と大きく咳き込んだ。締めつけられていた喉から吐き出された息は、かすかな血の味がした。
 再度ざりと足音がした。気配はツァランから少し離れた位置に少しのあいだとどまっていたが、やわらかでかすかな足音を立てながら、ゆっくり、ゆっくりと遠ざかっていった。
 ツァランは背中を壁にもたせかけ、大きく息を吐いた。
 ――解放された。
 なぜかはわからない。だが何かしらの理由か気まぐれによって、その何者かはツァランを手にかけることを途中で放棄したのだった。
 シャツが背中に冷たく張りついている。全身にびっしょりと汗をかいていたのだ。首の皮膚には先ほどの指の感触がまだ明瞭に残っていた。
 ツァランは立ち上がると、のろのろと石壁に沿った歩みを再開した。ほどなくして、先ほどの土壁の通路への入り口、すなわち文具店の地下室に通じる抜け穴の場所までたどりつく。
 石床と土の地面の境界をまたぐようにして抜け穴に戻ろうとしたとき、またもや足が何かに触れて、ツァランはぎょっとした。
 (何だ?)
 大きな塊。
 この道をやってきた先ほどは、あきらかにこんなものはなかった。抜け穴は人一人がやっと通れる幅だったから、あればすぐに気づいているはずだ。
 下方に手を伸ばして塊に触れると、やはり今度も布である。だが先ほどの死体のまとっていた襤褸布よりはなめらかで、しなやかな触り心地だ。布を通して、その下の弾力あるものの感触が伝わってきた。
 (脚だ)
 朽ちた死体ではないものの脚。
 つづいて腰、腕から肩とおぼしきやわらかな曲線が手に伝わる。まっすぐな長い髪……。
 ツァランは首の肌に触れてみた。暖かかった。
 「ブラジェナ」とツァランは呼びかけた。
 反応はない。ツァランは地面に膝をついて彼女を抱き起こした。「……ブラジェナ?」
 首筋にもう一度手を押し当ててみると、脈は規則正しく打っている。気を失っているのだ。
 そのとき、おおい、と声が聞こえて、ツァランははっと顔を上げた。いくつもに反響してはいるが、前方、すなわち文具店の地下室の方向からだ。そして、あれは聞きなれた飲み仲間の……
 ちらり、ちらりと橙色の灯りが揺らぎながら近づいてくるのが見えた。
 「デューラム!」ツァランは叫んだ。「こっちだ。来てくれ!」
 






 その後しばらく、ツァランはあの抜け穴が石の地下道につながっていたことを誰にも話さなかった。
 いずれ、あれが何なのかを突き止める必要があるとは思っている。このヘプタルクという国に、正史には記されぬ様々な謎が息づいていることは彼自身もうすうす気づいていたが、あの地下道はその奥行きの深さをまざまざと感じさせるものだった。だが機がまだ熟していない気がした。危険をともなうやも知れぬその不思議の中に踏み込んでいく前に、さまざまな条件を整える必要があるように思われたのだ。
 ひょっとすると、助太刀に来た仲間たちと灯りを持ってすぐに引き返せば、あの日地下道で出会ったのがいったい何者であったのか、それだけは確かめられたのかもしれない。
 だが不思議と、そうする気は起きなかったのだった。
 今となっては、もう確認しようのないことである。
 もっとも合理的に考えるならば、あれは正気を失ったブラジェナだったということになる。ブラジェナは失恋のショックであらぬ妄想を抱くようになり、自分の心が創り出した「誰か」と地下で話をしていた。そして抜け道を発見した彼女は、行方が知れなくなったあの日も、半ば夢見心地で穴の中に入り込んでしまったのである……。
 しかしあの重い、取っ手のない隠し扉は、持ち手とするための釘と紐を用いて、さらにツァランと文具店の店主とが二人がかりでようやっと引き開けることのできたものである。それを、ブラジェナは地下室側から素手でこじあけることができたというのだろうか。
 そして、あの日背後からツァランの首に回された手はなんだったのだろう。女が下から彼の首に手を回してくれば、感触でそうと知れるはずだ。あの恐るべき力はどう考えても女のものではなかったし、あの骨ばった長い指も、とうていブラジェナのものとは感じられなかった。
 けれども、やはりあれは――あの手は、あの闇のなかでツァランを見つめていた二つの瞳は――、怪人ネドバル・ネイエドリのものではありえない。怪人ネイエドリは、八十年前にあの地下道の中で死んだはずなのだ。ネイエドリのものとおぼしき死体すら、あそこには転がっていたのだから。


