恋わずらい









treet Puppeteer.

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 (ばかだったんだ、わたし)
 寝台の上に横たわって、娘は思った。どうして考えもしなかったのだろう。あの相手が結婚しているかもしれない、恋人がいるかもしれないと、どうして思わなかったのか。それとなく聞いてみればよかった。今日のようなことになるまえに知っておけばよかったのだ。
 娘は目をつむって、唇を噛んだ。いまさらそんなことを思ったとて、どうしようもないことだ。終わったのに変わりはない。にべもなく、はっきりふられ、すべて終わってしまった。
 腫れ上がった目から涙がこぼれて枕にしみをつくる。まだ涙が枯れないのが不思議だ。いったいどこから沸いて出てくるのだろう。
 (ばかなんだ、わたし)
 (とんでもなくばかなんだ)
 何度となく思い返した今日の情景が、いま一度脳裏に浮かぶ。やめようとしてもやめられない。胸が痛むだけと知っているのに、別のことが何も考えられない。
 娘の言葉に、相手は目を丸くしていた。それから困惑したように言葉を探した。そう、どうやって断ろうかと言葉を探したのだ。出てきた言葉はていねいだった。だが、はっきりとした拒絶だった。けして彼女との距離を縮めようとはしない態度が、そこには明確にあらわれていた。
 突然あんなことを言い出したりして、どんなふうに映ったのだろう。下町の小娘が場違いにも何を言い出すのだろうと思っただろうか? でなければ、あんなにみっともない伝え方をした自分をあわれに感じただろうか。おそらく彼の恋人とは正反対に不恰好だっただろう。おそらく、彼の恋人は、もっと大人びていて、垢抜けていて、よい家柄の人なのだろう。
 身分の問題ではない、と相手は言った。だがどうだろう。それが問題でないはずがない。おそらくあれも、彼女を傷つけずに断ろうとする嘘だった。そんなふうに気を回されたことが、さらに娘を惨めにするのだった。
 ずるい、と娘は思う。
 (結局わたしが傷つくのは変わらないのに、わたしを拒絶しているのは変わらないのに)
 自分が悪者にならないように断ろうとして、あの男はずるいのだ。彼女のことを、もっと徹底的に馬鹿にすればよかったのだ。ののしってくれればよかった。
 そう胸中ではつぶやいてみるものの、しかし娘は、本当にその男に罵倒されていたとしたら自分がどうなってしまっていたか、想像ができないのだった。ただ心の中で責める相手が必要だった。誰か責めでもしなければ、自己否定と自己嫌悪がねじれあって、自分自身が内側に破裂していきそうだった。胃の中が、頭の中が、皮膚の内側が、どこもかしこもじくじくと膿んだ。内臓をすべて吐き出してしまいたい気分だ。
 (本当に吐いてしまいそう)
 うつぶせになっていた体を返すと、棚の上に置いている木の人形が目に入った。小さいころ通りでよく見た人形劇が好きでたまらなくて、劇が終わったあとに人形師が売るミニアチュアのおもちゃを、ねだりにねだって買ってもらったものだ。いまにして思えば、ちゃちな子供のおもちゃといえど、親にとってはそれなりに痛い出費だったろう。
 たしか、あの出し物は恋物語だった気がする。かわいそうな女のところに、どこからか男が慰めに来て……。
 慰めに来て、最後はどうなったのだろう。
 あんなに好きだったのに、よく話をおぼえていない。だがきっと、二人で幸せに暮らしたのだろう。
 (人形劇はいいわよね)
 一組の男女が出てくれば、あとはみなうまく行くようになっている。
 娘はため息をついて天井を見た。
 (のどが渇いたな)
 そういえば、どれだけこうしているのだろう。夕方からずっとこの寝台の上にいて、何も口にしていない。窓の外はとっくに真っ暗だった。両親が二人とも留守でなかったら、夕食もその後片付けも済ませている時間だ。
