edbal Nejedly the Mysterious.

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 「この仕事を代わりにやりたい、ですって?」
 王立図書館書庫の写本部屋の一室の、その巨大な机の片隅で作業をしていた若い学士は、当惑したようにツァランの顔を見上げた。血色のいい肌といい、撫で付けられた金髪といい、いかにも良家の育ちといった面立ちである。
 「そう。今朝<雁金(かりがね)の文書室>の室長に七六六年の王宮衛兵詰所の文書整理を言いつけられたのはきみだろう?」
 ツァランは青年学士のすぐ目の前に置かれた巨大な木箱を目線でさした。紐綴じの書類だの、なにやら書きなぐられた紙切れだのが、あふれんばかりに詰め込まれた木箱である。床にはさらに二つ木箱が置かれていた。「用なし文書」と「重要文書」とへの分類のための木箱である。
 「同時期の関連文書の整理を平行して頼まれているのがぼくでね。一人の人間がやったほうが、書類のつながりも見えて効率がいいのではないかと思ったのさ」
 学士はツァランのつま先からガウン、顔から髪の先までじろじろと眺め、それから目をゆがめた。
 「あなた……ツァラン。写本学士のツァランでしょう」
 「そうですよ」
 学士は、ヘエという相槌とも、ハァンという呆れ声ともつかぬ音を喉から出して、もう一度、今度は好奇心の入り混じった目つきでツァランを見た。
 「言いつけられた仕事の十のうち八はサボり倒していると噂のあなたが、どうしためぐりあわせで、ご親切にもぼくの仕事を代わりにやってくれようなどと言い出すんですかね」
 「ほう、知らぬうちにそんなにも名が売れているとはね」
 ツァランはにやにや笑った。「光栄のかぎりです。……どうもぼくは移り気な人間でね。むらむらと勤労意欲が湧くこともあるんですよ。それに……」
 と、ツァランはわざとらしく言葉を切り、
 「きみは節度ある模範的学士と見えます。さすがにこれだけの仕事を他人に任せるとなれば、四・五日を好きに遊べる代償として、ちょっとした謝礼くらい用意してくれるのではないかと思ってね」
 「ばかばかしい。あなたの悪名は聞き及んでますよ。とんでもない額をふっかけようとしても無駄と知るんですね」
 「まあ待ってくれ。そんな高額とは言わない」
 ツァランは腕を組み、自然な間を取ってから、事前に考えていた金額——交渉の口切りとして自然な数字——を言った。「この作業のためにきみが約束された対価の四分の三……、いや、大半は手つかずといえ、きみはもうこの仕事を始めているからな。三分の二でどうだ」
 「三分の二」
 学士が考え込む様子を、ツァランは眺めた。退屈な作業からすっかり解放されるだけでなく、少なからずの金額が自分の手に残るというのだから、悪い条件ではあるまい。だが悪い話でないだけに落とし穴でもあるのか、とでも考えているのだろう。だとしたら、この申し出の裏にどんな事情があるのかを探って来るか……。
 「ふん、まあ、目玉が飛び出るほど高額というわけでもない」と青年学士は婉曲に言った。
 「しかし他人の仕事を横取りしてでも金がほしいとは、いったい何があったんですか。たとえば女と揉めたとか……、いや、詮索しているとは思わないでくださいよ。本来ぼくが責任をとるべき仕事をどうしてもと頼まれて仕方なく譲るとあっては、その理由を知っておく必要があるのでね」
 取引する気まんまんのくせに、「仕方なく譲る」などとよく言ったものだとツァランは呆れた。だがそんな思惑はおくびにも出さぬよう気をつけて声をひそめ、
 「いや、まあ、それは……言いにくいのだが。ここだけの話にしてもらえるか」
 「まあね」
 ツァランは学士に顔を近づけてささやいた。「オピオ」
 学士は坊ちゃま然としたその顔を大きく歪め、舌打ちをした。
 「噂どおりの方ですな」
 「どうも大変申し訳ない」
 「ふん」と学士は片眉を上げてツァランを見ると、「では、そうだな、半分で。金はあなたの仕事の結果を確認してからお渡しすることにしましょうか」
 後払い、ということだ。ツァランは少し時間をとってから、卑屈に笑った。「仕方ない。では交渉成立で」
 学士は返事をせずに席を立つと、じろりとツァランをにらんだ。
 「まったく、なんであなたのようなのが図書館から追い出されないのか、さっぱり理解できません。噂では、法学評議員のジェローム博士に目をかけられているんだとか。いったいどういう風に取り入ったんですかな」
 ツァランは肩をすくめた。自分がジェローム博士に目をかけられているなどとは露ほども思わなかったが(注意が必要な怠け者として博士の頭の中のブラックリストに載っているにすぎない)、勘違いの羨望も交渉には役立つかと思われたので、ツァランはあえて訂正しなかった。青年学士はツァランの表情にますます苛立ったかのように、語調を強め、
 「そもそも、あなたのようなのがいるから学士の素行が悪いなどと批判されるんです。ぼくらのような責任感ある学士は一緒くたにされて迷惑しているんだ。しっかり意識してほしいものです」
 (責任感ある学士の誰が、オピオのために金が入用な人間に自分の仕事を託すかよ。しかもオピオ中毒とあらば値切っても食いついてくるだろう、などと勘定を働かているくせに)
 写本室を出て行く青年学士の背中を眺めながら、ツァランは心のうちでせせら笑った。ああした輩は、できそこないに説教を垂れたい自尊心を刺激してやれば、いとも簡単に話に乗ってくる。もとより今回ツァランにとって金は目当てではない。重要なのは、この王宮衛兵詰所の文書を入手することなのだ。
 ツァランは机と床の三つの木箱に目をやった。さっきの学士が何を「用なし書類」の箱に投げ込んだかわからないから、すべて一から見直しだ。だがツァランがジェローム博士からまかされた書類群と、この目の前の書類の箱にすべて目を通せば、八十年前に名を馳せたという、あの奇怪な人物について、何かがわかってくるはずだった。
 すなわち、ネドバリ・ネイエドリという男が何者であったのかを。
 「とりかかるか」
 つぶやいて、ツァランは椅子に腰をかけた。


