KY AFLAME.

<<< 8 

「燃える空」



(ヘプタルク王国辺境の街の一教区司祭の私信より抜粋)
 私は四十年の長きに渡り民の告解を聞いてまいりましたが、件(くだん)の大飢饉と騒擾(そうじょう)より五年、罪の意識のなかに神のゆるしを求める民はこれまでになく多いものとなっております。飢饉の苦に耐えかねての堕胎子殺しは数知れず、蜂起の混乱に乗じた盗み人殺しなど、民の告白は未だかの暗黒の二年の影を色濃く引き摺(ず)って……
 (中略)
 気になる気配もございます。例えば先だって実の妹との姦淫についての告白がありました。聖典の定める掟(おきて)により仔細を述べること能(あた)いませぬが、さわりだけ書き記しますと、その妹は神のみぞ知りうる光景を目にする事が許された聖女であったと、その男は申すのでございます。その美しき聖女を愛すことが信仰に悖(もと)る罪とは感じられなかったと。しかし今となって振り返ってみるに、実の妹と肉の関係を結ぶことはやはり尊き主の道に背く行いであり、また何よりも無垢な妹に対する罪であった。しかし妹は飢饉と叛乱の最中(さなか)に帰らぬ人となり、彼女へのつぐないの道は断たれてしまったと。それゆえ、妹の死よりこのかた罪の意識に苛まれつづけていると。
 わが街の周囲でかくのごとき聖女の噂を耳にしたことは恐れながらございませぬで、おそらくかの男の誤った認識と思われますが、いずれにせよ奇々怪々な想念、世の不安のなかに異端の端緒がこうして生じるかと懸念します。加えますと、肉親間の姦淫は聖典にきびしく禁じられておりますが、その罪を犯したという告解は残念ながら珍しいものではございませぬ。説教を通じて肉親の間にあるべき正しい愛の形を伝えていく必要があると、……
 (後略)







 ずっと昔に読んだ西南の海沿いの古代の伝説を、ツァランは思い出す。完全なる命を求めて幾度も転成する魂の物語だ。
 完全なる命などというものを昔も今も、ツァランは信じない。だがその伝説の中にあった、転生の流れに時たま生まれる“瑕(きず)”についての記述に彼は興味を覚えたのだった。
 その瑕は移りゆく魂の正常な流れを歪め、ねじり返し、ひとつの同じ生の終わりない循環を産み出す。あまたの魂が時間の流れとともに変貌していくかたわらで、その循環に陥った魂は、生が“瑕”に達したところでぐるりと円を返したように最初の地点に戻ってしまう。
 そのような記述である。
 一度その負の輪に入り込んでしまった魂は、転生の“瑕”が何かによって癒されるまで、永遠にその循環を巡り続けるのだと、伝説はそう語り伝えるのだった。
 たったひとつの瑕のために永劫のなかを苛まれる魂の、その心象に、なぜだか強く心惹かれたのをツァランは覚えている。


 帝国の異端審問をめぐる書物のいくつかは、五百年前に魔女狩りの犠牲となったダンカンのコーネリアに兄がいたことを記している。その兄は没落の著しい生家を離れ近隣の子爵家のもとに養子に入った。コーネリアが十四のときであったという。
 その後十七の年に、コーネリアもまた大僧正に見そめられ故郷の地を離れることになる。
 もともと体の弱かったコーネリアの兄は、その一年後に養子先の子爵家で病死。コーネリアが火刑に処されるのは、さらにその翌年のことである。
 コーネリアを異端審問の場に引きずり出したのが故郷の地からの密告であったことは、公の記録にも見いだされた。そしてそれが他ならぬコーネリアの母、ダンカン男爵夫人からの密告であったという噂が当時広くはびこった、と歴史書にはある。エーリーンの言った通りであった。
 ある書物は、信用ならないとの注釈をつけながらも、さらに踏み込んだ噂について書き記している。
 曰く、子爵家に入った後もたびたび生家を訪れた兄とコーネリアのあいだに、不埒な肉の関係があったとの噂である。
 彼らの母はそれを知っており、我が子ふたりの所行に恐れおののき、聖女と呼び称されるコーネリアの真実の姿を告げるべく、密告を行ったとの噂である。
 その噂がどこまで本当なのか、そして実の娘を死に導いたダンカン男爵夫人の心の内奥にいかなる煩悶と軋轢(あつれき)があったのかは、謎の中に閉ざされたままである。
 いずれにせよダンカン男爵夫人はコーネリアの死より数年後、自らの屋敷で毒を呷り自死した。
 それが悲劇の一家の最期であったと、歴史書は伝えている。
 その一家の物語が、気の遠くなるほど長きにわたる魂の負の連鎖の一こまであったなどとは、むろん、どこにも記されてはいない。


