nderground Dates.
……。
……。
ね、
そこにいる?
そこにいるの?
……。
……。
ああ! よかった、今日もいてくれたのね。しばらく来られなかったから、不安だったの。
ごめんね、だって父さんが夜更かしして起きてたり、母さんが帰ってきたりしていて、下りてくる暇が見つからなかったの。
しびれを切らして、どこかに行ってしまったかと思ったわ。
え?
あら、おせじ言ったって駄目なのよ。わたし、だまされないわ。
だって、わたしあんまり面白い子じゃないもの、知ってるの。
最近だって、ふられちゃったもの。
そう、あなたと初めて会った、あの日。ちょうどあの日なの。
相手はね、お客さんの学士さん。ちょっと年上の……。
たぶん無理だろうってわかってたの。わかってたんだけど……
どうして言っちゃったのかしら。自分でもよくわかんないわ。
そうね、きっと学士さんなんて珍しかったのね。だってあの、塔に出入りしてる人ってことでしょう? 塔って、博士様とか偉い人がたくさんいるところでしょう? 学士さんなんて、何回かお寺で見たことはあるけど、うちの店になんて来ないもの。お話できるなんて思ったことなかったの。学士さんだ、すごいって思ったら、いつのまにかぽうっとなっちゃった。ばかよね、わたし。どんな人かも知らないのにね。
でも……そんなものじゃない? もっとよく知らないと好きになっちゃいけないのかな。
そうね、さびしいのかな。友達はみんな恋人がいるの。
ううん、お父さんやお母さんは気にかけてくれるけど……。あんまり心配性なんで、ちょっとうんざりすることもあるくらいよ。だけど、ずうっとお父さんやお母さんと暮らしてるわけにはいかないわ。あたし女ですもの。誰かの奥さんになりたいし……
ううん、ちがうの。あの学士さんの奥さんになりたかったわけじゃないの。ううん、そこまで考えてなかったわ。ただ一緒に歩いたり、もっとお話したいって思っただけよ。
いまでも思ってるわ。
そうよ、だから川原を一緒に散歩してくれるくらい、よかったと思わない? 恋人がいたってそのくらい、いいじゃないのよね。けちよね。
名前?
あ! わたし、あの学士さんの名前、知らないんだわ。
やだなあ、もう。あんなにいつもあの人のことばっかり考えてて、ふられたときには一日中泣いてたくらいなのに……名前も知らないんだわ。
そうね、あの人もわたしのこと知らないのよね。
名前も知らなかったもの。名前はなんていうのかって、あの日聞かれたの。
……だいじょうぶ、泣いてないの、泣いてないわ。ちょっと思い出しただけ。ごめんね。
うふふ、あの学士さんの名前は知らないけどね、あなたの名前は知ってる。
……。
……。
ねえ、ひとつ聞いていい?
どうしてわたしの話を聞いてくれるの。
またそんなこと言って。おだてたって駄目だってさっき言ったじゃない。
……。
……。
でも……。
今言ったこと、ほんとう?
ヘプタルクの東の下町で文具店をいとなむマレクは、やせっぽちだが情の深い奥方と、内気だが愛らしい一人娘の二人に囲まれて、幸せにやってきたはずだった。自分の店をもったのは二十年ほど前で、最初はずいぶん無理をしたし、生活も苦しかった。だが、もともとペンだのインクだのにはこだわりがあったから、高価なものは置けなくともできるだけ良いものを集めようとがんばったら、そのうち固定客がついた。塔や図書館のある地域からはずいぶん離れているのに、ときどき学士の客も顔を出すようになった。店をもったときに作った借金も、妻と娘の手助けで店を休まず開けていたら、いつのまにか、ほぼ返せた。なかなかぜいたくはできないが、今のままで十分の暮らしだ。
