ust Childish".

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 「え、あの子?」
 階段を下りてきたクリッサは、ツァランの質問に首をかしげた。
 「あの子ねえ、あれは『呼び質』かしらねえ……あ、これ頼まれてた本」
 「っと」
 階段下の玄関で待っていたツァランは、クリッサの差し出した書物を手に取ろうとして、うっかり取り落とすところだった。かなり分厚いが、その重さは見た目をはるかに超えて、尋常ではない。
 「気をつけてよ、落とさないでよ」と割烹着(エプロン)姿のクリッサは腰に手を当て、口うるさく、「それ、おっしょう様の蔵書なんだから」
 「ああ……」
 生返事をしながら、ツァランは両手で本を抱えあげた。黒く染め抜かれた革製の表紙を深緑のびろうどが縁どっており、その真ん中には真紅の糸で『ボイチッチ写本:かの崇高なる大六足獣による秘匿された性屍儀のうめき』との刺繍が施されている。見れば見るほど怪しい書物だが、実はこれは未知なる知を探求する学士のはしくれたるもの一度は目を通しておきたい有名な珍書なのである。帝国の塔のてっぺんに閉じこもったまま生涯一歩も出てこなかったと言われる変人博士によって記された、ずいぶん昔の本で、まっとうに考えれば荒唐無稽な大法螺を書き連ねただけとしか思われぬ内容だが、その完全にいかれた変態的文章のなかに、ときおり読む者をはっとさせる比喩があり機知があるのだという。それはひょっとしてここに何かしらの世界の真実が隠されているのではないかと思わせるほどのものなのだ(とツァランは何かの書物で読んだ)。
 「ひっどい題名」と、ツァランの手元を覗きこんだエーリーンが素直な感想を口にした。
 ツァランは溜息をついて、重たい本を玄関端にあった小円卓に預けた。
 「ところで、『呼び質』と言ったが」
 「ん?」
 小姑のような目つきでツァランのしぐさを見ていたクリッサは、彼の言葉に目を上げた。「そう。悪魔とね、なんていうか、波長が合ってしまう、そういう人」
 「悪魔?」
 ツァランは眉を寄せた。「あの文具店の娘が悪魔と通じていると? その相談に来たというのか」
 「ううん、あのお父さんは、もっと漠然と……、娘が気の病にかかったみたいだから見てくれって言ってきたの。なんでも、家に一人のときに、地下室にもぐって誰かと話をしてるみたいなんですって。それで、あのお父さん、怪しいのが隠れているんじゃないかと調べてみたんだけど、何も見つからないっていうの。それでもあの子、ひとりでぶつぶつ何かをしゃべっているんですって」
 ツァランは考え込んだ。「それは悪魔がどうこういう話ではなくて、……親父の言うように気の病じゃないのか。何かふさぎこむようなことでもあって……」
 「それにしちゃあ目の色が尋常じゃないのよねえ」
 クリッサは首をかしげ、「とにかく、わたし、あの店で何度か買い物したことあったしね。うちが交霊や悪魔祓いをやってるってのをどこかで聞きつけたみたい。——だけど、ツァランこそどうしてそんなにこだわるの。あの子、知り合い?」
 「いや、知り合いというわけでも」
 ツァランは言葉を濁した。「ぼくもあの店は行きつけだったからな。娘を久しぶりに見かけたと思ったら、ずいぶん面相が変わっていたもので度肝を抜かれた」
 嘘は言っていない。
 さいわい、クリッサは「まあねえ、ずいぶんやつれたわよねえ」と、納得した様子である。腕を組むと、
 「なんていうのかなあ、……悪魔を呼べる呼べないってのには、もともと体質が大きく関係してるのね。たとえば、ちゃんと黒魔術を勉強して、きちんとした儀式の手順も踏んでいるのに、何度やっても悪魔が出てきてくれない人ってたくさんいるのね。だけど一方で、なんの訓練も積んでいないし手順も踏んでいないのに、ふとしたひょうしに、そうと気づかず悪魔を呼び出して交感しているような人もいて、それを『呼び質』っていうの。だから、わたしたちみたいな魔術師の卵は、まず食べるものを変えたり、睡眠のとりかたを変えたり、香油を身につけたりして、体質改善から始めるわけだけど。呼び出したい悪魔によって整えるべき〈体脈〉も違ってくるから、魔術師は日々の生活のなかで色々と対策を練って悪魔召還にそなえるというわけなの」
 長々と説明しているうちに興が乗ってきたのか、クリッサは嬉しそうに、
 「たとえば地獄第八層に住む紳士悪魔のトゥクルカは、両刀づかいで処女や童貞を好むのね。だからこのトゥクルカを召還する魔術師も、儀式のしばらく前から処女や童貞がうろうろしているところに紛れて生活して、そのフレッシュなにおいを自分に移すよう心がけたりするのよ。まあ、あまりそのにおいが染みこみすぎると、呼び出した瞬間にうむも言わせず食われちゃうから、それも難しいんだけど」
 いつものこととはいえ、若い女の口から出たとは思えぬような、下品ですっとんきょうな説明である。ツァランはあきれかえった。
 「処女や童貞に特有のにおいがあるなんぞというのは中年男の変態的幻想だと思っていたが」
 「あら、あるらしいわよ! 一人前の魔術師になるためには、そのにおいの嗅ぎわけって必須のスキルなのよ。あたしはまだまだ半人前で、よくわからないけど」
 「半人前のままのほうがいいような気もするね」とツァランはつぶやいたが、クリッサは気にも止めず、
 「それから、地獄第十二層に住む、気の遠くなるような口臭で呪いをささやく毛むくじゃらの大悪魔ムルムルを呼び出すときには、くさりかけのチーズだの、醗酵卵だの、にんにくだの、醗酵魚だのをしこたま食べて、その口臭に耐えうる体にしておく必要があるの。くさいものにはくさいもので対抗ってわけね」
 「……まあ、それはいいとして」
 ツァランは咳払いをし、「うっかりそういう『呼び質』になってしまって、そうとも知らず悪魔を呼んでしまっている人間に、きみらはどう対処するんだ?」
 「そうねえ。それぞれ施療のやりかたが違うから、まずどういうタイプなのを見極める必要があるのよね」
 クリッサは首をかしげ、「ツァラン、あなたさっき言ったでしょ、悪魔がどうこうじゃなくて、何かふさぎこむようなことがあったんじゃないかって。はっきりしたことはいえないけど、どうもあの子の場合、両方のような気がするな」
 「両方?」
 「そう。何かショックを受けるようなことがあって、滅入っちゃった心のすきまに——悪魔が入り込んだのかしらねえ」


 〈大魔法使いの古屋敷〉を出たときには、日も西の空のきわに沈もうとしていて、あたりはずいぶん暗くなっていた。昼間はあんなにあたたかかったが、夕方となるとまだ空気が冷える。
 エーリーンは彼の横で黙って歩いている。クリッサの家にいるときからずいぶん寡黙だったが、これは嘘とも空想ともつかぬ話をひねもすしゃべりちらしている彼女としては、いささか珍しいことである。
 「――おとなしかったな」
 エーリーンはちらりとツァランを見、視線を前に戻して「そうかしら」と言った。
 「静かだったろう」
 エーリーンは「うーん」と唸った。「……ツァラン、あのおじさんはお世話になってる行きつけの店の主人だって言ったでしょ」
 「それが何か?」
 「もしそうなら、どうしてさっき顔を合わせたくなかったの」
 「ああ」
 ツァランは顎を撫でつつ、少し考えた。
 「支払いのつけが溜まっていたのでね、親切な店主だけに気まずかった。まあ、こちらが一方的に悪いだけのことだが」
 ふうん、とエーリーンはつぶやいた。信じているかどうかはその反応からはわからなかった。
 「しかし、重症だときみも言ってたが、悪魔つきとはね」
 ツァランの言葉にエーリーンは再度、唸った。
 「重症は重症だけど……、あれ、ただの恋わずらいじゃなくて」
 ツァランはぎょっとしてあやうく立ち止まりそうになったが、つとめてその驚きを押し隠した。
 「……つまり悪魔などではなく、誰かと逢引でもしているという意味か? 男のほうがうまく隠れおおせ、あるいは逃げおおせて、店主が地下室を探したときには見つからなかったと?」
 「さあ、そこまではわからないけど」とエーリーンは歯切れ悪く答えた。
 ツァランは眉を寄せた。「……だが、ふつうの人間を相手にした恋わずらいで、あそこまで面相が変わるものか? そりゃ、あの年頃の子は感情の起伏が激しいから、その反動で多少やつれることはあるかもしれないが、恋わずらいなど、しょせん瘧(おこり)のようなものだろう。数日すれば収まる熱病のような」
 「あんたの恋わずらいは、そりゃそうだったのかもしれないけど、そんなの人それぞれだわ。ああいう顔あたしこれまで何度も見たけど、みんな恋わずらいだったわよ。好きで好きで思いつめちゃってるか、でなきゃ」
 エーリーンはそこで一回言葉を切り、少し考えてから、
 「失恋ね」
 と言った。
 ツァランはちらりと彼女の横顔を見た。エーリーンはしかつめらしく考え込むような表情をしている。
 「好きで好きで思いつめて、ねえ」とツァランはあいまいに、「それが本当だとすると、たかが一人の男に失恋したからといって、あそこまで体を痛めるのはいたたまれないな。自分の存在が全否定されたわけではあるまいに」