 ヘプタルク大寺院の正門を入ってすぐの場所にある正面礼拝堂の左右には、宗教美術の並ぶ長い回廊がある。たそがれの薄闇に魂の安寧(あんねい)を求めて寺院を訪れた者たちが、巨大な礼拝堂にぽつり、ぽつりとひざまずき、頭(こうべ)を垂れて祈りに沈んでいるのを横目に見ながら、ツァランはその回廊に足を踏み入れた。すぐ正面の壁際にはずらりと奥に向かって等身大の木像が並んでいる。数十体、いや百体にも及ぼうか。歴代のヘプタルク大主教の姿をかたどった木像である。
 記録によれば、ミロシュ・バルタはヘプタルク大寺院に付属した神学校に籍を置き、そこでの学びを終えてすぐに将来の大主教候補の職とも見なされる特別司祭に任じられている。その過程においては、本人の才能と力ももちろんながら、ヘプタルク王女であった母の存在と画策とが大きかったとささやかれている。
 王家という唯一無二の場所に生まれ育った彼女は、バルタ家に降嫁してのち、有力貴族とはいえ王族とはあまりに違う力と立場に幻滅し、ならばせめてもと、わが子に強大な権力を与えようとしたのだろうか。
 聖職者にとってもっとも恐るべきは、性的逸脱のスキャンダルである。ましてやヘプタルク寺院の最高位である大主教となれば、ごく小さな噂も失脚につながりかねなかっただろう。記録に残るミロシュの身の上は、一点の曇りもない清廉潔白のそれであった。
 そこには、実の妹との並々ならぬ関係を匂わせるものなど、残滓すら存在しなかった。
 貴族の女子が社交界に出るのは十五・六になってからである。もしアルジェベタの幽閉が十四の年に始まったとすれば、それ以前に彼女に会った人間はさほど多くはなかったのだろう。さらに、その数少ない人々も、娘の突然の死に傷心の様子の両親を前に、薄幸の少女について話題にするのを避けただろう。
 人々がアルジェベタの存在を殺し、忘れていくなかで、彼女は丘の上の城でたった一人ミロシュを待ちつづけていた。いかように監視の目をくぐり抜けたものか、こっそりと彼女に会いにくる兄を。その将来のために自分が見殺しにされた、ほかならぬ兄ミロシュを、ただひたすらに待ち続けていたのだ。
 窓から王都をはるか遠くに眺めながら。
 実の兄妹が肉の関係をもつことが、魂の責苦に苦しむべき、神と命にたいする冒涜であるのかどうか、ツァランは知らない。
 文書館に積み重ねられる時のなかに筆跡を残していくのは、つねに力あるものたちである。彼らは世をあまねく支配する価値の体現者であり、その価値からこぼれ落ちた者たちの行いと苦しみは、彼らの公式な言葉によって、そして人々の好奇の噂によって、罪と罰と称される。
 だがその筆跡と好奇のささやきの奥にはひっそりと眠る気配があって、何者かに新しい物語として読まれるのを待っている。
 ツァランが見つけた物語とは、おそらくそういうものなのだった。
 ツァランは一体の像の前で足を止めた。その台座の側面にはかの大主教の行いがずらりと書き記され、彼の偉人ぶりを褒め称えている。ツァランは目を上げ、像を見た。大主教に叙聖(じょせい)された五十代の様子を彫ったその像は、アマリエの語りから想像された若々しい青年のイメージとはまったく結びつかぬものだった。像は見る者に祝福を与えるように両の手を軽く前に差し出している。その顔に浮かんだ慈しみぶかい微笑みに、ツァランは皮相なものを覚えて目を細めた。
 なぜ間に合ってやらなかった、と彼は声に出さずに問いかけた。
 なぜ助けてやれなかった。
 ――おまえが犯した妹を。
 ――おまえの将来のために見殺しにされた妹を。
 なぜ両親のするがままにさせていた。
 おまえの母親が、おまえのスキャンダルと失脚とを恐れておまえの妹を幽閉し、その存在すべてを家族からも歴史からも抹消しようとしたとき、それを止めることができたのはおまえだけだったであろうに。
 焼け落ちる城の窓から彼女がおまえを認めるのを、おまえは見たか。
 燃え盛る炎の中で、最後に笑ったか、おまえの妹は。
 助けに行ったのだろう? 
 愛していたのだろう?
 どうして間に合ってやらなかった。
 もし間に合ってさえいれば、幾百年もの間連綿と続いてきた魂の負の連鎖を断ち切ってやれたのかもしれないのに。
 古代から幾度となく繰り返されてきた、女たちの悲劇の循環を。
 だが、もういい。
 その鎖は、おそらくあの娘が自ら断ち切ったのだ。生まれたときより側にいた実の兄ではなく、別の一人の男を、彼女がみずからの意思で選んだそのときに。
 ――もうひとりのコーネリア、もうひとりのアルジェベタが未来に生まれでることはもうあるまい。
 ツァランはそれを願っていた。否、それを信じていた。
 眼前に像として立つ男が賢人であったことに、ツァランとて疑いは持っていない。いかなる暗い秘密をその背に負っていようとも、バルタ大主教の功績はきわめて高く評価されてしかるべきものだった。
 それでも。
 「なあ、ミロシュ・バルタ――大主教よ」
 ツァランは問わざるをえない。
 「歴史におけるおまえの重みなど、あの一人の村娘に比べれば、あるいは塵のようなものではあるまいか?」