 山積みになった文書から一枚、また一枚を取り上げ、ツァランは雑多な文字列に目を走らせつづけた。<緑橄欖の塔>にとって重要な文書とそうでない文書を仕分けるという、自分が請け負った仕事を進めつつ、平行して大怪人の手がかりも手繰りよせていく。
 木箱の中の紙のほとんどは、ツァランの関心とはなんのかかわりもないものだった。だが時として、いくつもの情報が交差したその先がネイエドリにつながっているかもしれないと、そう思わせる情報に出くわす。用なしとして捨てられた文書を少なからず救出しながら文書を分けていき、一日目が終わり、二日目がまた過ぎる。連日朝早くから夜遅くまで休みなしで写本室に詰め、そしてようやく三日目の太陽も傾きかけたころ、ツァランはようやく、ネイエドリ事件の大まかな全体像を自分がつかんだとの感触をえた。
 どうやらネドバル・ネイエドリの名が世に知られ始めるのは、ネイエドリが処刑される数年前からであるらしい。最初は貴族の館や名の知れた宝石商の屋敷が荒らされる事件が連続して起こっている。そして夜遊びを謳歌する商人たちがたてつづけに、ほんの少し一人になったすきを――たとえば小用を足しにテーブルをはなれた隙を――襲われては、翌朝すっかり身包みをはがされ、下穿き姿で気絶しているのが裏通りで発見される。そして事件が起きた後、きまってどこからともなく沸き起こる噂がある。
 いわく、「あれは青マントのネドバル・ネイエドリのしわざだ」と。
 何度も続く事件に、貴族や豪商たちはみな何人もの傭兵を雇って厳重な警備をしいた。治安衛兵は夜間の巡回をいつもの三倍に強化した。
 それでも被害は減らなかった。ネイエドリは警備と巡回の網の目を恐るべき精度でかいくぐり、事件を起こしつづける。そしてその名以外になんの痕跡も残さず、闇の中へと消えていくのだ。
 しばらくすると、たった一人の盗人相手にまったく太刀打ちできぬ治安衛兵隊の惨状を見かね、国の治安をつかさどる部隊の精鋭、王宮衛兵隊が動きはじめる。彼らはネイエドリを追いつめる一段階として、その身元を洗い出すための百頁近い調査文書を作成した。だが、その文書の結論として記されているのは――
 ネイエドリの正体は謎に包まれているということだった。
 そもそも、このネイエドリという名が本名であるのかも定かでない。青マントを着ているという噂が本当かもわからない。直接の目撃証人がいないのだ。「青マントのネドバル・ネイエドリ」とは、街人たちのあいだでいつとも知れずささやかれはじめた、由来もわからぬ通名にすぎないのだった。この男がどのような親のもとに、どこで生まれ、いかなる子供時代を送ったのか、いわんや怪人として名を知られるようになる以前にどのような生を送っていたのかも、なにもかもが謎のままなのだった。
 ある衛兵は、ネイエドリは一人の人物ではなく、集団で盗みを行うならず者たちの一団なのだと主張している。
 またある衛兵は、ネイエドリは有力貴族と関係を持っており、その手の者が何人も衛兵隊内部にいるために、証拠や軌跡がつねにもみ消されているのではと書いている。
 だが、いずれも確たる証拠のない仮説にすぎないのだった。
 当初、金持ちや貴族の金品を狙っていたネイエドリの犯行は、しかし七六六年に入ったあたりで不気味な様相を呈してくる。
 たとえば、こんな話がある。ある大工の大親方の娘が結婚の前日に前ぶれもなく姿をくらました。一ヵ月後、娘は突然帰ってくる。自分の部屋の寝台の上に座っているのが見つかったのだ。両親は驚き、いったいどこに消えていたのかと娘に聞いた。しかし答えはなかった。娘の面相は様変わりし、目はうつろになり、表情は消えていた。口にするのはただ一つ――、