 食欲はなかったが、台所に行って水を飲もうと、彼女は起き上がった。床に投げ出した靴をのろのろと履く。窓際にあった燭台に火をつけ手に取ると、彼女は扉に向かった。
 ふらつく足で寝室を出た、そのときである。
 音がした。
 気のせいではなかったと思う。がたん、という重く大きな音だった。
 父親が帰ったのだろうか。
 商売をやっている父親は、遠くに住む仕事仲間のところに出かけて明日まで帰らないはずだった。だが何か予期していなかったことがあって、戻ってきて、けれども鍵を忘れて入れないのだろうか。
 娘は居間を通り過ぎ、昼間は店として使っている部分に入った。カウンタを回って扉に向かい、のぞき窓を開ける。
 「父さん?」
 誰もいない。
 念のために鍵を確かめる。
 閉まっている——つまり、泥棒ではない。
 娘はため息をついた。やはり聞き間違いだったのだ。回れ右をして台所へ向かおうと——
 そのとき、もう一度音がした。
 重い板同士が軋みあうような、鈍い音だ。下からだった。
 地下室だ、と娘は思った。商品を置いておくには湿気が多すぎるから、ほとんど使っていない部屋である。以前彼女が下りたのも、もう二、三月も前のことだ。
 あるいは母親かもしれない。少し離れた村に住む年老いた祖父の看病をしに、ここ二週間ほど留守にしている母親が戻ってきたのだろうか。母親は果実酒やチーズなど、食べ物を少し地下に置いていたはずだ。
 娘は地下室へと続く扉を開けた。
 「母さん、帰ってたの?」
 呼びかけながら階段を下りる。小さな燭台ではあぶなっかしい。この家はずいぶん古く、石造りの階段は狭く、急で、段の真ん中は長きにわたって人に踏まれ続けたためにへこんでいる。
 どん、とみたび、下から音がした。今度こそまちがいない。地下室だ。そういえばあの部屋には使っていない古い衣装棚があって、あれを上に運べないかという話を以前していた。
 階段から部屋へとつながる横の扉を開け、中に足を踏み入れながら、娘はもう一度「母さん」と言った。「棚、動かすの? 手伝おうか?」
 地下室は真っ暗だった。
 娘は驚いて足を止めた。父親なら、母親なら、灯りをつけていたはずだ。地下室に窓はなく、夜の光さえ入らないのだから。
 地下室の中、前方の暗闇で、何かが動いている。何かが軋む音がする。
 父親でもない——母親でもない。
 では何なのだ?
 手が震えだす。燭台の火が揺れる。だが、落としては駄目だ。ぜったいに駄目だ。本当に真っ暗闇になってしまう……
 蝋燭の炎は小さく、部屋の向こう側まで届かない。目の前には闇だけがわだかまっている。
 そして闇の中から声がする。
 ——はじめまして、おじょうさん。







 「さあ寄ってらっしゃい見てらっしゃい、ここからが見せどころ。お城の兵隊どもが四方八方から迫りくる。何十もの馬の足音がパッカパカ、逃げるふたりに追いすがる。だが王女様をかかえた怪人は、はやてのように走る、走る、その速いことと言ったらまるで森の豹のようじゃあないか。曲がりくねった細い路地を俊敏に動き回り、兵隊どもをあっちに惑わし、こっちに惑わし、さあ、青いマントをひるがえし怪傑ネドバル・ネイエドリが行く……」
 夜の街の絵を背景に、二つの木彫りの操り人形がくるくる動く。一体は口ひげを生やし、青く短いマントをつけた男——神出鬼没の怪人ネドバル・ネイエドリ。もう一体は、冠をつけ、レースの衣装をまとった女——怪人に城からさらわれた王女である。背景絵画の両はしに黒々と描かれた、槍を持った歩兵と馬の影のあいだで、怪人と王女が小さな舞台を左右いっぱいに飛び回っていた。
