ower of Peridot.

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 一組のつがいの鳥が、中庭の形に四角く切り取られた青空からおりてきた。二羽の鳥は、密集して植えられた東方由来の低木のあいだを低く旋回すると、向かいの屋根を飾る鬼神彫刻の上にならんで陣取った。蛙の前足のような腕を首の下からはやした、そのほかはほぼ頭だけの像である。八百年前にこの建物が建造されたころには、おそらく罪業の恐ろしさと地獄の苦悶を人びとに伝える象徴として取り付けられたのであろう。だが、するどい牙をむきだしにするその表情も、今となってはどことなく滑稽だ。たれさがった眉毛と妙に丸い輪郭のせいで、頭を小鳥に踏まれて困惑しているようにも見える。屋根のそこかしこを点々と飾る鬼神たちの表情がそれぞれ少しずつ違うのが、またユーモラスである。
 ヂッ、ヂッと鳴くと、つがいの鳥は駄目親父のような鬼神の顔を蹴りつけ、芝におりて何かの種をつつき始めた。初夏の午後は明るく、その空気はおだやかだった。しばらくこんな気候が続けばいいのだがと、回廊の階段に立ったツァランは思った。
 となりの青年が大あくびをする。たしかにこの陽気では眠くもなる。午(ひる)すぎのこんな時間、中庭からのそよ風に吹かれながら長々と待たされたのでは、なおさらである。いまあくびをしたのはツァランのすぐ「前」に並ぶ青年だ。青紫色の学帽と同色の短めのガウン、ならびにその下の軽装からして、<文芸の塔>の学生かと思われた。ツァランより五つ・六つほど若いだろうか。あまりこの建物に来た経験もないのだろう、最初にツァランが後ろに並んだときには、不自然なほどぴんと背筋を伸ばしていたが、待ち時間が長くなるにつれ背を上から吊っていた「緊張」という名の糸もたるんでしまったようで、いまとなってはツァランと変わらぬだらしなさで階段の手すりにもたれかかっていた。
 反対側、すなわち階段の下のほうを見れば、似たような格好の学士や学生たちが、おおよそ十五人ほども並んでいる。みな、階段の正面の分厚い扉の向こうにいる、ある人物との会見のために集った者らである。
 ここはヘプタルクの学問機関、<緑橄欖(りょくかんらん)の塔>の三塔である法学、医学、文芸のうち、<法学の塔>に属する建物である。八百年前、帝国が山脈を超えてその支配の手を伸ばしてきたときに、学僧のつどっていた由緒ある古い修道院が帝国風の学問機関へと建て直された。それが<緑橄欖の塔>の起源である。この建物の主な部分はそのときに建造されたものらしく、ツァランがふだん仕事をする王立図書館の写本館などとは比べ物にならないほど凝ったつくりだ。現在は各塔の評議員らの学務・執務に用いられている。今、ツァランが長い列の二番目で会見を待っている人物も、法学評議員としてここに部屋をもつ人物だ。
 隣の学生が、もう一度手を添えて大口をあけようとした。――と、閉ざされた扉の奥から、どんとにぶい音が響いた。続いて低いがよく通る声。
 「次!」
 その瞬間、若い学生はもう一度頭のてっぺんを糸でつられたように背筋をしゃんと伸ばし、はい、と大声で叫んだ。こげ茶色の重そうな扉が開き、しょぼくれた顔の中年学士が出てくる。それと入れ違いに、青紫のガウンの青年は、先日見たあやつり人形よりもぎこちない動きで扉の中に入って行った。
 扉が閉まって、二言、三言、言葉が交わされた。しばしあって、低い声。驚いたように聞き返す声。低く答える声。
 どん、と音がした。「次!」
 ふたたび扉が開き、さっきの学生が出てくる。呆然としたおももちだ。無理もないとツァランは思う。たっぷり一刻近くも待たされたというのに、小さな卓上砂時計の砂が落ちきるだけの時間すら費やされないとは。
 文書の束を両手に抱えてよろよろ去っていく学生を尻目にツァランは扉の中に入った。「失礼します」
 評議員室は、床面積としては特筆すべき広さではない。だが天井の高さが通常の二倍ほどある。その天井までいっぱいに延びた左右の壁全面の本棚に、巻物や本のたぐいがぎっしりと詰め込まれているさまは壮観である。本棚の下部分には、古めかしい、だが凝った意匠の石の浮き彫りで聖人譚がぐるりと刻み付けられている。扉の正面にはやはり天井まで届きそうな巨大な窓があって、透明度の高い高価な硝子を通じて初夏の光が差し込んでいた。