 「何もわかっちゃいないのね」
 エーリーンは高飛車に、「当人じゃないからそんなこと言えるのよ。本人の世界じゃ、それがすべてなんだから」
 断定的な物言いだった。エーリーンの言い分に多少の真理があることは理解していながらも、ツァランはわずかに苛立った。
 (なぜこの女はいつも、こうなのか)
 「――そういうきみは、まるで何もかもお見通しのようで」と、ツァランは皮肉っぽく言った。「しかし、なんでもかんでも恋の病の言葉で括って、実のところいったい何がわかっているのかね。結局やっていることと言えば、複雑な情の動きを単純な色で塗りつぶし、美化しているにすぎないのじゃないか」
 エーリーンは大きな目をきゅっと険しくしてツァランをにらみつけた。
 「恋の病としか呼びようがないものを、そう呼んでいるだけのことでしょ。少なくとも、あんたよりはずっとものがわかっていると思うわ」
 「なるほど」
 ツァランはゆっくり相槌をうって、「しかし、なにかしらの感情を恋わずらいと名づけたことで問題が解決するのか、ぼくには甚だ疑問だが。いったいぜんたい恋愛と世に呼ばれているものの大半は、思い込みと独占欲に性欲が結びついたものにすぎないと思えるし、――いや、あの文具屋の娘が取り立ててそうだと言っているんじゃない。だが、恋わずらいのなかの少なくとも一部には、確実に自己陶酔がある。そこを本当の意味で自覚すれば、軽くなる症状だってあるし、乗り越えられるものだってあるだろう」
 「――あきれた!」
 エーリーンは叫んだ。「デューラムもちょっとお間抜けだと思ってたけど、あんたって相当だわ!」
 「これはきびしいお言葉で」とツァランは肩をすくめた。「確かに、感受性ゆたかな女性からすれば男はみんな唐変木でしょうよ」
 「あんたは中でも特別よ。特別厄介な唐変木!」
 「はあ」とツァランは言った。「まあ、きみのようにロマンチストではないだろうと思うが。しかし、ぼくは単に合理主義なだけですよ」
 「ちがうわ、あんたは単に幼稚なのよ」
 エーリーンはぴしゃりと言った。「ちょっと痛い目にあうがいいんだわ」
 とりつくしまなくそう言うと、彼女はぷいとそっぽを向き、立ち止まっているツァランを置いたまま早足で去っていった。ツァランは夜に染まる通りを遠ざかっていく細い背中をぼんやり眺めた。
 (結局こうなる)
 呆れているのは、なかばは彼女に対してであり、なかばは自分に対してである。大人気ないとも思うが、相性が悪いというのはこういうことで、ついつい言葉に無用な棘が出る。
 と、
 「あら、ツァラン」
 後ろから声がした。振り返るとクリッサが籠を手にぶらさげて立っている。彼女は目をぱちくりさせ、通りの向こうと彼の顔を見比べると、「まだこんなところにいたの。エーリーン行っちゃったけど」と言った。
 ツァランは溜息をついた。「きみは買い物か」
 「そう。ラードと卵を切らしてたの忘れてて、あわてて出てきたの。ツァランは酒場?」
 「ああ」
 二人は並んで歩き出した。いくつか角を曲がり、商店の立ち並ぶ通りに向かう。先ほどエーリーンが眺めていた人形師はまだ同じ場所にいた。ただし劇はすでに終わったようで、舞台は大方たたまれ、地面に敷かれた布の上に竜と王子のミニアチュアの人形が並べられている。
 劇に登場する操り人形を、姿かたちだけ似せ、子供のおもちゃや飾り物のために小さく作り直したものだ。本物ではないので、操り糸や棒はついていない。投げ銭だけではなかなか日銭も稼ぎにくいのか、劇の後にこうした露店を開く人形師は多い。
 「……あ、そういえば」
 露店を興味深そうに横目で眺めながら、クリッサが口を開いた。
 「あの子、あんな木の人形を一個、手に持ってたなあ。ちょっと気になったんだけど、くわしく聞くの忘れちゃった。次のときに尋ねてみないと」
 「人形?」
 ツァランはクリッサの顔を見た。「あの文具店の娘か?」
 「そう……、なんだか見覚えのある人形だったわ」とクリッサは眉を寄せ、「なんていったかなあ、知らない? たまに大道芸で人形劇をやってるのを見かける、あの……、青いマントの、怪盗? じゃなくて人さらいだったかな」
 ツァランは立ち止まった。クリッサが不思議そうに振り返る。
 「ネドバル・ネイエドリか」
 「そう!」
 クリッサは天真爛漫に破願した。「怪人ネドバル・ネイエドリ。あの子その人形をにぎりしめてたのよ」






 ……。
 ……。
 え?