 ブラジェナは、ツァランが地下道から連れ帰って以後、しばらくの間は昏睡状態にあったという。
 さらに、数日後に目覚めたブラジェナは、ここ半年ほどに起きたすべてのことを――地下の逢引のことも、失恋のことも、何もかも――すっかり忘れていたらしい。
 彼女はついでにツァランのことも忘れてしまった。
 「すいませんねえ、ふだんの生活には問題がないんだが」と、店主は店に来たツァランに向かって困ったように言った。
 「身体も少しずつよくはなっているんですよ。粥くらいは食べられるようになってきたし……。ブラジェナ、この方はよくいらっしゃるお客の学士さんだよ。思い出せないかい」
 「ごめんなさい、ごひいきにしてくださってるのに」
 ツァランが来店したというので父親に呼ばれて起きてきたブラジェナは、寝巻きの上に羽織った大きめのショールを申し訳なさそうにいじりながら微笑んだ。黒く落ちくぼんだ目のくまや、つやのない髪の毛はまだ病人のものだったが、顔色は前よりずいぶん良くなっているようだった。
 「うちの店を、これからもどうぞよろしくお願いしますね」とブラジェナは言った。
 それからまた一週間ほどが経ったある日、ツァランがいつものように文具店に買い物をしにやってくると、三軒となりの靴屋の軒先で、ブラジェナが若い男とほがらかに立ち話をしているところに出くわした。もう寝台からは起きだしているようで、頬の色艶もだいぶ戻っている。相手の青年は、ツァランもよくは知らないが、たしか靴屋の次男坊か三男坊、あるいは若い徒弟か何かだ。ブラジェナと同年代か、二つ、三つ年上といったところだろう。
 視線が合ったので、ツァランは軽く目礼した。するとブラジェナは恥ずかしそうに目を伏せて挨拶を返し、それから目の前の青年の顔を見上げてにっこりと笑った。あいかわらず、きれいな薄い色の瞳だった。
 文具店で買い物を終えて、ツァランはやれやれと溜息をつく。
 (オピオでもやりに行くか)
 多少やさぐれた気分ではある。あまり風紀のよくない、顔なじみの店をいくつか思い浮かべた後、だがツァランはなんとなく考え直して、飲み仲間が集う〈まだらの竜〉亭に向かうことにした。
 店ではクリッサとエーリーンが外のテーブルにいて、林檎酒(サイダー)を飲みながら黒すぐりの実を二人でつまんでいた。
 「あらツァランじゃない。久しぶり」とクリッサが言った。「そうだ、こないだ、あの文房具屋のお父さんが娘さん連れて挨拶に来たわよ。あの子、呼び出しちゃってた悪魔はどっかに帰ったみたいだけど、一緒に記憶もだいぶ飛んだわねえ。まあ、そのほうがいいかもしれないから、わたしも何もしないことにしたわ」
 「あの子って、このあいだ父親と一緒に来てた、毛布にくるまってた女の子?」と、すぐりの汁で黒く染まった指の先を舐めながら、エーリーン。
 「そう」とクリッサは答え、「そういえば、あの店主さん、何度もツァランによろしく、よろしくって言ってたわよ」
 「あー」
 ツァランはあいまいな返事を帰しながら、テーブルの横のベンチに腰を下ろした。ウィスキーを啜り、「エーリーン」と声をかける。
 「なあに」
 「とりあえず、きみの言ったことは正しかったぜ」
 「どうしたのよ急に」
 「なんというか、つまり、やはりぼくは幼稚だったってことだ」
 何よう、とエーリーンはもう一度言って唇をとがらせた。けれども、その表情はいつもより心なしか穏やかだった。それから彼女はあらと言って、ツァランからその背後に視線を移した。
 「ダグラスが誰か、女の人連れてくるわ」
 「首に大きなほくろのある女だろう?」
 「見えないわ、そんなの……」とエーリーンは首を伸ばすようなしぐさをしたが、「あら、ほんとだ。どうしてわかったの?」
 「少しは大人になったからさ」
 答えて、ツァランはベンチの上にごろりと横になった。何よそれ、だの、こんなところで寝ないでよ、だの、わあわあ文句を言う女たちの声はもう耳には入れず、しばらく寝ほうけてやろうと彼は心に決めた。風は涼しげに髪を揺らすが、夏の長い日はまだ暮れない。水色の空を小鳥たちの群れが三角形を作って飛んでゆく。
 ツァランはまぶたを閉じた。遅い午後の空気はゆったりと、優しげで、ささやかな胸のさびしさをやわらげる心地よい睡眠へと、彼をすぐに包み込んでいった。
 

 


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