conversation in the inn.
イザクの背中を見送ったクリッサは、ふうと長い溜息をつき、「仕方ないわねえ」と言った。それから向き直ると、腕を組んだまま黙っているツァランの顔を覗き込むようにして、微笑んだ。
「……なんだ」
いつでも変わらぬ楽天的なその笑顔を、ツァランはかすかな苛立ちとともに見返した。
「納得いかない?」
「納得も何も」ツァランは息を吐き、「何を言える立場でもあるまい? 二百年も三百年も前の一人の女の生よりも、生きて目の前にいる娘の身体を一番に考えるべきという意見に、なんの異論もないさ。イザクの言った通り、その大昔の姫がかつて何をして、どのような命運をたどり、いかなる秘密とともに葬られたのかも、みなどうでもよいことだ」
「そのわりには口調に棘があるわよ」と、クリッサは笑い、それから首をかしげた。
「ね、アマリエがつけてた首飾り、見た?」
「首飾り?」
「そう。青いとんぼ玉の首飾りをつけてたの、見なかった?」
ツァランは眉を寄せた。観察眼で人に大きく遅れをとっているつもりはなかったが、さすがに女が身につける装飾品を逐一記憶できるほど鋭い目はもたない。
「その首飾りに何か秘密でも?」
「秘密っていうんじゃないんだけど。あれ、わたしがイザクにあげたものなのよねえ。この間おっしょう様の書斎を掃除してたら、本棚に古い硝子壜を見つけたの。それに入ってたのがあのとんぼ玉だわ。特別な品物でもないっていうんで、おっしょう様がわたしにそれくだすったんだけど、十個以上もあったから、エーリーンにでも少し分けてあげようかしらって思っていたんだわ。そしたらちょうどその話をしたときにイザクがいて、おれにくれないかって言うの」
「イザクが?」
「そうよ。びっくりしたけど、あんまり珍しいお願いだから、三つ四つばかりイザクに分けてあげることにしたの。……あの首飾り、そのとんぼ玉に紐を通して作ったものなんだわ」
ツァランのところにめったに一人ではやって来ないイザクが、わざわざ出向いてきてアマリエのことを語った時のことをツァランは思い出す。いつもと変わらない、素朴きわまりない、情感も感じられない説明。単刀直入な、しかし、確かに真摯なあの口調。
「あの子わたしと話をしてるとき、時たま無意識みたいにその首飾りに触ってたわ。よっぽど気に入ってるのかしらねえ。……でなけりゃ、こんな屋敷に来るのも初めてだし、緊張を和らげてたのかも。お守りを触るみたいにして」
ツァランは腕を組み直し、大きく息を吐いた。しばしの沈黙が流れた。
「……アマリエの身体はどうだ」
ツァランは尋ねた。「きみは肺病やみも何人も見てきているだろう。……快方に向かう兆しはあるか」
クリッサは答えなかった。ただ困ったように眉を寄せて微笑しただけだった。
ツァランは黙然(もくねん)とした。
「でも、こればっかりは本当に、神のみぞ知る、だわ」クリッサはそう言うと立ち上がった。水入りのマグを盆に戻しながら、「人の体力って本当に底が知れないもの。……さ、ツァラン、わたし下を片付けなきゃ。儀式が終わってそのまんまになってるから、魔法陣の後始末だとか、色々あるわ」
「わかった」ツァランは唸って言うと、立ち上がった。「密度の濃い経験をしたから、頭も身体もくたくただ。一杯ひっかけてくる」
クリッサはいつも通りの笑顔を浮かべ、終わったら行くわ、とそう言った。
クリッサが居候する<大魔法使いの古屋敷>から行きつけの酒場<まだらの竜>亭に向かう道のりを、ツァランは悶々としながら歩いた。クリッサに言った通り、イザクの反応が理にかなったものであることを、彼自身よく承知していた。アルジェベタ・バルタは二五〇年前に城とともに焼け死んだのだ。毒々しい謀(はかりごと)をもって彼女の存在を抹消した者どもも、彼女に関わるすべての人間も、とうの昔に死に絶えた。彼女の数奇な運命を今さらほじくり返したところで、いまさら報われる者も幸せになる者もいないのだ。