 その窓を背景に、一人の禿頭(とくとう)の男が座っている。ゆうに部屋の三分の二はありそうな幅の書斎机に向かって熱心に羽根ペンを動かしており、ツァランの入室にも顔を上げさえしない。書斎机のはしには小さな木槌と革張りの黒い台とが置かれている。「次」という声にともない聞こえたのは、この木槌が振り下ろされる音なのだ。
 「名乗りたまえ」と男は書きものを続けながら言った。
 「王立図書館づきの写本士ツァラン。ごきげんうるわしく、ジェローム博士」
 ジェローム博士はここで始めてちらりとツァランに目を向けた。が、すぐに書類に目を戻す。
 「ごきげんよう、ツァラン君。よい天気だな。簡潔に用件を述べたまえ」
 さては先ほどの学生、あれほど呆然としていたところを見ると一瞥さえ向けられなかったかな、とツァランは思いつつ、「仕事が終わりました」と言った。
 「なんの仕事かね」
 「帝国暦七六五年と七六六年、すなわち今から数えて八十年と八一年前の治安衛兵詰所の文書を整理し、非重要文書を処分する仕事です。<雁金(かりがね)の文書室>の室長に博士がことづけられましたでしょう」
 博士は手を止めないままに、その厳つい眉のあいだに怪訝そうなしわを刻んだ。「もう? その仕事は昨日始まったばかりのはずだ。まともにやればきみでも四、五日はかかると見積もっていたが。どのように振り分けた?」
 「粗悪なインクと粗悪な紙の組み合わせで完全に読めなくなっている文書を全部捨てました。そうしたら半分になった。言われた目標に近い」
 「読めなくなったものを捨てただけかね。わたしは四分の一にしろと伝えたはずだが」
 「いま残っているのはもう、重要文書とそうでない文書の判別などつかないんですよ、博士」
 「いいかね、ツァラン」
 ジェローム博士はゆっくりと言った。完全に禿頭なので老けてみえるが、ツァランの記憶がまちがっていなければこの博士はまだ五十そこそこである。声にも独特の威圧感と張りがある。
 「きみが渡されたのは、大臣の不正の証拠から、治安衛兵隊長がひまつぶしに描いた卑猥な落書きまで、ごちゃごちゃに混じっている箱だったはずだ。知見をつんだ学士ともあろうものが、重要な文書がどれであるかもわからないというのかね」
 ツァランは肩をすくめた。「治安衛兵隊長の卑猥な落書きに、後世にとって有用な情報が詰まっていないと、どうして言えるんです。<文芸の塔>の博士か誰かが、いつか中年男の性妄想について分析するための重要な事例になるかもしれませんぜ。でなければそのうち、その治安衛兵隊長が不届きな謀反をたくらんでいたことをどこかの歴史家が暴露し——そして——その謀反活動の暗号が牛の交尾の絵のなかから見つからないとも限らない」
 「残念だが、屁理屈を聞いているひまはわたしにはない」
 「わたしが言っているのはですね、ジェローム博士」
 ツァランは少し声を強めた。
 「情報というのは、つねに『何かにとって』重要だったりそうでなかったりするということです。なんの基準も与えられていないものを、重要だとか価値がないとか区分などできませんな。そんな程度のことはあなただって百もご承知のはずだ」
 「そのとおりだ、ツァラン君。だが学士はみな前提として共通の基準をもっている――『知的常識』という基準だ」
 ジェローム博士はにこりともせずに、「ちなみに先ほどきみの言った例に則して言うならば、衛兵隊長が描いた牛の交尾の落書きが謀反の暗号であった可能性は、理論的には零(ゼロ)ではない。だが実際的に考えればその確率は、一割の十分の一の、さらに十分の一以下で、われわれの知的常識に従えば、これは零に限りなく近いということになる。そして私はきみに理論に従って働けとは命じていない。実利的必要性に応じて、その文書群を四分の一にしろと命じたのだ。であれば、牛の交尾のへたくそな絵は捨てるよりほかない」
 「わかりました、では牛の落書きについてはあなたのおっしゃるとおりとしましょう。なかなか色っぽい牝牛でしたが、残念だ」
 ツァランは肩をすくめた。「だがたとえば、今日わたしがまかされたのは八十年から八一年前の文書ですが、このあいだにずいぶん多くの娼婦が死体で見つかっている旨の記録がある。そしてたとえば、徘徊癖のある三男坊が帰ってこないという届け出が一人の魚屋から出されています。こんなのはみな重大な政治事件とはなんのかかわりもないように見えるでしょう。個々の事件はそうだ。ですが」
 ツァランは言葉を切った。
