hallowness.

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 玄関の扉を乱暴に閉めると、たまたま階段を下りて食堂に入っていくところだったダグラスが、びっくりしたように「おお」と言った。「雨か?」
 「ああ」とツァランは答えた。着ているガウンは肩から袖まで濡れそぼって、ずいぶん重たくなっている。
 「今まで仕事か。遅いな」
 「ああ」
 「うまい蜂蜜酒(ミード)をもらったが、おまえも飲むか」
 「いや」
 ツァランは扉に閂をかけながら、言葉少なに答えた。ダグラスが肩をすくめる。ツァランはそのまま、同居人の横をすり抜けて狭い階段を上った。
 自分の部屋に入り、後ろ手に扉を閉め、大きく息をつく。
 (くそったれ)
 彼は苛立っていた。
 何に対してなのか彼自身にもわからなかった。ただどうしようもなく苛立っていた。
 (何もかも、地獄に堕ちるがいい!)
 ツァランは乱暴にガウンを脱ぎ、荷物とともに寝台の上に投げ出した。あかりをつけ、棚の上から火酒(スピリッツ)の入った陶器の瓶を取る。コルクの栓を抜き、机の上にあった杯に注ぐと一気に空けた。
 熱く灼けた喉を通して吐いた息のなかに、思考がぐるぐる回っている。
 ……死んでいった娼婦たち……気のふれた大工の娘……
 ――ネドバル・ネイエドリ、ネドバル・ネイエドリ、
 ネドバル・ネイエドリ。
 ツァランは目を閉じて冒涜的な悪態を呟くと、机の前の椅子に腰かけた。正面には屋根の形状に合わせて斜めを向いた窓があり、その硝子を大粒の雨が上から叩いている。帰宅途中で降り出した雨は、しだいに雨脚を激しくし、彼が家にたどりつくころにはガウンの下のシャツまで湿らせていた。生暖かい夜の空気のなか、肌に重くまとわりつく布の感触はいちじるしく不愉快で、ツァランはうんざりしながらシャツを脱ぎ、床に放り投げた。
 荒い動作でもう一度火酒の瓶を傾けると、酒が杯から机の上にこぼれて水溜りを作った。
 (おれはどこへ行こうとしている)
 人形師と話をした後、ともかく事態を整理しようと努力しながら歩くうち、ツァランは突然、辛抱ならない苛立ちに襲われたのだった。ここしばらくの間に起きた――そして知った―― 一連の出来事と物語が、もつれあい、からみあって、彼の思考に重くのしかかっていた。その重みはえたいの知れないものであるだけに、ひどく息苦しかった。 
 つまりはこういうことか、とツァランは自分に問う。
 人の生の理(ことわり)さえも無視して二百年もの時を生きる、そんな怪物があの文具屋の娘、ブラジェナをとらえてしまったというのか……、
 ……怪人……北から来た……人間ではない……白いナバ……
 ――地下室の通風口からにゅうっと出て……
 ――白く細長い手足がまるで蛇のように……
 (――狂気の沙汰だ!)
 ツァランは耳のそこかしこにこびりつく心象をはらいのけようとする。そうだ、そんなものがいるわけがない。あの男も言っていたではないか。あれは十中八九、年老いた芸人が孫を楽しませ恐ろしがらせるために語って聞かせた、ただのおとぎ話にすぎない。あるいはあの人形師が、ツァランを唸らせる物語を開示して金貨をせしめるために、物語を脚色し、でっちあげたとも知れぬのだ。
 そうだ、自分は知っているではないか。ナンサブリの民は怪しげな魔力など持たぬ。れっきとした人間だ。「ナバ」とはナンサブリの民とよく交わったことのない人びとが頭の中だけで作り上げた奇天烈なイメージにすぎない。……そして闇と地下世界に対して人びとが抱く恐怖がその奇天烈なイメージと融合し凝縮し、その結果、「白いナバ」という怪物の言い伝えが産まれた……
 言い換えれば、「白いナバ」など実在しないのだ。
 あらためて考えてみれば、ネドバル・ネイエドリが「死んでいなかった」とする確固たる証拠はひとつもない。すべては状況証拠にすぎない。たしかにネイエドリの捕縛前の行動は不可解だ。あの尋問調書に記された記録もネイエドリのものとは思いがたい。だが「不可解」であり「思いがたい」、それだけだ。すべてはツァランの憶測にすぎない……。こんにちまで伝えられた巷の奇怪な噂に彼自身が毒されていたのではないか。どれだけずる賢い悪党であろうとも、ちょっとしたミスで捕まることなどいくらでもあるだろう……。
 ばかばかしい、とツァランは火酒を舐めながら自嘲的に笑う。——すべての謎はおれが作り上げた幻想にすぎないかもしれぬのだ。それなのに何を、ここまで取り乱し……、
 では、ブラジェナは?