<赤の飢饉>に続く叛乱の中で殺されたのは、アルジェベタだけではない。暴徒と化した民とそれを押し潰そうとする兵との衝突も、双方から多くの死者を出した。また彼の記憶が正しければ、少なくとも十数名の貴族が怒りに狂った平民達の手にかかって命を落としている。
そこまでの動乱を予感させる一触即発の緊張は、当時国中に張りつめていたことだろう。だが真の意味でそれに危機感を覚えていた者がはたしてどれだけいたことか。政(まつりごと)に携わるがゆえの特権と称して民を搾取しながらも、貴族の多くは世を見据え時代を察する炯眼(けいがん)など持たない。ただ所与の地位と力とを享受し、種々の欲望に耽溺して日々を送るのみだ。
上層に浮かんで世の腐敗を進行させるそれらの者どもに、歴史は時折、ひどく気まぐれに牙を向く。みずからが支配し、みずからの足下をまさに支えているそのものを理解しえなかった愚かな者たちの頭を食いちぎって、歴史はおのが軌跡を記す長大な編年史(クロニクル)に点々と血の跡を残すのだ。
まがまがしい血の色に染め抜かれた丘を見、痩せ細った農民たちの哀願の叫びを聞きながら、なお事態を理解しえず、犬にでも与えるように残飯を窓から民に向かって投げ捨てるようなまねをしつづけていたあの姫もまた、そうした層の一人だ。城の焼き討ちがなくとも、早晩どこかで命を落としていたのかもしれない。
それでも。
――どうして世を見通すことなどできただろうか。
――たった十四の年からほとんど誰とも話すことなく、一人あの城に閉じ込められていたならば、
そこまで考えて、ツァランは舌打ちをした。
わかっていた。それは理屈によっては抑えきる事のできぬ彼の性(さが)だった。欲望と権謀術数によって歪められ覆い隠された何事かを時の残骸から引きずり出すことに、彼は惹き付けられてやまないのだった。たといそれが誰のためにも、何のためにもならなくとも。
わかっている。
ただ己が好奇の欲を満たすため、それだけだ。
そして、いま彼の中に浮かび上がったアルジェベタの像――五年間をただ待ちつづけ、そして報われず、時代の刃の前にあっけなく散っていった、一人の娘の像。
歴史から忘れ去られたその娘の真実を取り戻すことは、せめて彼女に対するたむけになりはしないか、……
――馬鹿げている。
それこそなんの理(ことわり)も介在しない、身勝手な情動にすぎなかった。
ツァランは混沌とした思考を頭を振って追い払うと、<まだらの竜>亭の扉を押し開いた。
酒場の中は仕事を終え、家に帰る前に一杯ひっかけようという輩でごったがえしていた。ざっと店内を見渡していると、奥の隅に一人で腰かけ、戸口のほうを見ていた赤毛の若い女と視線が交差した。娘は少し目を見開き、一瞬だけ笑顔のようなものを浮かべてから、すぐに視線を逸らすようにうつむいた。
飲み仲間の一人、エーリーンである。数人がけのテーブルに一人で腰かけている様子を見ると、今日は珍しくもほかに誰もいないようだ。ツァランはこっそり息を吐き、それから彼女のほうに足を向けた。
「少し間が空いたな、エーリーン。どうしていた?」
向かいに腰を下ろしながら声をかけると、エーリーンは顔をあげてちらりと彼を見た。
「いま、あなた、しまったと思ったでしょう」
挨拶もなしの単刀直入の台詞である。ツァランは内心たじろいだが、つとめてそれを見せないように愛想笑いを浮かべてみせた。「……何が?」
エーリーンはほとんど酒の残っていない様子の自分の杯をいじくり回し、