これで、娘がゆくゆくはいい結婚をして願わくば近くに住んでくれたりすれば文句は何もない。奥方のヤナは、もう娘のブラジェナも十七だから、そろそろいい相手が出てきてもいいという。たしかに最近はだいぶ大人っぽくなってきた。まっすぐの栗毛からのぞくうつむきかげんの表情がかわいらしい。あいつは男泣かせになるぞう、とこのあいだヤナに言ったら、ヤナは少し心配そうに、「そうねえ、でもあの子ちょっとぶきっちょだからねえ」と言った。
ぶきっちょなものかとマレクは思う。無駄なおしゃべりはしないが必要なことはきちんとするし、内気に見えて、そのじつ勝気だ。だがその勝気なブラジェナがここ最近どうもおとなしいのはたしかなのだった。
おとなしい、というのはおそらく正しくない。心ここにあらずという様子なのだ。朝から晩までぼんやりしている。ほとんどしゃべらなくなったし店の手伝いもしたがらなくなった。友達と喧嘩でもしたのか、あるいはなくし物でもしたのかと尋ねてみたが、なんでもないと言い張るばかりだった。
最近は顔色まで青白くなってきたように思う。今朝など、朝食のテーブルについてしばらく何か独り言まで言っていた。さすがに少しおかしいとヤナに訴えてみたが、失恋でもしたのかしらねえと不安そうにしているだけで、あまり役に立たない。
ある夕方、店じまいをして居間へと入っていく途中、地下室へと続く扉の前に蝋が点々と落ちているのを見つけた。おい蝋を落とすな、気をつけろとヤナに言うと、ヤナはしばらく地下には入っていないと答えた。だが蝋の跡はあきらかに新しい。
だとすると犯人は一人しかいない。
しかしブラジェナが地下室になんの用事があるというのか。暗く湿っぽく、ぶどう酒やチーズなどを保存しておくほかには使いみちのない部屋だ。この家に越してきたときに三つほど衣装棚が置いてあるのを見つけたので、前の住人は寝室に使っていたのかとも思う。が、窓もないし、じめじめしているし、とても寝起きするような場所ではない。商品はもちろん大事なものもとくに置いていない。そんなところに、ブラジェナは何をしに入っているのだろう。
マレクは娘に、最近地下室に入ったかと聞いた。ブラジェナはぼんやりした目で彼を見返した。しばらくして彼女は言った。
「入ってないわ」
何かおかしいとマレクは思った。
数日後、ヤナが病気の父親の看病のために、また三日ほど留守にした。策を組むなら今日だ、とマレクは思った。
「一晩出かけなくちゃならなくなった」とマレクは娘に言った。「また一人にするが、戸締りをしっかりして気をつけるんだぞ。わしは次の日の昼までには帰ってくるから」
ブラジェナは微笑んで、「わかったわ、お父さん」と言った。
風の強い晩だった。マレクは一度家を出ておいて、夜遅くにこっそりと帰ってきた。音を立てないように玄関の扉を閉めて、暗い台所に身をひそめる。都の建物のあいだをぴゅうぴゅうと通り抜ける風の音は、家の中にいても耳に入るほどで、窓がひっきりなしにがたがた鳴っていた。娘はもう上で休んでいるようで、家の中は真っ暗だ。マレクはしばし待った。
どのくらい時間がたったろうか、階上で扉の音がして、うつらうつらしていたマレクははっと目をさました。ぱたん、ぱたんと誰かが階段を下りてくる音がする。ブラジェナだ。
(やはりか)
マレクはごくりとつばを飲んだ。
足音は階段横の扉を開けて、そのまま地下室へと下っていく。マレクは忍び足で台所を出た。細く開いた扉から地下室へと下る階段をのぞくと、ブラジェナが一番下の段に下りたって横の部屋に入っていくところだった。
灯りはもたず、こっそりと娘のあとをつける。暗い階段で足をすべらせないよう、だが足音も立てないよう、細心の注意を払いながら。
中途まで下りたあたりで、地下室から声が聞こえてくる。ブラジェナだ。何か話している。まるで誰かを呼んでいるような……、それから笑い声。
「会いたかった……」
たしかにそう聞こえた。
マレクは拳をにぎりしめる。
地下室に誰かいるのだ。そして彼の娘は、その「誰か」と話をしている。
しかし、いったい誰だというのだ?
マレクは階段を最後まで下りて、やはり細く空いている扉から地下室の中をのぞいた。ごくごく小さな燭台の灯りに照らし出され、ブラジェナが床に座っている、その肩の線が少しだけ見えた。少し前かがみになって、目の前にいる誰かに何かをささやいている。よく聞き取れないが、やわらかく優しい調子——父親のマレクでも聞いたことのないような、独特の甘えた調子だ。そのブラジェナに応答する低い声をマレクは聞いたように思った。角度の関係で、彼女が向き合っている相手は見えない。だが——
(男だ)
マレクはそう確信した。頭の半分は驚いていた。だが、心のどこかで自分はこれを疑っていたような気もした。娘は両親の不在に男を連れ込んで、こっそり密会しているのだ。近ごろ様子がおかしかったのはこのためなのだろう。父親や母親に明かせない秘密を隠し持っていたから。そして、この男と会うことばかりを考えていたから……。
会話はひそひそと続いている。時折ブラジェナのくすくす笑いが混じった。ブラジェナが何かを問いかけ、相手の男が話し出す——その雰囲気にマレクは耳をそばだてたが、ちょうど表で強風が何かを倒して騒音を立て、男の声はよく聞き取れなかった。
どのくらい経ったろうか。「だめ。だめよ」とブラジェナがささやいて、衣ずれの音が聞こえ——
と、
「今日はもう行かなくちゃ」
ブラジェナが立ち上がる気配がした。「……またすぐに来るわ。待っててね、きっとよ……」
そう言うと、燭台をもってこちらに歩いてくる。マレクは壁に体をぴったりと寄せ、娘が通り過ぎていくのを扉越しにやりすごした。ブラジェナは隠れているマレクの存在にはまったく気づかずに階段をゆっくりと上っていく。
娘の姿が上の扉の向こうに消えると、マレクは大きな吐息をついた。
わかっていた。ブラジェナも十七だ、年頃なのだ、男と二人きりで会いたくもなるのだろう。だが、なんといっても大事に育ててきた可愛い娘だ。腹が立たないわけがない。それに、何も自分やヤナに隠れてこそこそすることはないのだ。自分だってヤナだってものわかりの悪いほうではない。娘に相手ができたなら、せいぜい応援してやろうと思っている……。
マレクは扉の影から抜け出て、地下室に入った。こう見えても、若い頃はそこそこ喧嘩が強かったのだ。いまでは多少衰えたかもしれないが、そこらの青二才だったら互角以上にやれるはずだ。
(ひどく痛めつけはしないさ)
だが、一発鼻っ柱に気合を入れてやるくらいは許されるだろう。そのへんは男同士の挨拶みたいなものだ。そのくらいやりあったほうが気心が知れて、向こうだってこちらに対する接し方がつかめるというものだ。
「おい」とマレクは言った。「そこにいるんだろう、男ならいさぎよく出てくることだな」
暗い地下室の中は静まり返っていた。息づかいすらも聞こえなかった。
マレクは舌打ちすると壁ぎわの棚に歩み寄り、置いてあった燭台二つに火をつけた。橙色の灯りに室内が照らし出される。マレクは灯りの一つをかかげ、目をこらした。
地下室はがらんとして、誰もいなかった。
「隠れても無駄だ。いるのはわかってるんだぞ」
答えはない。
苛立って、マレクは部屋の中を歩き回った。果実酒の入った大きな瓶(かめ)の裏。木箱の陰、棚の裏。わらの束も乱暴にひっくり返した。衣装棚を開け放って中も覗いた。だが、中はがらんどうで、奥の木板が見えるだけだった。
では、男はどこに行ったというのだろう。
マレクは困惑し、部屋の中をぐるりと見回した。
出入り口は、ブラジェナが出て行って、マレクが入ってきた、あの扉だけだ。あきらかに誰かが逃げていく時間はなかった。
それなのに?
嫌な気分がした。
そもそも、とマレクは考える。——ブラジェナはなぜこんな場所で男と会っていたのだろう。どうせ父親も母親も留守で家に一人なのだから、居間にでも、寝室にでも、好きな場所に連れ込めばいいではないか。なぜわざわざ、こんな湿っぽく暗い地下室に? そしてなぜブラジェナは、相手を置き去りにして階上に上っていったのだ?
——また来るわ。
——待っててね、きっとよ……。
ブラジェナは先ほど確かにそう言ったが、考えてみればおかしいではないか。これが外からこっそり招き入れた恋人に言うせりふだろうか? むしろそうではなくて、あたかも相手がこの地下室にずっと潜んでいるかのような……
ぞっとして、マレクは燭台の火を消すと急いで地下室を後にした。つまずきそうになりながら、急な階段を早足で上る。鳥肌が立っていた。なるたけ早くこの地下室から離れたかった。
階段を上りきり、一階への扉を乱暴に押し開ける——と、目の前にたちふさがった黒い影に、マレクは不意をつかれて立ちすくんだ。
ブラジェナだ。十七年大事に育ててきた一人娘。頬のあたりが少しヤナに似た……。手にもつ燭台に照らし出されて、不自然なほどに見開かれた眼が黄色に光っている。紫色に血の気のうせた唇が、力なく開いていた。
ブラジェナは言った。
「ねえ、あなた、誰?」
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