 ブラジェナはなぜ、あんなふうになってしまったのだ。
 エーリーンが言うところの「恋わずらい」はあそこまで人を追いつめるものなのか。いや、その「恋」が何か常規を逸したものとの接触であったからこそ、たった数日のうちにあそこまで変貌したのだと、そうとしか考えられないのではないか。
 常規を逸したものとの接触――悪魔との?
 ネイエドリとの?
 ツァランは舌打ちした。思考が堂々めぐりをくりかえしている。彼は強い匂いの琥珀色の液体を、ふたたび瓶から注いだ。
 ピッチが早いのは自分でもわかっている。取り立てて酒に弱いほうではないが、王国きっての酒豪というわけでもない。このまま行けば、一刻も経たないうちに前後不覚に酔い果てるだろう。
 だが飲まずにはいられなかった。
 最後に見たブラジェナの姿が脳裏に浮かぶ。輝きを失い土気色になった肌と、印象に残るきれいな色の、だが何も見ていない硝子玉のような瞳。
 あの日、ツァランが彼女の思いを受け入れられないと告げたときも、ブラジェナは傷ついた表情を浮かべていた。だがそうした反応を、あのとき彼は十分に承知していた。その結果を引き受けることになんら問題はなかった。仕方がない、あれは人と人とが交差する上で否応なく生じてくる感情のねじれなのだ。
 だが、あの歩く死人のようなブラジェナの姿は彼の予想を超えたものだった。
 ――ネイエドリが、世をはかなんでいる女の前に姿を現す何者かなのだとしたら……、
 ――そしてその女に、いっときの夢のような愛を代わりに与え、この世から連れ去る悪魔なのだとしたら。
 (おれのせいだとでも?)
 ツァランは自嘲気味に苦笑した。
 (おれにふられたという理由で、世の中に絶望し、ネイエドリという名の悪魔に――あるいは狂気にたましいを売ったか、あの娘は)
 「くだらん」
 ツァランはつぶやき、椅子を立って、意味なく部屋の中を歩き回った。えたいの知れないおぞましさが苛立ちに変わっていく。ツァランは唇をゆがめた。
 ――くだらない、くだらない!
 (そうだ、おれは彼女の誘いをはっきりと断った)
 ツァランはふたたび机の前に腰掛ける。椅子の背にもたれて天井をあおぐと、胸のどこからか笑いがこみあげてきた。彼は眉を寄せ、唇のはしで笑った。
 ――しかしあんな……あんな、うぶな小娘のおままごとのような思いだ! 拒絶だの愛だのというしろものではない。そんな言葉を使うことが失笑を誘うほど、子供じみている。ただの稚戯だ。
 だいたい、あの娘がおれの何を知り、何に思いを寄せていたという。一対一で話をしたことすら、あの日がほとんど初めてだったというのに。ただ下町では見珍しい学士の風体だというので興味をもった。その程度のことに決まっている。
 そんな思いがひとつ叶わない程度で、えたいの知れない狂気につけこまれるほど世をはかなむ、など――ばかばかしい。
 なぜそんなものにふりまわされ、おれが良心の呵責を感じねばならぬのだ?
 そうだ、エーリーン、違うか、――とツァランは飲み仲間の女との先日の口論を頭の中で再演する――あれこそ、おれが言った自己陶酔にほかならない。人に向けた恋慕の情と美化されてはいるが、現実はどうだ。情の向かう先であるはずの相手のつごうなど考えもせず、一心不乱に自分自身の疵のなかにおぼれていく、ただそれだけの情熱だ!
 冗談ではない、とツァランは思った。おれは聖人君子ではない! 夢見がちな少女の非現実的な望みをかなえるために、同情から恋人のふりなどできるものか! だいたい、人生のひとつひとつが思いどおりにいかぬたび、人が悪魔にたましいを売るほど絶望していてどうなるというのだ。どうにもならない! そんなことなら、おれにはたましいがいくつあっても足りはしない。もう二十ぺんも三十ぺんも、思いどおりにならぬことなど甘受してきた。
 もしおれのせいでブラジェナが狂ったというのなら、ではおれはどうすればよかった。むしろあの娘を大いにたぶらかすべきだったというのか? こちらに熱をあげているのをいいことに、川原を一緒に歩き、手づくりの弁当やらなにやらを食べ、甘い会話をたっぷりと交わした後に、夕闇にまぎれて彼女をたくみに誘い、部屋へと連れ込んで肌に触れ、そのういういしい恥じらいをじっくりと楽しむべきだったというのか? ……は、それもよかったのかもしれない。そうすることが、はじめにはっきり断るよりも誠実な対応だったとでもいうのなら! なんなら裏路地でもよかった、うら若い娘は刺激を好む! あるいは木陰でも? あの娘は疑いもせず――これが大人のつきあいなのだと勘違いでもして――のこのことおれの後をついて、茂みの影の、暗く湿った場所までやってきたことだろう――
 

 酒をあおろうとして、ツァランは瓶のなかに酒がもう残されていないのに気づいた。
 思わず視線を上げると、真っ暗な窓に顔が映っていた。机の上のろうそくの光に淡く下から照らし出され、陰翳がくっきりと浮き上がっている。
 異様にひきつった表情だった。ツァランは半ばあっけにとられ、その顔を凝視した。  しばしあって、どこからか滑稽さの感覚がこみあげてきた。荒立っていた情が宙ぶらりんになり、ゆらり、ゆらりと大きく揺れ、そしてしだいに沈静化していくのを彼は感じた。
 ツァランは大きく息をついて、片手のてのひらを額にあて、目をつむった。
 雨音が窓を打つ。
 (屑だな、おれは)
 いまさらながらの感慨だった。
 いまさら繰り返すことでもなかった。
 だが、胸中の独白であろうとも、言葉にしてみると何かが不思議にすっきりとした。
 くだらない。然りである。だが、くだらないのはおそらく、状況にからみとられるがままに屑じみた思考に走る自分の状態そのものだ。
 (いや、屑などというものではない。ただの馬鹿か。稚戯に耽溺しているのはほかならぬおれだ)
 だいたいのところ、ブラジェナを心中で責めたとてどうにもならぬ。彼女は被害者だ。
 このままにはしておけない。ブラジェナの病と怪人ネイエドリとの関係をはっきりさせなくてはならない。
 ……たしかにネイエドリの話はすべて伝説でありおとぎ話であるのかもしれない。だが、そのこと自体を確かめなくてはならない。どのみちツァランは、既にネイエドリの謎に頭を半分がた突っ込んでしまっているのだ。まだ先の見えていない謎の覆いを取り去らなくては、彼自身の感情に折り合いがつかない。
 したがって、ブラジェナの幼い恋情が浅はかであるか否かなど、今は問題ではないのだった。


 (――とはいえ)
 腕を組んでツァランは考える。
 じっさいのところ、彼は袋小路に入っているのだった。ネイエドリにまつわる謎を、これ以上どう明らかにできるというのだろう。文書に残された手がかりは、すべて八十年前の事件にまつわるものだ。ブラジェナの病とのかかわりなど、わかるはずがない。もっとも単純な方法はブラジェナと直接話をするというものだが、彼女はあのとおり心ここにあらずの状態だ。本人と会ったところで、はたして意味をなす話が聞けるかどうか、そもそも一悶着あった自分と話をしてくれるかどうか……、
 そのほかに新たな手がかりがえられる可能性があるとすれば、ネイエドリのアジトを探し出すことくらいか。百名以上もの兵に囲まれて逃げおおせるなどというのは、いかに人間離れした怪人といえども並大抵のことではない。戸棚に隠れたか、隠し扉でもあったのか……、
 (……隠し扉?)
 ふと脳裏に浮かび上がった考えに、ツァランははっととした。
 (待て、……衛兵隊はどこでネドバル・ネイドリを見失ったと、あそこには書いてあった?)
 ジェローム博士とやりあったあの日、その後に見つけた治安衛兵隊長の報告書だ。なんと書いてあった、思い出せ……、
 確か都の東のほうと……
 メモしたはずだ。通りの名前まで。
 ツァランは寝台に飛びつくと、湿ったガウンのポケットを探り、中身を寝台の上にひっくり返した。毛布の上に散らばったいくつもの雑多な紙切れを、開いては投げ、また開いては投げる。これでもない、あれでもない。確かにメモしたはずだ。どこに行った!
 何番目かに開いたメモに、自分が書きなぐった「ネイエドリ」の単語を見つけ、ツァランは急ぎ、文字の列を目でなぞる。
 (……誰かの放った矢がネイエドリのわき腹に……アジトの付近に追い詰めたが、その後、行方は知れず……)
 (……アジトがあると噂されるコホート通り……)
 コホート通り。
 知らない名だ。
 しかし、もしヘプタルクの東にある下町なら、ツァランはほとんどの通りの名称が頭に入っているはずだ。知らない通りなどあったのか? ――いや、もしかして……、
 ツァランは本や紙のたぐいが雑多に押し込まれた本棚に歩み寄ると、巻物のひとつを引っ張り出した。ヘプタルクの地図である。街壁内部のすべての通りの名が記されている。
 ただし、現在のものではない。百年前のものだ。以前、何かの写本をしたときに、報酬として金のかわりに要求した写し……、
 ネイエドリの事件が起こった八十年前の、当時の地図に近いはずのもの。
 机の上に巻物を広げると、ツァランははやる気をおさえ、東の下町をひとつひとつ指でなぞっていく。
 (コホート通り……コホート通り……)
 「あった」
 思わず声に出してツァランはつぶやいていた。
 まさかと思った、その通りの場所である。だが——
 (そんな偶然があっていいのか、いや、これは偶然などではなく……、)
 そうだ、考えてもみるがいい、とツァランは心の中でひとりごちる。――八十年前の治安衛兵や王宮衛兵とてそこまで馬鹿ではなかったはずだ。ネイドリが消えた周囲の、おおよそすべての家に入り、戸棚の中から寝台の下から屋根の上まで、隠れられそうな場所は残らず探したことだろう。ではなぜ、そうまでしてもネイドリが見つからなかったのか。なぜ怪人は忽然と消えうせてしまったのか?
 そして、まったく同じことが文具店の地下室にも言える。クリッサから聞いた話を思い出すのだ。なぜ、あの中年の主人が——ブラジェナの父親が、たしかに男の気配を感じていたのに、地下室に踏み込んだときには誰も見つけることができなかったのか?
 答えは単純だ。
 双方ともに、そこに秘密の抜け穴があったからだ。


 ――ああ、でも、ネバドル・ネイエドリ。
 ――ここには逃げる場所も隠れる場所もありませんわ。
 ――心配はご無用、
 ――秘密の抜け道がここにある。


 百年前のヘプタルクの地図において「コホート通り」と記されていた場所。それはまごうことなく現在のイジー通り、すなわちあの文具店のある通りだった。
 コホート通りはイジー通りの旧名だったのだ。
 あの文具店、つまりはブラジェナの家――、ほかならぬその場所で、八十年前、ネイエドリは姿を消していたのである。





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