「……苦手なのと二人きりは勘弁だって顔に書いてあるわよ。まったく、こんなときばっかり露骨な表情をするんだから」
ツァランは自分の顔を撫でた。それほどあからさまな表情を見せただろうかと自問しつつ、
「ぼくがきみが苦手だなどと、誰が言った?」
「見てりゃわかるわ」
ぶっきらぼうな応答だった。ずいぶんと不機嫌なのは、誰も来ずに一人きりだったためか。
「それは失礼な対応をしたようで」と、ツァランは肩をすくめた。「こちとら女性に不慣れでね。どうぞお手柔らかに」
「あんたが言うとどうも信憑性がないわ。もっとも、たいして女好きがしそうにも見えないけど」
「ご明察のとおり、しませんよ」
エーリーンは髪の間からのぞくように彼を見た。
「……しないの?」
「しないね」
「ふうん」
呟くと、エーリーンは向き直ってテーブルに肘をついた。彼の顔を正面から眺め回す。「あんたは舌だけは馬鹿みたいに回るんだから、嫌味だけじゃなくって、気の利いた台詞を一つ二つ言ってみたらいいんじゃなくて?」
「嫌味を控えて気の利いた台詞を言うにはどうすればいいのか、きみにぜひご指南願いたいね」
ツァランは半ば呆れつつ、「とりあえず、舌だけは馬鹿みたいに回るというのは褒め言葉ととらえておくよ」
「楽観主義者(オプティミスト)ね」
「自覚済みさ」
そう答えてやると、エーリーンは肘を立てた手のひらに顔を乗せて不機嫌そうに口をとがらせた。それからふと眉を持ち上げ、
「もしかして、わざと遠ざけてるの? じつは女嫌いなの?」
と、さても合点がいったとでも言うように、「だからあたしのこと苦手なのでしょ?」
ツァランはふたたび呆れた。「……いや、べつに。女性は好きですよ。たんに気の利いた台詞を言う機会がないだけで」
「いま、ここで、あたしに言ったらいいじゃない」
「勘弁してくれ!」ツァランは降参のしるしに両手を掲げた。「きみとそんな会話をしていたら半日と命がもたない」
どういう意味なのよとエーリーンがおきまりの台詞を返してくるその前に、だがツァランは眉を上げて口調を変え、
「それにしても、人目をひく風貌のご淑女がこんな荒くれた酒場に一人きり、いったいぜんたい平気でいらしましたので?」
エーリーンはうさんくさげに目を細めた。「そんな皮肉っぽい口調にしてるのは照れ隠し? ……何人も男は来たわよ。撃退したの」
「はあ、何人も」
「信じてないわね!」
「で、聞くが、何人来た」
エーリーンは言葉に詰まり、むっつりと下を向いた。「嘘よ。……来てないわよ。だってさっきまでダグラスが一緒にいたんですもの。すぐに戻ってくるって言っていたのに、まだ来ないわ。おおかたどこかで胸の大きな女の人のお尻にでもついてったのでしょ」
「はあ」
まあ、あいつは見るからに、かつ予想にたがわず本当にそういう女が好きだが――そう続けようと口を開いたツァランは、だが少し考え、拗ねた様子の女の体をさっと盗み見た。わざわざ「胸の大きな」女の「尻に」ついてったと表現したところを見るに、どうやらそれらはエーリーンにとってかなり繊細な話題と見え、下手につつくと扱いの難しい癇癪(かんしゃく)を招きそうなので、ここは適当に流しておくが吉と判断する。彼は酒を買ってくると言い残して席を立った。
ツァランが持ってきた杯を受け取ったエーリーンは、小声でありがとうと言った。
彼は片眉を上げた。「きみでもそうやって殊勝に礼を言うことがあるとはね」と、自分の杯に一つ口をつけ、
「ちなみにダグラスを弁護しておくと、やつも何かやむにやまれぬ事情があるんだろうさ。あいつはいい意味でも悪い意味でも古めかしい男だから、いくらきみとはいえ、酒場にひとり放り出して別の女についていくほど阿呆じゃない。ぼくとは違ってね」