 十字路の広場に置かれた即席舞台の前には、たくさんの子供がむらがって、指をくわえ、あるいは座り込んで、人形劇を凝視していた。なかなか腕のいい人形師と見えて、見物人の数はだんだん増えている。仕事の最中と見えるのに思わず足を止めている大人たちの姿もちらほら見える。買い物途中で通りかかったらしい子供連れの女たちは、歩き出そうとしないわが子の手を最初はぐいぐい引っ張っていたが、そのうち自分たちも興味をひかれたようで、群集のなかにしっかり場所を確保していた。
 広場の一角から、かく観察する写本学士のツァランとて、実はそのくちである。一杯ひっかけようと酒場に寄ったおりに、たまたまこの人形劇が始まるのを見つけ、どうせならと外に配置された木のテーブルに陣取った。どうせ天気もよく風はここちよい。昼間から流し込む酒の肴としては、大道芸はてごろな見物だった。
 ネイエドリがんばれ、いいぞ、と歓声がちらほらあがる。子供たちのなかには怪人の根強い支持者もいるようだ。ネドバル・ネイエドリは、強きをくじき弱きを助(たす)く義賊である。大金持ちの宝石商の家から聖金曜日のごちそうを盗み取って、貧しい石工の子供たちに送り届ける。商人の夫と姑にいじめられて泣いているかわいそうな奥さんを田舎の母親のところに送り届け、夫と姑を川に投げ込んでこらしめる。今の場面は、三十も年上の隣国の王との結婚を強要された若い王女を王宮からさらい、二人で夜の逃避行を繰り広げているところだ。芝居はそろそろクライマックスへ向かっており、怪人と王女は行き止まりの路地に追いつめられている。
 「ああ、ネドバル・ネイエドリ、わたしのためにあなたまでもが捕まってしまいます。あなたは立派なかた、死んではなりません。どうぞ一人で逃げて……」
 中年男の人形師が王女の声音を真似るさまが滑稽で、まじめな場面であるのに観客からくすくす笑いがあがる。人形師は今度は声色を低く抑え、王女のせりふに答えを返す。「なにをおっしゃる姫。このネイエドリ、あなた一人も助けられずして生き延びるわけにはいきません」
 「でもでも、ネドバル・ネイエドリ、ここには逃げる場所も隠れる場所もありませんわ」
 「ハ、ハ、ハ、心配はご無用。それっ、秘密の抜け道がここにある」
 と、人形師のかけ声とともにしかけが動き、背景絵画の街の壁にパカンと割れ目が開いた。わあっと歓声があがる。人形師は両手で怪傑と王女を操っているから、おそらく足で操作をしたのだろう。二つの人形を奥に飲み込んで、壁が元通りひとつに閉じる。ごそごそと人形師が裏で何かやったかと思うと、今度はすぐに兵隊の人形が二つ出てきて右往左往し、
 「どこだ、どこだ、ネドバル・ネイエドリはどこだ」
 「たしかに追いつめ申したが、姿がどこにも見えませぬ」
 「そんな馬鹿な、見つけろ見つけろ。王様に知られればお咎めだ」
 地面をのぞいたり、ぴょんぴょん跳ねたりしている。うまいな、とツァランは思った。どこにでもある陳腐なお話だが、人形師の腕はなかなかのものだ。太くてごつごつした指からは想像もつかないほど精緻に糸をあやつり、人形の動きに表情を与えている。
 兵隊の人形がどこかに消えると、今度は背景舞台が変わる。森の中の丸太小屋だ。怪人と王女が追っ手から逃げおおせたということなのだろう。
 「ああネイエドリ、ありがとうございます。二人で一緒に、末永く……」
 二つの人形が寄りそう。観客からぱちぱちと拍手が起き、硬貨がいくつか舞い飛んだ。人形師への報酬である。
 「しかし、あの話はほんとに変わらんなあ」
 ツァランの向かいに座って同じように酒を飲んでいた友人のダグラスが言った。ツァランと同じ建物に住んで数年になる大男だ。
 「そうか」
 「ああ、小さいころから何度となく見てる。人気があるのかな」
 ダグラスはツァランと違い、生まれも育ちもここヘプタルク王国だから、その庶民の文化の流行りすたりもよく知っている。ツァランのものよりひとまわり大きなマグからエール酒の泡をすすると、ダグラスは「あんな怪人がいりゃあ世の中救われるんだがなあ、なかなかそうはいかないところだよな」と言った。
