andmade Biscuits.
「あの、これよかったら」
支払いの済んだ紙束とペン先の上に置かれたのは、片手に乗るくらいの紙包みだった。赤茶の糸で十字に結んである。
ツァランは思わず、カウンタの向こうでうつむいている、二十歳にも届かないだろうと思われる娘をまじまじと見た。彼女はこの文具店の娘なのだが、今日は店主が不在らしく、いつもは手伝いの彼女が接客もやっていた。
ツァランが毎週一度、文具の補充にこの下町の小さな店を訪れるようになって三月ほどになる。国の学問機関である<緑橄欖(りょくかんらん)の塔>からも、彼が働く王立図書館からも離れた下町にあるし、見た目も庶民風の小さな店だから、学士連中はあまり来ない。近所の商人らが主な客層だろう。だが扱っている品は悪くないし、なにより店の対応も気持ちがいいので、ツァランは愛用していた。
とはいえ、彼とてあくまで「なじみ客」の一人以上のものではない。何かを買うおりに店主と軽い世間話をする程度だ。娘にいたっては、品物を注文し、支払いをし、礼を言う、それだけの言葉しか交わしたことがない。
ツァランは咳払いをした。それから、「あのう、これは」と聞いた。
「ビスケットです。たくさん焼きすぎましたの」
ツァランがなんと答えてよいか考えている間に、娘は慌てたように付け加えた。「今朝焼いたんですけれども、いま母が留守なんです。わたしと父だけでは食べきれませんから。お客様にはごひいきにしてもらっているし」
はあとツァランは答えた。「では……、どうもありがとうございます。だが気を使ってもらわなくとも。ここのご主人には十分よくしていただいているので」
「いえ」と娘は蚊の鳴くような声で言った。
どことなしに気まずい沈黙が落ちた。
ツァランが二つの包みにそろそろと手を伸ばし、「では」と言おうとしたところで、娘はやおら声をはりあげた。
「あのう!」
勢い込んで、ほとんど叫ぶような調子である。
「次の安息日は、おひまですか!」
完全に予想外の事態である。ツァランは呆然とした。
「もしおひまでしたら川原で散歩でもなさらないかと思って。いつもお仕事にお忙しいでしょうし、気晴らしにでもおつきあいできたらと……」
娘は視線をはずし、再度うつむいた。その声はだんだん小さくなった。栗毛からのぞいて見える耳が真っ赤に染まっていく。
「……よろしかったら、わたし、お弁当くらいなら……」
ツァランは相手に悟られないように、ゆっくりと息を吸って、吐いた。それから、こうした事態をまねいた自分を心の中でののしった。娘がたまに彼の方をちらちら見ているのにまったく気づいていなかったわけではないが、まあ気のせいだろうとふんでいた。だからこそ、先ほどダグラスにあんな軽口も言っていたわけだ。
それにしても、ビスケットと川原を別の日にやってくれていたら——今日はとりあえずビスケットだけにしておいてくれていたら、と彼は思う。そうすれば、こちらとしても手の打ちようはあったものを。だが、おそらく娘には、相手の反応を少しずつ見ながら近づこうと画策できるような、経験も余裕もなかったのだろう。そのことは彼女の様子からあきらかだった。
「ごめんなさい」と娘はまた蚊の鳴くような声で言った。「びっくりなさってるのでしょう」
「あ、いえ失敬」とツァランは言った。しばらく考えてから、彼はあえて尋ねた。「お名前はなんと?」
「ブラジェナです」
「では、ブラジェナ」とツァランは言った。「最初に言っておきたい。あなたのような魅力的な人に興味を示してもらえるのは何よりうれしいのです。これは本音です」
ツァランはそこで、いったん言葉を切った。ブラジェナがカウンタの上の二つの手をぎゅっと握りあわせる。
「……だが、お受けすることはできません。あなたはこんなくだらない男と二人で出歩くべきではない」
ブラジェナは驚いたように顔をあげた。「学士様はくだらない人なんかじゃありません。りっぱな仕事をなさっていて、教養がおありで……。身分が違うのにこんなあつかましいお願いして本当にごめんなさい、でも……」
「身分など違いませんよ」とツァランはさえぎった。それから口調をやわらげ、「ぼくの言っているのはそういうことではないのです。あなたのような若くきちんとした娘さんと、こんな身を持ち崩した年上の男とでは——」
「あたし、もう十七ですわ」ブラジェナは勢いこんで言った。ツァランはため息をついた。
「それでも十以上も離れている。ブラジェナ、聞きなさい。学士といっても色々ありましてね、ぼくは由緒ある家柄の出身でもなければ、りっぱな仕事を日々担って国を支えているわけでもない。毎日ばくちに、酒に、入り浸っているだけです。王立図書館に出入りしているというほかは、そこらの飲んだくれと変わらないのですよ。あなたはそれを何もご存知ないのだ。だからこそ……」
そこで切って、ツァランは少し考えた。だが、言うことにした。
「どちらにとっても幸せなことにはなりません。あなたにも、ぼくにも」
ブラジェナの顔が少し青くなった。
二人はしばらく黙った。
「奥様がいらっしゃるんですか」と、ブラジェナが小さな声で聞いた。まつげが震えている。
ツァランは躊躇した。
「じゃなければ恋人が?」
ツァランは唇を舐めた。それから「ええ」と答えた。
ブラジェナはうつむいた。二人はまた、しばらく黙っていた。
「ごめんなさい」と、下を向いたままでブラジェナは言った。その声は喉にひっかかって、しゃがれていた。
「謝るのはこちらです」ツァランは言って、さっき買った品をつかみ、それから茶色の包みを手に取った。
「こちらはいただいても?」
ブラジェナは声を出さずに、こくりとうなずいた。
「さよなら、ブラジェナ」とツァランは言って、店を出た。
十字路に戻ると、ダグラスはまだ先ほどのテーブルで酒を飲んでいた。通りがかった知り合いと話していたらしい彼は、戻ってきたツァランの姿を見つけると、目をまたたいて、「なんだ、ふられたのか」と言った。
「ああ」ツァランはさっきの場所に腰をかけながら、「口説こうとして、卑猥な冗談を言いすぎたよ」
「ざまあねえな」
「黙ってろ」とツァランはダグラスの酒を奪って一口飲み、大きく息をついた。「いずれにせよ、だ。傷心の男友達にはつきあってもらおうか。今日は女は禁止だ」
「なんだそりゃあ、むさくるしいったらありゃしねえよ」とダグラスはからから笑い、「おまえも一緒に来ればいいだろう」
「おまえとその女給が乳繰り合ってるのを見てろというのか? 人の傷口に塩を塗りこむなよ」
相棒を睨みつけてから、ツァランは少し間を置き、上を向いて考えた。「……ただし、その酒場、オピオ(注:中毒性のある薬草の一種)があるなら行ってもいい」
「まあ、多少ならあると思うがな」とダグラスはあきれ返った調子で、「注意しとくが、絶対に一つまでにしとけ。おまえのオピオ酔いにはうんざりしてるんだ。それ以上やるようだったら、酒場の外につまみ出すからな」
ツァランは肩をすくめた。「了解」
そうして二人は席を立ち、スデック通りの酒場へと足を向けた。
(明日は二日酔いだな)
歩きながら、ツァランはそう思った。
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