「あきれた! 一言どころか三言くらいよけいだったわよ!」
目を剥いてそう言ってから、エーリーンは大きな溜息をついた。
「そりゃ、いくらあんたがあたしのこと苦手でもかまわないけど、一日に二度も放り出されたんじゃ、あたしだって傷つくわ。だから……今日はあたしを置きざりにしてどこかに行ったりしちゃ、嫌よ」
その言葉に、ツァランは腕を組んでエーリーンの顔を眺めた。彼女は不機嫌なときのくせとして、こちらとまともに目を合わせようとしなかったので、その言葉がどこまで冗談なのか、どのような意図で言ったものなのか、彼には確信が持てなかった。ただ、窓ぎわのランプの灯火に照らされてくるくると波打つ彼女の髪と、下向きに伏せられて頬に長い影を落とす彼女の睫毛とが、日の光のもとで見るよりいっそう赤く見えただけだった。
「ふむ」とツァランは呟いた。「善処する」
と、そのとき扉の開閉する音が人ごみの向こうで響いたかと思うと、「おおい」と声がした。見てみれば、快活な表情を浮かべた青年がこちらにやってくる。仲間の一人、農夫のデューラムである。エーリーンがさっとそちらを向いて、遅いわよと文句を言った。
「悪い悪い、村のやつらに頼まれた買い物をしていてさ」
そう明るく言うと、デューラムは先客二人の間の空き椅子に腰掛けた。いやだ髪に蜘蛛が付いてるじゃない――と隣から伸びてくるエーリーンの腕を「やめろったら」と振り払いつつ、
「今日は二人だけか? なんの話をしてたんだ?」
ツァランは二人の様子を眺めながらエーリーンに尋ねた。「……なんの話をしていたんだ?」
デューラムの黒髪をいじっていたエーリーンは、ちらりとツァランに視線を向けた。指でつまんだ小さな蜘蛛をテーブルの上に移しかえてから、
「知らないわ」
と呟く。
「なんだ、しけてるな!」デューラムが明るく笑う。「なにか気の利いた話はないのか?」
ツァランは思案した。「……大してないな。このところはおどろおどろしい、気の重くなる本とにらめっこだ。魔女狩りの犠牲になって燃えさかる火の中に投げ込まれた女だのなんだの……もうずっと昔の帝国の話だが」
「<ダンカンの魔女>もそれよね」蜘蛛をつついていたエーリーンが顔を上げる。「コーネリアって言ったかしら」
「……ほう」ツァランは眉を上げた。「よく知っているな」
「おまえ、おどろおどろしい話はやたら好きだからなあ」
デューラムの茶々にエーリーンは頬をふくらませた。「失礼ね。だってコーネリアにはちょっと奇妙なお話が色々あって有名なのよ」
「<彼方見の力>のことか?」
ツァランは溜息をついた。「神の預言を受けて夢の中で遠方を訪れ、その異国の様子を事細かに語ったという、あれだろう。神の寵愛を受けたなどと言われたその同じ力が、数年後には悪魔と通じた証とされるのだから、やりきれない。さらにやりきれないのは、手のひらを返すように態度を変えた寺院の業は忘れ去られ、その身勝手な論理の犠牲になった人びとの話ばかりが、無責任な誇張とともに語り継がれることだ」
「そうね、それは確かにそうなんだけど」
エーリーンは少し勢いを削がれたように、「でもコーネリアが魔女に転落する決定打になったのって、なんだったのか知ってて?」
「さあ、知らないが」ツァランはいらいらと、「だが噂なんてものは実のところ、火がないところからもいくらでも立ち上るからな。しかもそうした噂は胸やけがするほど定式化されているのが常ときている。聖職者のスキャンダルというと、例によって性的放埒(ほうらつ)か? ならば同性愛か、死姦趣味か、近親姦か、獣姦か、でなければ……」
何が、と言いかけてツァランは言葉を止めた。
――なんだ? 今、何がひっかかった?