 ……ネイエドリ?
 ネイエドリ、あなたなの?
 ……。
 ……。
 ――ああ! うれしい。来てくれたのね。会いたかった、会いたかったわ。ああ、お願い、入って、部屋の中に入って。うれしい、あなたのほうから来てくれるなんて。
 ね、そこ、寝台に座って。声を聞かせて。ね、お話をして。
 そうなの、あの人たち地下室に行く扉に錠をかけて、そうして鍵を隠してしまったの。地下室に行かせてって何度も何度も頼んだのに、怖い顔でにらみつけてくるだけなの。悲しくて悔しくてたまらなかった。あなたに会えなくて、ものも食べる気がしなかった。
 さみしくて、ずっと泣いてたのよ。ああ、てっきり、あなたはどこかに行っちゃったと思ってた。もう会えないんだと思ってた……。
 名前?
 さっき呼んだ名前のこと?
 ……そう、ネイエドリ。あなたなんでしょう? だって、ほんとうにそのまんまなんですもの。一人ぼっちの女の子のところにお話をしにきてくれる魔法使いでしょ? 小さいころ、あのお話好きだったのよ。通りで人形劇をやっててね……。貧しい子どものところに贈り物を持ってきたり、かわいそうな王女様を助けたり……、好きで好きで、おねだりして、おもちゃの人形を買ってもらったの。そう、おねだりして……
 ……。
 ……。
 ――誰におねだりしたんだったかしら?
 ……。
 ……。
 あら、笑ってる! わかってるわ、馬鹿なことを言ってると思ってるんでしょう。わたしだって少し大きくなると、あんなの子供のおとぎ話だなあなんて思うようになってたのよ。でも、あなたはこうして会いに来てくれてる。あなたは本当にいたんだわ。だってほら、この青い服。昔、人形劇で見た、あのまんまだわ。
 そうよ、あなたはわたしの魔法使いなの。わたし、あなたに会えてとってもうれしいの。
 ね、近くに来て。わたしのそばに座って。
 あなたの肌ってとっても白いのね。髪の毛もこんなに真っ白……、銀髪って言うのかしら。
 ――触っていい? 細い髪。男の人なのに。
 ……わたしもね、こんな茶色じゃなくて金髪がよかったのにって思ってたの……、
 ……。
 ……。
 ……あなたの指って、ひんやりしてるのね。
 長い指。
 ……。
 ……。
 ううん、いいの。触られるの、いやじゃない。
 気持ちがいい。
 落ち着くの。
 ……。
 ……。
 ねえネイエドリ。
 前に言っていたこと、ほんとう?
 わたしを連れて行ってくれるって。あのときは恥ずかしくて笑ってしまったけど……、
 いまからでも遅くない?
 ……。
 ……。
 ねえ、わたしあなたのこと好きよ。
 あなたに触ってほしいの、
 あなたに触っていたいの。
 ……。
 ……。
 ……。
 ねえ、ネイエドリ。
 キスして……。
 好きよ、好きなの。
 わたしにキスして、お願い、お願い、お願いよ、
 連れていって。
 わたしを一緒に連れていって。
 ああ、ネイエドリ、ネイエドリ、
 ネイエドリ、
 ネイエドリ、
 ネイエドリ。





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