 ネドバル・ネイエドリ、ネドバル・ネイエドリ、ネドバル・ネイエドリ。
 そのつぶやきだけだった。自分がもうすぐ結婚することも、父親や母親の顔も、何もかも忘れていた。
 この娘が治ったのかどうかは、調査文書には記されていない。
 次には、辺境の男爵夫人の事件が起きる。齢にして四十にも近い、大きな息子と娘のいる、貞淑だが内気なことで知られた女性だった。
 この男爵夫人が、王都に滞在していたある日、滞在先の館から小間使いと散歩に出かけたきり帰ってこなかった。夜になって、小間使いだけが放心状態で道をさまよっているのが発見される。
 そして次の日の朝のこと、なにやら奇妙な叫び声がするので一同が外に出てみると、その夫人が館の最上階のバルコニーに立っていた。彼女は叫んだ。
 ――待って、待って、わたしも連れて行って、ネドバル・ネイエドリ、ネドバル・ネイエドリ。
 直後に夫人は飛び降りた。
 さらに一人の衛兵の報告についての記述。有名な女衒の愛人をやっていた女が、ある日毒を飲んで死んだ。その死体は、ネイエドリの名を彫った指輪をしっかりとにぎりしめていた……、エトセトラ、エトセトラ、
 「奈落の王の名にかけて」とツァランは低くつぶやいた。――くそったれ、英雄義賊が聞いて呆れる! いったいどんな手法を用いてか知らないが、ネイエドリは女を惑わし、心をうばい、破滅に導く天才だったのだ。
 そして、おそらくこれだけではない。ツァラン自身がジェローム博士の前で言ったように、七六六年とその前年には、異様な数の娼婦の死が記録されているのだ。王宮衛兵隊の調査文書に記されている、この娼婦の毒死事件の背後に、同じようにネイエドリにたぶらかされて死んでいった女たちがどれだけいたのだろう。共同墓所に投げ捨てられるように埋められていった彼女たちの心臓には、ネイエドリの爪あとがひそかに刻印を残していたのではないか。数十年のあいだそのことに誰一人として気づかぬまま、彼女らの存在のたったひとつの証——死の記録すらも、用なしの紙切れとして廃棄されようとしていたのだけれども。
 だが、なぜこのようなことが行われたのか? 怪人はどのような理由で、何を考えて、女たちを殺していったのか?
 その手がかりは何も残されていない。ツァランにわかるのは、ネドバル・ネイエドリと呼ばれたその男がほかならぬ悪魔だったこと、それだけだ。
 そう、悪魔……、クリッサが言っていたではないか。
 悪魔は心が滅入った時に、ふとその隙間に入り込んでくるようなもので……、
 ではブラジェナも。
 ブラジェナもネイエドリの被害者なのか?
 「ありえない」
 ツァランは声に出して自分の考えを否定した。ありえない。あってはならない。たとえネイエドリが八十年前に死んでいなかったとしても、今いくつだというのだ? 当時、若く見積もって二十歳としても、百にも近い齢だ。そんな老人がブラジェナをたぶらかしたなどと、ありえるわけがない。
 ネイエドリの謎に近づくことで――あるいはネイエドリをとりまく深淵をのぞきこむなかで――何か思考が混乱してしまっているのだ。
 やわらかい太陽光が窓から斜めに差し込んでいる。
 ツァランは木箱の中を漁り、文書の束を手当たり次第に外にのけて、王宮衛兵隊の囚人尋問の記録帳を取り出した。怪人ネイエドリが最後の最後にとらわれているのなら、その正体にまつわる謎の多くは解かれているはず……、
 (ネイエドリの処刑は)
 (七の月、七の月……、)
 ぱらぱらと頁を繰り、ツァランはある位置で手を止めた。

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尋問調書 七ノ月 五九
尋問官 Dxxx

十二日 尋問一日目
 囚人番号五九 王宮外壁裏門ノ近辺ニテ拿捕 門ニフラ〜ト近ヅキシトコロヲ門番ガ見咎メ問イタダス 明確ナ答ナシ 暴レタタメ取押サエテ連行 青イ上着 綿ノ下着 麻ノズボン 木靴 二十歳ヲイクツカスギタトコロカ 髪ハ茶色目ハ灰色 尋問室ニテ身元ヲ問イタダスガ意味アル証言ヲエラレズ

十三日 尋問二日目
 朝ヨリ尋問再開 身元ヲ再度正スガ意味アル応答ナシ 只帰ル帰ルト繰返ス 水攻メ 激シク暴レリ 有用ナ証言エラレズ 囚人昏倒ノタメ尋問中止 

十四日 尋問三日目
 朝ヨリ尋問再開 有用ナ証言ナシ 昼時小隊長ガ尋問室ヲ来訪ス 囚人ノ風体ヲ見二十歳前後ノ茶色ノ髪灰色ノ目ノ白痴ハ之ヨリ他ニイルカト聞ク 否ト答エリ 小隊長ガ尋問ニ加ワル 再度ノ水攻メ コノ日ヨリ囚人ヲ独房ニ移動

十五日 尋問四日目
 小隊長ガ引続キ尋問 質問ニ対シ始メテ有用ナ応答アリ ネドバル・ネイエドリト白状スレバ解放スルト言エバ囚人頷ク 確カニネドバル・ネイエドリカト確認ス 再度頷ク ネドバル・ネイエドリト認知ス スグニ王宮衛兵隊長ニネドバル・ネイエドリノ捕獲ヲ報告ス

十六日

十七日

十八日
 囚人ネドバル・ネイエドリノ死刑ヲ執行ス

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 ばしんと音を立て——記録文書をあつかう学士にあらざるべき乱暴さで――ツァランは尋問調書を閉じた。
 「……昼自に小隊長が尋問室を来訪する。囚人の風体を見て、二十歳前後の茶色の髪、灰色の目の白痴はこれより他にいるかと聞く。否と答える……」
 先日彼が目にした、八十年前の一通の届出。
 ある魚屋からの……、徘徊癖のある三男坊が帰ってこない……、
 衛兵詰所にやっかいになってはいないか……、
 そう、あれも七の月に出された届出だった。
 ツァランは目をつぶった。唇をかみしめる。
 (知っていたのだ――くそどもめが)
 驚くほど狡知にたけた人物との印象を与えるネイエドリが、なぜあっさりと捕らえられ、処刑されたのか。
 その謎が解けたのだ。
 怪人は死んでいなかった。――処刑されてなどいなかったのだ。
 八十年前の七の月、衛兵隊は多数の兵を投入してなおネイエドリを捕らえることができず、そしてその失態を埋めるために、無関係で手ごろな人間をネドバル・ネイエドリにしたてあげたのだ。
 処刑された男はツァランが先日失踪届けを見つけた、あの下町の魚屋の息子だったのだろう。白痴と見なされ、口をもたぬと見なされた彼は、質問に頷きさえすれば家に帰してやると言われ――そして――家に帰りたい一心で、頷いたのだろう。尋問をおこなった衛兵たちも、自分たちが拷問にかけている哀れな男がネドバル・ネイエドリ本人でありえないことを、よくよくわかっていたに違いない。
 何が治安だ、何が罪人だ、なにもかもが作りごとだ、……吐きけがする!
 ぎゅっと目をつむり手を握りしめて、ツァランは自分を落ち着かせる。――冷静になるのだ。八十年前に終わってしまった事件について激昂したところで詮もない。自分は今いったい何をしているのか。何を突き止めようとしているのか。
 そもそも、捕まらなかったネドバル・ネイエドリは、そのままどこへ消えたのか。都中を騒がせ、王城に忍び込み、衛兵たちをおちょくり、まんまと逃げおおせて……、
 まんまと逃げおおせて……、
 ふと妙なものが頭にひっかかる。
 何だ。何が気になっている。
 ……そうだ、……どこかで目にしたのだ。その結末は、どこかで目にした。
  
 ――たしかに追いつめ申したが、姿がどこにも見えませぬ……、
 ――王様に知られればお咎めだ……、
 ――その後、遠くの地で幸せに……、
 
 (まさか) 
  
 ――ひるがえる青いマント。
 
 ツァランは思わず椅子を蹴って立ち上がった。
 あの人形劇だ。青いマントをなびかせ都中を舞いおどり、貧しき・弱きを助く正義の大怪盗。いや、それは嘘だった、あの大怪人は義賊などではなく卑劣な悪魔で……、
 しかし。
 結末に関してのみ言うならば、まさにあの劇そのままの事態が起こっていたのだ。それをたったいま、彼は文書から確認したではないか。
 だとすれば――あの人形劇はネイエドリについて一抹の真実を語っていたのだ。衛兵詰所の記録にも、その他のどんな書物にも、けっして記されることのなかった顛末を、ただ子供向けの人形劇のおとぎ話だけが……、
 ネイエドリの処刑の話をしていたとき、自分はダグラスになんと言った――「なかなか現実は人形劇のようにはいかない」? とんだ大間違いだ。大衆向けに陳腐に改竄された物語とあなどって、ツァランは重要なことを見逃していた。ああした口承芸の物語は、それ以外の形では後世に伝わらなかった、ひとつの真実を指し示していることがある……、
 ツァランはあわただしく文書を木箱に入れ、小走りに写本室をあとにする。
 (確かめなければ……確かめなければ)
 おりしも街のかなたの山の上では、今夜最初の星が薄紫の空にきらめきはじめたところだった。

 




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