 「ちがいない」とツァランは答えた。「現実には、田舎に帰った奥さんは暴力旦那のところに送り返されるだけだろうしな。金で買われた若いお姫さんには最後まで救い主など現れず、色ボケじじいのグロテスクな芋虫に操が花と散らされる。それでも足りず、お姫さんはじじいの変態趣味に夜な夜なつきあわされるオチ、というわけだ」
 芋虫ってお前なあ、とダグラスは呆れたように言ってから、
 「それにしても、こういう話にゃたいていお姫さんが出てくるな。贅沢三昧な女より、そのあたりの屋台の髪飾りくらいで喜んでくれるような気のいい女給が、結局はいい女だと思うが」
 「は、」
 ツァランは笑った。ダグラスが最近足しげく通っているのはスデック通りの酒場の女給なのである。彼も一度、二度、会ったことがある。茶色に近い濃い金髪の、ふくよかで明るい女だ。
 「胸の大きいのが好きなのは知ってたが、ねだり癖がないってのも重要だったわけか」
 「首に大きなほくろがあって色っぽかったりすると、なお良いな」と、ダグラスはにやにや笑い、「いや、ちょっと物をねだるくらいなら別にかわいいが、宝石だの絹だのをほしがる女は、気取った気がしてどうも苦手だぜ」
 「気取った、ねえ。だがそれは女に酷というものだぜ。やつらにとって、あれは届かぬ夢の具現なんだろうよ。さっきのような英雄義賊の話を男が好きなようにな。自分では永遠になれないくせにな」
 「ふん」
 ダグラスは肩をすくめて人形舞台のほうを見た。おおかたの見物客はもう帰っていたが、何人かの子どもたちが、まだ人形師を離さないようだった。
 「おれにとっちゃ、あの怪人はちょっと色男すぎるな。もっと硬派がいいね」
 「まあな」
 ダグラスのせりふに、ツァランは苦笑してエールをすすった。「だが、ネドバル・ネイエドリは80年ほど前のヘプタルクに実在した男だぜ。王立図書館でそのころの文書を整理したことのある学士なら、一度は目にしている名前だ」
 「じゃあ、あんな嫌味な超人が、本当にいたってのか」とダグラスは目をむく。
 「超人色男の部分はほとんど脚色だがな。だが、いんちきで大金持ちになりあがった賭博師を一文なしになるまで負かして、その金で酒場で大判振る舞いをしたり、強欲大臣のところから目玉の飛び出るほど高い壷を盗み出して、公衆の面前で割ったり、そういう逸話はあるな。最後には王城に忍び込もうとしているのが見つかって、何百という衛兵に追いかけられ、つかまって、縛り首になった」
 「なんだ、じゃあお姫さんと逃げおおせたわけじゃなく、つまかって殺されちまったのか」
 「まあ、なかなか現実は人形劇のようにはいかんよ」
 ツァランはテーブルの上にあった水差しを引き寄せた。一杯目を空けたダグラスがそれを見咎め、
 「おい、もう飲まないのか。しけてるな」
 「今日はイジー通りの文具店に用事がある。まだ日も高いし、あまり酒臭いのもどうかとな」
 「文具店に行くのに何を気取ってるんだ。その店の一人娘でも狙ってるのか」
 「そのとおり、おまえにしちゃ勘がいい」とツァランはにやりと笑い、「少し鼻ぺちゃだが十分魅力的だ。きれいな色の目をしている。名はブラジェナ」
 「もう名前まで聞いたのか」
 「店の親父がそう呼んでるのを聞いた」言いつつ、ツァランは立ち上がった。「さて、それじゃおまえもがんばれよ」
 「大きなお世話だ」とダグラスが呆れたように答える。
 歩き出したツァランは、通り過ぎざま、人形師の銭箱にぽんと硬貨を投げ入れた。
 「いい仕事だった」
 そう声をかけると、中年の人形師はにっと笑い、「おかげさまで」と言った。





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