 思ったとおりジェロームは書き物の手を止めず、およそ話を聞いているようには見えない。この男が二つの思考を同時に進められる稀有な人間であることを、ツァランは知っていた。知っていたけれども、苛立たしいことは苛立たしい。ツァランはこれ見よがしに大きな咳払いを一度、二度、してみせてから、
 「……ですが、十年、二十年単位でこれらの事件を集めていったとき、彼らの死や失踪が全体として重要な社会的真実を示している可能性は高いと思いますな。たとえば娼婦の死がいちじるしく増えている背後で、新たな組織的女衒(ぜげん)が成立していた可能性もある——新しく台頭した女衒組織に加わらない者が粛清されることはよくあります——でなければ、昨今少しずつ広がりだしている、あのたちの悪い麻薬の流入が、さかのぼればこのころだったのかもしれない。少なくともこうした可能性は、一割の十分の一よりは上のはずです。ある時期にある階層の人間の死体がいちじるしく増えたのであれば、背後に何もないはずがない。そういう重要性は、たかが一年、二年の文書を渡されたところで判別しようがないのです。
 さらに付け加えさせていただくならば——わたしにとっては、一人の魚屋の息子が人知れず跡形もなく消えてしまった事件は、同じころ、どこぞの公爵夫人が桃色のドレスを買ったとか紅玉の指輪をもらったとか、そういう話よりもくだらない歴史的事実ではありませんな。後者の文書は両手一杯ほども、革張りの箱に入れられて重要資料庫に保管されていますがね。しかし、これはわたしの学士としての『知的常識』とやらがゆがんでいるだけの話ですか」
 ジェローム博士は大きなため息をついた。それから仕方なさそうに羽根ペンをインク皿に置くと、両手を机の上で組んでツァランを見た。
 「きみの理屈は完全に正しい。そして塔なる組織の根本的な矛盾を言い当てている。きみの知っているように、知というものはつねに不完全だ。未来において知がいかなる方向に発展するかは、無限大の可能性を秘めている。そして時々の時代におけるもっともすばらしい知の成果は、未知なる真実を想像することができ、またそれを追い求めることが許された、一握りの学者のなかから生まれる。
 しかしながら、いかなる塔においても——このヘプタルクの<緑橄欖の塔>においても、帝国の<黒曜の塔>においてもだ——残りの大部分の営みは、未来の可能性ではなく、これまでに確実になった重要性にもとづいて行われるのだ。そしてきみが今行っている作業も、『残りの大部分』に属する」
 「それは誰が決めますので?」とツァランは聞いた。
 「少なくともきみではない」
 ツァランは片方の眉を上げた。「ジェローム博士、ひとつおうかがいしても?」
 「なんだね」
 「なぜこんな仕事の監督をあなたがやられているので? わたしがこうしてあなたのところに来るのは、先月と今月だけでもう四回目だ。あなたは<法学の塔>の評議員ではないですか。階位からすれば、わたしのような下っ端学士の雑務の監督など任せられるのはおかしい」
 「わたし以外の人間が監督者になった場合、きみの仕事の作業効率は二割以下に落ちるからだ。きみは与えられた仕事ではなく、監督者を舌先三寸で丸めこむことに尽力しすぎる。そして記録を見る限りでは、わたしを除くたいていの監督者が丸めこまれているようだ。
 理解したかね? ならば行きたまえ、ツァラン君。きみの仕事は終わっていない」
 ツァランは聞かれないように口の中で舌打ちすると、きびすを返して扉に向かった。取っ手に手をかけたところで、後ろから声がした。
 「そうそう、先ほどの娼婦の失踪と魚屋の三男坊の文書だが、興味を持ったのならば持って帰りたまえ。いま重要なのは塔の書庫に空き場所を作ることであって、その嘆願書の行き先にわたしは興味はない。くずかごであろうと、きみの書棚であろうとな」
 言い終わるが早いか、ジェローム博士は間髪入れずに机の上の木槌を叩いた。「次!」







 夕暮れの町並みを、ツァランは鬱々と歩いていた。ジェローム博士から言いつけられた仕事は結局終わらなかった。あの博士はいけすかないが阿呆ではないのだから、ああいった種類の仕事がとりわけツァランに向かないことを、よく知っているはずなのだ。重要人物の書類だけ抜き出せと言われれば、なんの疑問もなく言われたとおりに動ける学士をなぜ使わないのか。
 (そもそも、おれは写本士だ。なんだってあんな作業をやらされなくてはならない)