「いやだわ人をゴシップ狂みたいに言って」ぼそぼそと言って、エーリーンが下を向く。
「なんだよ、気になるじゃないか」と、能天気にデューラムが先を促す。
エーリーンはツァランの機嫌をうかがうようにちらりと視線をよこしてきたが、彼はと言えばそれどころではなかった。――今、脳裏を一瞬だけ横切ったのは何だ? それさえあればことの全貌を見通すことのできる寄木細工の一片が、無意識の闇の奥に沈み込むわずかな手前で小指の先に引っかかっているのではないか、……
「コーネリアは故郷にお母さんを残してきていたのだけど」ツァランの様子に落胆したのか安堵したのか、エーリーンは微妙な表情で、「その故郷から帝国の神聖大寺院に密告が入ったってお話よ。その詳しい内容がなんだったのか、あたしは知りやしないのだけど」
「……何だって?」
片耳だけでエーリーンの話を聞いていたツァランはその耳を疑った。「母親が?」
「いやだわ突然そんなにまじめな顔をして。さっき噂なんて無責任だって言ったの、あんたじゃない」と、エーリーンはツァランを怪訝げに眺めつつ、
「……そうよ。コーネリアが魔女だって密告したのは、コーネリアの実のお母さんだったんですって」
――私(わたくし)は慥(たし)かに自分が悪魔と交はつていたことを、……
――あゝ母上、母上、母上、……
ひょうとデューラムが奇妙な声を発し、「生なましい話だなあ。……しかし女と母親のあいだって、なんか微妙だよな。おれには妹も姉もいなかったからよくは知らんが、べったり仲がいいかと思えば、突然おたがいを虫でも見るような目で見たりするもんな。女同士ってのはまったくわからないよ」
「女同士がわからないんじゃなくって、人と人との機微を感じる神経があんたに欠けてるだけじゃなくて?」と、デューラムを横目で睨んで、エーリーン。溜まった鬱憤をここぞとばかりに吐き出している口調である。
「人をなんだと思ってるんだよ」
デューラムは口をとがらすが、エーリーンの皮肉が効いている様子はなく、
「しかし女きょうだいってのは昔から羨ましかったもんだぜ。年頃の娘が同じ屋根の下に住んでるってのはちょっと色っぽい気がするだろ?」
「あたしに聞かないでよ」
あきれ返った表情のエーリーンは、さっと手を伸ばしてデューラムがたずさえていた林檎を奪い取り、
「そんないやらしいこと考えてる男の妹になんて生まれたら、人生もさぞ暗澹としてるでしょうね!」
「あっ、こら……おまえがおれの姉貴か妹だったら、こっちが暗澹たる人生だよ」
デューラムはエーリーンの手の中の、いまや大きく一口かじり取られた林檎を恨めしそうに見た。「食い物は盗み取られるわ、寝台の下に置いといた妙なものを盗み見られるわ、湯浴みを覗き見たっていう冤罪で生傷は耐えないわで、こっちが家出したくなるぜ」
「まあ、あんた、寝台の下に妙なものなんて隠してるの? いいこと聞いたわ!」
襲いかからんばかりに目を光らせてエーリーンがデューラムに飛びついているのを尻目に、ツァランは額に指を当てて、浮かび上がる数々の符号を必死で整理しようとしていた。
――赤い空と蜜柑色のお日様を映してきらきらゆらめいてるあの遠くの湖を、
――自分の目で見たのとおんなじように、はっきり、……
アマリエはそう言わなかったか。
異端審問という炎の灰となったコーネリアの彼方見の力のことを、ツァランは千里眼のようなものだろうと考えていた。だがおそらく――「主の恩寵」、「神の黙示」と見なされた彼女の力とは、遠い昔、はるか彼方の土地に生きた人間の記憶だったのだ。異端審問で極度の緊張と熾烈(しれつ)な拷問に晒されるなかで、コーネリアのなかの幾人もの記憶はそのたがを外れ、一度にどっと溢れ出したのではないか。それゆえに<彼方見の力>は、……
夢幻(トランス)状態のアマリエが見せた、人ならