hite Nadba.

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 数日前に見かけたのと同じ広場の同じ場所に、その人形師は今日もいた。暗い空の下で背を丸め、袋や箱の中に人形だの、布だの箱だの、雑多なものをしまいこんでいる。一仕事を終えた後、いつものように人形を売り、さらにはその露天もたたもうとするところと見えた。
 昼間は見られたであろう黒山の人だかりも、夕餉の時刻も近づく頃合いとあってはすっかり散ってしまったようで、かわりに向かいの酒場が男どものだみ声でにぎわいだしていた。
 「よう、人形師」
 ツァランの声に、男は顔を上げた。
 「毎日せいのでることだな」
 人形師はところどころ歯の抜けた口に愛想笑いを浮かべた。「どうも、おかげさまで」
 ツァランはその顔をじっと見た。粗野な、だが純朴そうな、ごく普通の下町の中年男の顔だった。ツァランはどう切り出そうか迷ったが、単刀直入に行くことにした。
 「飲みに行かないか。おごるぜ」
 人形師は少し驚いたようにツァランを見たが、唇を歪め、「いや、どうも。お気持ちだけで」と言った。
 「いやいや、からかってるわけじゃない」ツァランは両手を広げた。「……実は悪友がつかまらん。話し相手がほしいのさ。あんたは腕の立つ人形師だし、気の利いた話をいくつも知ってるだろう。そいつを酒代で買うってのはどうだ」
 「馬鹿を言いなさんな」と男は呆れたように、「おれはただの人形師です。旦那さんがたを話で慰めることなんざできやしねえ。そいつは女の仕事だ」
 「女のきげんをとる気分じゃないんだ、今日は」
 人形師は肩をすくめると、後片づけの作業を再開した。売り物の人形の最後のひとつ、ふたつを布にくるんで背後の箱に押しこむと、地面に広げた敷物を丸めだす。「……あんた、そこそこの身分のお方と見えますが、ご商売でもされてるんで? こんな芸人と二人で飲んでいちゃよくない噂が立ちますぜ。おれたちは流れ者で、入れる酒場だって多かない」
 独特の――おそらく近隣のどこかの国の訛りと、ヘプタルクの下町のもっとも崩れた訛りの交じり合った――耳に残る話し方だった。ツァランが気づくかぎりでは、人形劇の中で台詞や声色を使っているときには完全に殺していた訛りである。日常と仕事との口調の切り替えに見えるその職人気質に、ツァランは少し感心した。
 「いまさら風評を気にするほど綺麗な身でもないんでね」
 そう返してからツァランは少し考え、向かいの酒場の外を指差した。「……じゃあ、ほら、そこの酒場の外の席ならどうだ。ちょっと腰かけて一杯やる程度さ。警戒してるのも無理はないが、正真正銘こっちも一人だ。悪い仲間を呼んで裏道にひきずりこんで有り金を盗ったりするつもりはないぜ」
 「ずいぶん熱心に誘いなさる。変なお人だな」
 人形師は巻き終わった敷物を持ち上げつつ、再度ツァランをじろじろ見た。「旦那のおごりなんですな」
 「もちろん」
 人形師は、ふんと鼻を鳴らし、それから少し自分の荷物を眺めた。「一杯を空にする間だけですぜ。この後まだ人形作りの仕事があるんで」


 酒を頼んでいる間にひょっとしたらどこかに消えてしまうのではないかとツァランは訝んだが、両手に杯(さかずき)を持って出てきてみると、人形師はまだそこにいた。酒場の外にしつらえられたいくつものテーブルのいちばん端で、居心地悪そうに自分の手をいじくりまわしている。
 「この前おれが見たあんたの劇は、ネドバル・ネイエドリの話でね」と、ツァランは人形師の前にエールを一つ置きながら、「よくできてた。あんたの人形使いは、ちょっと人目をひくな。……誰に教わったんだ。親父さんか」
 「そうでさあ」
 人形師は赤みがかった金色のエールをぐいと大きくあおると、うまそうに長い息を吐いた。「うちは代々、ろくでもない芸人でね。じいさんは何をしてたのか知らんが、親父も人形師だった」
 「あれだけの技を教わったのなら、ろくでもないことなどあるまいさ。……じゃあ、ネイエドリの話の内容も親父さんから伝え聞いたものなのか」
 「そうでさ。うちの親父が始めた話です。最近はよその人形師もやってるようですがね」
 「オリジナルか。そいつはすごいな」
 「まあ、他のやつらはやつらで、『うちとこが一番最初だ』って言うんでしょうがね」
 ツァランはテーブルの上に肘を乗せ、人形師を眺めた。それからおもむろに口を開く。