 意識の彼岸と此岸をわかつ川を朦朧と漂いながら、そして彼女は思い出す。
 そう、あれはアルジェベタが丘の上の城に住み出してから三年が過ぎたころ。兄ミロシュがいつものようにこっそりと城を訪れた、あの夏。
 夜も更けたころ、たった一人で窓の下までやってきた兄が、アルジェベタ、アルジェベタと小声で彼女を呼ぶ。窓際でいまかいまかとその声を待ち望んでいたアルジェベタは、すぐさま重い寝台にきつく縛り付けた太縄を窓の下へと垂らすのだ。おとぎ話のラプンツェルの王子のように縄を伝って城の壁をよじ登ってきた兄は、さっと窓から部屋に入り込むと、すぐさま彼女をきつく抱きしめる。彼女もまた、一年ぶりに会う懐かしい兄にしっかりと手を回し、そのたくましくしなやかな体を感じて涙を流すのだった。
 兄がひそかにアルジェベタとともに過ごすその数日の間、アルジェベタは下男も小間使いも誰一人として部屋に近づけさせない。ただ、少し離れた廊下の台の上に、自分の食事だけを用意させておくのだ。彼女はその食事を半分ずつ兄と分けた。二人は朝から晩まで飽きることなく語りあった。
 夜になると、兄は愛しげに、優しく彼女に触れた。
 すまないアルジェベタ、と寝台の中で彼は言った。
 ――不幸にもおまえはぼくの妹だった。不幸にもぼくはおまえの兄で、父なる神に身を捧げるべき体だった。だが、おまえは神に選ばれた特別な娘だ、アルジェベタ。この世における神の御手の軌跡を見ることのできるたった一人の娘だ。ならばおまえと愛しあう事が、なぜ神の道に反しよう? その真理と本質が愛であるはずの神の摂理に反しよう? そうだ、ぼくたちが愛し合うことのできる方法がどこかに必ずあるはずなのだ。いつかおまえを自由にしてやるから……。
 ――ただそれまでだけ辛抱してくれ、アルジェベタ。父上と母上には、ぼくがここを訪れていることを絶対に秘密にしなくてはいけないよ。約束する。必ず毎年会いにくるから……。
 アルジェベタは嬉しかった。兄が秘密裏にここを訪れるのが容易なことではないと、世間知らずの彼女ながらに漠然と悟っていたからである。自分がこんなにも兄を慕っているように、兄もこんなに自分を愛してくれている。
 しかしながら同時に、兄の約束が実現しえないものであること、その言葉が矛盾に満ちていることも、彼女はぼんやりと感じ取ったのだった。
 ――ああ、ぼくのアルジェベタ。なんて綺麗なんだろう。
 ――愛している。おまえだけを愛しているよ。
 彼女の唇に、耳元に、胸元に口づけて兄はささやいた。それは甘く、だが茨(いばら)のある言葉だった。そのささやきがなぜ棘をもって彼女の胸に刺さるのかを、しかし兄は理解していないのだった。
 父母が自分をこの城に閉じ込めた原因が兄が愛と呼ぶこの行為にあることを、アルジェベタは知っていた。兄が愛と呼ぶもののために、そして兄自身の未来のために、自分が兄以外のすべての人間から見捨てられたことを知っていた。
 それでも、彼女は兄を慕いつづけた。
 ただ兄だけを、待ちつづけた。
 なぜなら彼女のそばにいてくれる人間は、昔も今も、ただその兄一人しかいなかったからである。


 兄の腕のなかでまどろみながら、アルジェベタはいつのまにかうっすらと開いている扉の隙間に、ふたたび闇のわだかまりを見つける。
 幽鬼である。
 ふたりが闇の中に浮き上がる白い影となって踊り動くさまを、しなやかな蔓のようにたがいの裸の手足を絡めあうさまを、そしておたがいの腕の中に静かに安息を求めるさまを、幽鬼はいつものようにじっと見つめていた。
 三年前の夏と同じように。
 あの十四の誕生日の夜、ミロシュがあの首飾りを贈ってくれた夜と同じように。
 隙間の闇にたゆたう幽鬼の姿をぼんやりと眺めていた彼女は、そのときふと、幽鬼の目から土気色に青ざめた頬をひとすじの光が伝うのを見た。
 そして同時に、幽鬼がその身にしどけなくまとう夜着に見覚えがあることに気づいたのである。
 あれは前年の冬のことだった。外に出ることのできない彼女は、都で美しく肌ざわりのよい生地を買ってくるようにと小間使いに言いつけた。小間使いが買ってきた水色の絹地から、アルジェベタは一枚の女物の夜着を縫った。そして母の誕生祝いにと、バルタの城へと届けさせたのだった。
 その夜着を扉の向こうの幽鬼は身にまとい、涙を流しているのだった。
 自分が縫ったのだ。見間違えようはずがない。
 憎しみと怒りと哀しみと、そして深い愛しさが、いちどきにこみあげた。
 ああ。
 おかあさま。
 おかあさま。
 おかあさま。







 ああ、そうだったのかと、アマリエは思う。
 幼い頃からずっと怖かった、扉の隙間の奥の闇。
 長い髪をはみ出させ、見開かれた目を光らせる、青ざめた顔。
 あの隙間の鬼がこのつらい咳を運んできていたのではなかったのだ。
 自分が夜に発作に襲われ、止まらない咳に苦しんでいたから、あの隙間はこっそりと開かれていた。自分の咳きこむ声を聞いて、裁縫や糸つむぎのような夜の仕事も手につかなくなり、それでも目の前で悪化していく病の前になすすべもなくて、あれは隙間からただこちらを見守っていたのだ。
 誰なの、誰かいるのと彼女が尋ねたあのときに、隙間の闇から返ってきたあの沈黙は、押し殺された嗚咽だったのだ。
 隙間の闇が悪いものを運んできていたのではなかったのだ。
 隙間の暗闇は、泣いていたのだ。
 おのが娘の苦しみを前に、ただ泣いていたのだ。