 ただ——面白くない時間ばかりではなかった。すっかり失念していたが、彼が与えられた文書の束は、ちょうど先日ダグラスの前で話題にした怪人ネドバル・ネイエドリと同時期のものだったのだ。当時ネイエドリを追いかけた治安衛兵隊長が、上部機関にあたる王宮衛兵隊に興味深い報告をおこなっているのを、ツァランは見つけた。それによると、衛兵らは一度ネイエドリを捕まえるのに失敗しているらしい。
 八十年前の七の月、当時の第二王子妃の寝室の前で発見された不審な男は、衛兵が問いただすときびすを返して三階の窓から下に飛び降りた。大けがをするかと思われたが、見事に着地すると走り出し、そのまま逃げた。多数の追っ手が彼に迫り、ネイエドリのアジトがあると噂されるコホート通り近辺に追い詰めた。誰かの放った矢がわき腹に当たったようで、血のあとが点々と落ち……。
 だが、そのコホート通り付近の入り組んだ路地で、ネイエドリとおぼしき男は忽然と姿を消してしまったのだという。全方向から包囲しており、しかも大怪我をしているから遠くへは逃げられないはずなのに、ネイエドリは見つからなかったのだ。この衛兵隊の失態は、大臣のお歴々の機嫌をたいそう損ねたという。
 ネイエドリはそれから数日後に王城の外堀付近をふらふらしているのが見つかって、とらえられた挙句、縛り首になっている。
 奇妙だな、とツァランは思った。
 ネイエドリはずいぶん巧妙かつ狡知のある男のように伝えられている。なのに、なぜ一大逃走劇を繰り広げた数日後のまっぴるま、のこのこと王城付近に出てきたりしたのだろう。
 興味深い一部始終ではある。だが、それ以上に何かを語るものは、ツァランのまかされた文書のなかには発見できなかった。
 (コホート通りか)
 ネイエドリのアジトがあると文書には書いてあったが、聞かない通りだった。都の南のほうだろうか。
 それにしても、明日も同じ仕事かと思うとつくづく気が滅入る。酒でもひっかけようかと考えて、そういえば最近までこの曜日は東の下町で飲んでいたのだったと、ツァランは思い出す。——例の文具店に行った帰りに酒場に寄っていたのだ。
 文具店にはあれから行っていない。店主には悪いことをした。気のいい親父で、得意客ということでツァランもずいぶん便宜を図ってもらった。薄情な客だと思われていることだろう。
 ブラジェナにもらったビスケットは、どうしたものかと思ったが、人にやるのも気が咎めたので、けっきょく全部自分で食った。少し固くて砂糖がじゃりじゃりする箇所があったが、それなりにうまかった。
 ——あのう!
 ——次の安息日は、おひまですか!
 思い出して、ふと口元がほころぶ。
 (ういういしかったな)
 かわいらしい娘であるのに間違いはない。真面目そうでもある。近所の家の息子か何かといい仲になれば、よくできた恋人として幸せに暮らすのではないか。
 罪悪感がちらりと胸をよぎった。
 (あの日は少し強く言いすぎたか)
 だがやわらかく言ってどうなるものでもない。仕方がないことなのだ。
 ぼんやり歩いていると、斜め前から子供の歓声が聞こえてきた。見れば小さな大道人形劇がやっている。この前の男とは違う人形師で、もっと若い。騎士とおぼしき鎧の人形と竜が見えることからして、題目も怪人ネイエドリではないようだ。群がっているのは、十歳前後の子供が五〜六人と、子連れの母子が三組ほど、そして……
 「あ」
 ツァランは思わず声を出した。その声に、子供らに混じって人形劇を見ていた赤毛の女が振り返った。
 「あら、ツァラン」
 「エーリーン」
 何年かのつきあいになる飲み仲間の一人なのだが、正直なところ、ツァランはこの女がそれほど得意ではない。思わぬ反応をしてくるので会話の距離がとりにくいし、ほかの飲み仲間と同じように軽口を叩いていると、売り言葉に買い言葉ですぐ喧嘩になる。要は相性が悪いのだ。
 エーリーンは少し首をかしげると、ツァランのほうにやってきた。「何してるの」
 「何って、べつに」
 歩いているだけである。
 「どこへ行くの?」
 「いや、べつに……」
 決めていない。どこに行こうかを考えながら、漫然と帰り道を歩いていたのだ。
 「何それ」とエーリーンは言って、ふくれた。どうやらツァランの態度が、意図的に彼女に何かを隠しているものと思ったらしい。ツァランは心の中でため息をついた。
 「クリッサのところにでも行こうと思った。借りる本があって」
 「ふうん」とエーリーンは言った。「あたしも行っていい?」
 「人形劇を見ていたんじゃないのか」
 「もういいの。あれ、もう何回も何回も見て、せりふまでおぼえちゃってるんですもの」とエーリーンは肩にかかった巻き毛を払い、「それに、あの人形師そんなに上手じゃないの。まだまだの腕ってとこ」
 「はあ。……じゃ、ご自由に」
 二人は歩き出した。クリッサはやはり彼らの飲み仲間の一人であり、占い師の女である。自分では大魔女となるべく修行中などと言っているが、ここ数年ほど彼女の様子に変化は見られない。日々やっていることといえば、神秘の魔術書に読みふけったり、ほうきで空を飛ぶ練習をすることでもなく、単に彼女が「おっしょう様」と呼ぶ人物の家事手伝いでしかない。だがその「おっしょう様」にかんして言えば正真正銘の魔術師であるとツァランはふんでいる。もちろん、「正真正銘の魔術師」なるものはぺてん師や狂人を含む、という意味においてであるが。少なくとも世の魔術師(あるいはぺてん師や狂人)ならば持っていてもおかしくない奇奇怪怪な文書や品物のたぐいが、クリッサの「おっしょう様」の住居には山ほど積み重なっていて、中には王立図書館ではなかなかお目にかかれないようなものも多い。
 ヘプタルクの市壁の一角にこびりつくように建っている、その魔術師の古い館までは、歩いて多少の距離があった。
 「最近きげんが悪いんじゃなくて」
 しばらく歩いた後でエーリーンが沈黙を破って言った。ツァランは横目で彼女を見た。
 「そんなことはない。気のせいだろ」
 「気のせいじゃないわ」とエーリーンは呟いた。ツァランは肩をすくめた。
 「つまらない仕事をやらされていてな。その監督者がまた面白味のない男で、ちっとも話が……」
 はずまない、と言いかけながら角を曲がったところで、ツァランは足を止めた。
 その道をまっすぐ行った場所に、クリッサの住み込み先、通称<大魔法使いの古屋敷>の入り口がある。そしてその入り口から、見覚えのある人影が出てきたのだ。一人は中年の男性、そしてもう一人は、マントか毛布のようなものに全身をすっぽり覆った小さな人影。
 「なあに、どうしたの」とエーリーンが後ろから顔を出す。
 ツァランは思わず体をひるがえし、壁状になった角のかげに隠れた。気づかないとは思うが、騒いでいれば見られることもあるかもしれない。いや、本当ならば隠れる必要もなかったのかもしれないが、考えるより早く体が動いてしまった。
 「ちょっとなあに、スパイごっこなの?」とエーリーンが眉をひそめ、「またあんた、悪いことやって誰かに追っかけられてるの?」
 「黙って」
 エーリーンは不服そうに口をつぐんだ。ツァランはそのまま少し顔を出して角から覗く。
 (やはりそうだ)
 中年の男性のほうは、あの文具屋の店主である。もうひとつの小さな人影を腕で支えるようにしながら、ゆっくり、ゆっくりと玄関前の階段を下りている。だとすれば、マントか毛布の人影は彼の妻、あるいは娘のブラジェナであろう。しかし、なぜあんな格好をしているのか。まるで人目を忍んででもいるかのようだ。
 そもそも、クリッサの生業は占いと交霊術である。あの健全そうな文具店の店主が、よもやそんなあやしげな退廃に耽溺しているとも思われないが——
 そのときである。マントにくるまった人影が方向を変えようとしたひょうしに、足元をふらつかせた。頭部を覆っていたマントがずれて、顔があらわになる。
 ツァランはぎょっとした。
 栗色の髪、見覚えのある目鼻立ち——それは確かに彼にビスケットを贈った、あのブラジェナだった。いや、そうであるはずだった。
 だがその風貌の変化はいかばかりか。なにか忌まわしい力によるものとしか考えようのないほどだ。蒼白を通り越して灰色の顔色。やせこけて頬骨にはりついた顔の肉。頬の上の真っ黒のくま。もつれて毛玉のようになった髪の毛。あれほど若々しく健康そうだったブラジェナが、たった二週間かそこらの間に、まるで墓場をさまよう幽鬼のようなおももちになっている。まん丸に見開かれた瞳は前と同じ美しい色ではあったが、何をも映しておらず、まるで木の人形の顔に埋め込まれた硝子玉のようだ。その下では異様に青い唇がぶつぶつと動いていた。
 一瞬ののち、父親の店主が腕をのばして娘の体をささえた。娘に何かを話しかけマントを直しているが、娘がとくに返事をすることもない。二人はそのまま、ツァランとエーリーンがいるのとは逆の方向へ、ゆっくり歩き去っていった。
 「重症だわね」とエーリーンが言った。





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