 「知っているか、人形師。怪人ネドバル・ネイエドリは、この国に実在した人物なのだぜ」
 ここでツァランは注意深く相手の表情をうかがった。が、人形師はもう一度杯をあおり、
 「へえ、そいつぁ知りませんでしたな」と言った。
 嘘だな、とツァランは直感した。何か奇妙な間があった。いかにも関心がなさそうな態度が、どことなくわざとらしい。
 そのとき、お待ちどうと言いながら太った女給がやってきた。手にはあぶったベーコンと、からりと揚げた豆や野菜の皿が乗っている。ツァランは女給に礼を言い、さらに骨付きの子羊肉のローストと、川魚の酒蒸し、そしてこの酒場いちばんの赤葡萄酒の瓶を一本注文した。人形師が目を丸くする。
 「一杯だけと言ったはずですぜ……いや、しかし旦那、やけに太っ腹だ」
 ツァランは答えず、ふところから取り出した硬貨を一枚、ぴんと指で弾いた。それを受け止めた人形師は、手の中のものの色を確かめて、ぎょっとしたように顔を上げた。ツァランは唇の端を持ち上げた。
 「言っただろう、おれは気の利いた話を買うために今日おまえをこうして連れ出した。見たところ、おまえはネイエドリについてとびきりの逸話を知っている。さあ話せよ、人形師。そいつは前払いだ。おまえの話が舌を巻くほどのものだったら、後でもう一枚。どうだ」
 「金貨」と人形師は、おののいたように、そして呆れたように呟いた。「正気か、あんた。一体なんなんです」
 「別に、なんでも」とツァランは答えた。「衛兵の手先でもなければ、ヘプタルクの盗賊ギルドの回し者なぞでもない。だがネイエドリのおとぎ話は奇妙な謎だらけでな。おれは学士だ、知られざる真実を手に入れるために金は惜しまん」
 「だが、……商売の裏舞台だ。人に言うような話じゃないんで」
 「誰にも言いやしないさ。言ったところで益もない」
 人形師はもう一度手の中の金色の光を見下ろし、そしてツァランの顔をじっと見た。
 「——そんなに言うんなら」
 しばしあって、人形師はつぶやいた。
  「——だが、これは、おれが餓鬼のころにじいさんや親父から聞いた話だ。どこまで本当か、おれだって知りやしない。信じるか信じないかは、勝手にしてくださいや」


 夏の長い夜も更けつつあって、すでに広場は真っ暗になっていた。向こうのテーブルでは何人かの若者たちが派手に騒いでいたが、テーブルの一番はしでぼそぼそと喋る二人は、何か奇妙な音の隔絶のなかにあった。
 「……うちはずっと流れ者の家系でしてね」
 人形師は料理をつまんで油ぎった手をシャツでぬぐうとそう言った。「おれはこの街で生まれたが、まだ餓鬼のころにここを出て、ほうぼうの町や村を行ったり来たりしてた。いくつかそういう芸人の家族があってね、そいつらと一緒にね。
 ひいじいさんなんぞは、この国の生まれでもなく、どこか北のほうからやってきたんだと聞きました。そのひいじいさんでさ、ネイエドリの手伝いをやってたのは」
 「ネイエドリの手伝い?」
 「そうです。都の中の、よそ者や流れ者の集まる吹きだまりみたいな場所で……、今でもそういう場所はあるし、おれも半分そこのもんですがね。とにかくひいじいさんは、そこでネイエドリに会って、やつの下で動くようになった。盗んだ金を酒場でばらまいたり、お貴族様や衛兵にちょっかいを出して苛々させたり。あんたも知ってるんでしょう」
 「ああ」
 人形師の男はツァランの注いだ赤葡萄酒をぺろりと嘗めた。「半ばは食うため、半ばは祭り騒ぎじみた、妙な仕事ばかりだったそうで。ネイエドリはやることなすこと手際がとにかく鮮やかで、ものを盗むにせよ、衛兵に何か仕掛けるにせよ、絶対にへまをやらかさない。ふだん威張りくさっている連中の鼻を明かしてすっきりできるってんで、ひいじいさんだけでなく、その吹きだまりの連中はみんなネイエドリにいかれてたそうで」
 「異様なカリスマ性があったと」
 「そう言うんですかね。だけどね、学士さん。ネイエドリは他にも普通じゃないところがあったんだそうです」
 ツァランは眉を上げた。人形師は少しためらってから、
 「さっきも言ったように、どこまで本当なのかは知りませんよ……。ネイエドリは手足や指がやけに長く、真っ白な肌をしていて、まるで獣みたいに毛深かったっていうんでさ」
 ツァランは腕を組んだ。「……北方の生まれだったと?」
 「さあね。だが、おれも北のほうの血をひいてるわけだが、そんな手足の長い毛深い男なんて見たことはありませんがね。とにかくネイエドリがこの国で生まれたんじゃないことは確かだそうですよ。どこからやってきたのかは誰も知らなかった。じいさんは、あれは『白いナバ』だったのだと言ってました」
 「白いナバ」
 人形師は頷いた。「街のみんなはあれをネドバル・ネイエドリと呼んでいるが、本当は『ナバ』だったのだと。ナバのやつらはおそろしく長生きで、200年くらい生きるのもいるんだそうで」
 ツァランは唸った。彼の知る限り、ナバとは遠い北方の地に住む民ナンサブリに対して向けられた蔑称である。ヘプタルクに来る前、まだ帝国にいたころ、ツァランはナンサブリの民に数回会った事がある。たしかに肌の色や体毛が白っぽく、近隣の民より群を抜いて背が高く、体つきもがっしりしている。が、べつに手足が異様に長いわけでもないし、200年も生きるような化け物ではないはずだ。ではこの人形師の話を、どう理解すべきなのか……、珍しい異国の民が、移り住んだ先で畏怖の対象として、あるいは奇異の目で見られ……そのうちその恐ろしげなイメージばかりが肥大し……恐怖の対象へと移行し……、
 しかし、だとすると――、ネイエドリがナバだった、とはいったいどういうことなのだ。
 「まあ、おれだってナバを直接見たことはありやしねえ」と人形師は続けた。「みな聞いた話ばかりだ。だがね、この国の北東の方に、おれは数年暮らしていたんですがね。そこでは夏の夜になると、白いナバが来る、白いナバが来ると言って、みんな魔除けの木の枝を寝台の枕元に添えるんだ。とくに若い娘はみんなです。……ナバの中には地下に暮らしているのがいて、そいつらはとりわけ色が白く、毛が長く、そして魔力が強い。そいつらが『白いナバ』です。ひょろ長い体つきをしていて、夜になるとこっそり地上に上がって来るんです。
 このナバが持っている青い布には、不思議な力がある。寝ている女にかぶせると、夢を見せることができるというんです。その女が焦がれてやまなかった、これ以上ないほどよい夢をね。そしてその女どもが夢見心地のあいだに、『白いナバ』は襲うんでさあ」
 「襲う」
 「犯して、それから文字通り喰うんでさ」と人形師は言った。「翌朝には食い散らかされた女の死体が見つかるんだと」
 ツァランは額に指を当てる。
 ナバ……ナーバ……ナドバ……ネドバル。
 ネドバル・ネイエドリ。
 「実在した怪人ネイエドリは、最後は衛兵に捕まって縛り首になったと伝えられている」とツァランは思考を整理しようとつとめながら、「なぜおまえの人形劇では、ああした締めくくりにしたんだ? 衛兵らを巻き、逃げおおせ……幸せに暮らす、などと」
 「衛兵隊がネイエドリを捕まえたなんて話は嘘っぱちです」
 人形師は微塵の疑いも見せずに断言した。「ネイエドリは逃げたんでさ。おれのじいさんなんぞ、この都に住んでいた頃、ネイエドリ本人を見たと言ってましたぜ。やつが処刑されたって噂が流れた時期から十年も二十年もあとのことです。ある日じいさんが深夜に町を歩いていたら、道沿いの家の地下室の通風孔から、にゅうっと出てきたんだそうで」
 「通風孔から、人間がか?」
 「そうでさあ。白くて長細い手足が闇の中にくねって、まるで蛇みたいだったと。そしてやつは立ち上がると、ふりかえってじいさんを見た。だから、じいさんは蒼くなって、けんめいに走って逃げてきたのだそうです。
 これはまだ十にもならないころ、じいさんから聞いた話です。じいさんはその後、安酒を飲みすぎて家を追んだされ、裏道で野垂れ死んだ。おれのまわりはそんなろくでなしばかりでさあ。だから、じいさんが餓鬼だったおれにした話も嘘八百のおとぎ話だって、あんたみたいな偉い人は思うかもしれませんな。それはあんたの自由でさ」
 ツァランは大きく息を吐いた。「ネイエドリが処刑される一、二年前に、数えきれないほどの娼婦が死んだ。それもやつのしわざなのか」
 「知りませんが、そうじゃないんですか。娼婦ってやつらは、生活は荒れ放題に荒れてるくせに、時たま馬鹿みたいに甘い夢を見てる。その夢を、ネイエドリの青い布に誘い出されたんでしょう。そうして食われちまったんだ」
 「もしそれが本当だというなら」とツァランはわずかに声を荒げた。「なぜおまえはそんな化け物を、あんな英雄義族に仕立て上げた。強きをくじき、弱きを助け、哀れな女たちを救う、だと? とんでもない――おまえの話を聞いていれば、ネイエドリはただ虎視眈々と獲物を狙う悪魔にすぎない」
 人形師はツァランの顔をじっと見た。それから子羊の肉の一切れを口に放り込み、赤葡萄酒で流し込んで、
 「あんたみたいな恵まれた人にはわからんかもしれませんがな。世の中には死んだほうがましって思いながら生きてる人間が幾人もいるんです。
 おれのおふくろも娼婦だった。ろくでもない女で、おれが年端も行かないころから、しこたまおれとおれのきょうだいを殴ってましたよ。気分が悪い、目障りだ、泣き声がうるさいって言ってはね。犬畜生みたいに次から次へと餓鬼をはらんで生んだのは手前のくせに、勝手なもんです。だが、やつら娼婦をろくでなしにしてるのは男ですからな。毎日毎日、ゆきずりの男に股を開き、その金も女衒に取られ、いつまでも治らない病にかかり、それでも股を開き続ける、あれが擦り切れるまでね。そういう女たちなんだ。
 そんな娼婦のおふくろが、毎日言ってたんですよ。死ぬ前に恋がしたい、恋がしたいってね。は、は、へそが茶ぁ沸かさあ、自分の餓鬼を暇さえありゃ殴ってるような、皺だらけの、あそこもただれた醜い婆が、何が恋だってなもんです。でもそうやって言いつづけて死んでいったんですよ、おれのおふくろはね。だとしたら——もし娼婦ってのがそういうことを考えちまう生き物なら、死ぬ前にたった一度きりでもその夢が本当になったかもしれないと思わせた悪魔は、卑劣であれ化け物であれなんであれ、奴らにとっちゃ王子様みたいなもんだったんじゃありませんか」
 「……馬鹿馬鹿しい!」
 ツァランは吐き捨てた。「なにが王子だ。弱い者が生きるためのよすがとする、つかのまの希望につけ込んでいるだけだろう!」
 人形師は肩をすくめ、ツァランの杯に葡萄酒を注いだ。ツァランは思わず声を大きくしてしまった自分に気づき、声を低くして「すまない」と謝罪し、
 「だが仮におまえの言うように、ネイエドリが生きる希望を失った女を探し出しては喰う悪魔だったとしよう。では男爵夫人はどうなる? 一人の貴族の奥方が、ネイエドリ、ネイエドリと叫んで身を投げた事件を知っているか? それから結婚を目前にした大工の娘を気ぐるいにしたことも」
 「よくは知りませんが、金持ちの娘や奥さんでも、死んだほうがましと思ってる人らはいるのじゃないですか。旦那や姑にいびられたり、でなけりゃ――好きでもない男と無理やり結婚させられたりね。馬鹿なやつらだと思いますよ。体も売らず、働きもせず食っていけるだけで幸せなんだ。だが、自分の世界しか知らないやつらにとっちゃ、それが世界の終わりなんでしょう」
 ツァランは息を吐く。嫁ぎ先で虐められる可哀想な奥方。三十も年上の隣国の王のもとに嫁に出される若い姫。
 そうだったのだ、この人形師のあの劇のエピソードはすべて、
 すべて、そうした可能性を……、
 「ネドバル・ネイエドリが何者だったかなんてこたあ、おれは興味ありません」人形師は杯を空けると言った。「悪魔だろうと、卑劣な化け物であろうと、英雄だろうとね。すべてひいじいさんの時代の話で、おれにこの話を教えてくれたじいさんも、親父も、もうみんなあの世に行っちまった。だとしたら、おれは人形劇を作るだけです。人が来て銭を放り込んでくれる話を演る、それだけでさ。それでもって、卑劣な悪魔が最後に笑う話を人は好いてくれませんのでね。豪傑の義賊が颯爽と女を救う話にこそ、お客さんは銭を払ってくれるんでさあ」
 ツァランは黙っていた。夜はすっかり更け、酒場の客もちらほらと帰路につきだしていた。あちこちで良い夜をと交わす挨拶が聞こえる。
 「おれの話はここまでです。今日は、帰って人形を三体仕上げなくちゃならないんで」
 人形師は立ち上がった。「で、もう一枚は、くれるんで、学士様」
 ツァランはため息をつくと、硬貨を人形師のほうに押しやった。
 「持っていくがいい」
 「どうも」
 人形師は金貨を懐に大事そうにしまいこんで、大きな荷物を持ち上げた。その背を眺めながら、ツァランは言った。「おい人形師」
 人形師は振り返った。
 「おまえの人形劇は、たしかによくできてるよ。おまえには話を作る才能がある」
 「どうも、おかげさまで」
 「では――今日おれにした話は、おまえの作り話じゃあるまいな?」
 人形師はにやりと歯を見せた。それから、「ちがいまさあ」と言った。





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