 「アマリエ!」
 部屋に足を踏み入れたイザクは、突き当たりの壁際にくず折れている人影を見つけ、駆け寄った。
 窓にもたれかかるように倒れていたアマリエを抱き起こそうとして、イザクはぎくりとした。アマリエの口元から胸、そして床にも、かなりの量の血が飛び散っていたからだ。ただでさえ青白い彼女の顔は、血の気を失って灰のように白く、血の赤と鮮やかすぎる対照をなしていた。戦慄が背筋を走るのを、彼は感じた。
 「アマリエ」
 もう一度呼ぶと、アマリエはゆっくりとまぶたを開いた。
 「水を飲めるか」
 清浄な湧き水の入った革袋を口元に持って行くと、アマリエは震える指を添えて、一口、二口を飲んだ。ありがとうと呟いてから、ぼんやりと小さく付け足す。「……かわいそうなアルジェベタ」
 「喋らないで、休め」
 腰に吊るした短剣を引き抜いて自分のシャツの裾を引き裂き、アマリエの口から顎にこぼれて垂れた水と血の痕を拭ってやりながら、イザクは言った。
 アマリエはいったん目を伏せてから、イザクの目を覗き込むように顔を見上げた。それから口を開き、かすれた弱々しい声で続けた。
 「……ねえ木こりさん。……わたしずっと、あんな素敵な生活をしている昔のわたしをうらやましいと思ってたの。どうせ生まれ変わるのに、どうしてこんな貧しい家に、こんな惨めな体に生まれたんだろうと思ってたの……。でもあたしよりアルジェベタのほうが、ずっとずっとかわいそうだったのね」
 アマリエの言葉は二・三度の咳に遮られた。その喉がひゅうひゅうと薄い悲鳴をあげる。だが彼女は口を止めようとはせず、
 「……ああ、兄さんにあたし言わなくちゃ。あれは鬼じゃなかったんだって。あたしが守ってあげられない、助けてあげられない母さんを、兄さんが守ってやらなきゃいけないんだって……」
 「喋るな。頼む、アマリエ」イザクはうめいた。
 アマリエは弱々しく微笑んだ。「ねえ、見て」と手を上げる。
 イザクは顔を上げた。アマリエの手の指し示す先には窓からはるか彼方に広がる景色があった。ゆるやかに大地を切り取る緑の丘が、川が、ヘプタルクの王都が、さらにその向こうに広がる広大な深緑の森が。紺碧の青から紫をへて橙へと移りかわる深い空のその最奥で、幾百万の宝石をちりばめたような湖が、ぽかんと浮いた太陽にその水面を輝かせていた。やわらかな斜めの陽ときらめく水の戯れを背景に、細くそびえる王城の尖塔が、黒々と、美しく、そして寂しげに立っていた。
 アマリエはぐったりと首をイザクの胸にもたせかけた。彼女の頬は傾いてゆく日の光を反射して赤く燃え、その瞳は静かな終わりの光を映して揺れていた。
 「……どうしてかしら。あのエメラルドの首飾りをわたしは本当に大事にしていたのに……それなのに、木こりさんからこのとんぼ玉をもらってから、その首飾りがどんなだったかよく思い出せなくなってしまったの。銀だったかしら。金だったかしら。どのくらいの大きさだったかしら……? 思い出そうとすると、このとんぼ玉が浮かんできてしまうの……」
 アマリエは目を閉じた。震える指で、首にかけていた硝子玉の首飾りにそっと触れる。
 「……ねえ、あたしのそばにいてくれた人は、兄さんだけじゃなかったわね」
 かすれたささやき声。
 「イザクが、あなたがいてくれたわね」
 そうしてアマリエは、涙を二本、つうと流した。







 アマリエが眠るように息を引き取ったのは、それから二月のちの夏の終わりであったという。
 彼女の十九の誕生日にして、兄ペトルの婚礼の祝いの、その二日後のことであったという。
 その日の夜をイザクがどのように過ごしたのかを、ツァランは知らない。
 ただその日はみごとな夕焼けで、王国中の空が息を呑むほど鮮やかな赤色に燃え上がっていたことを、彼は今でも、ふと思い出す。




読んだよ報告にでも ↓




Transmigration - INDEX  NOVEL INDEX  TOP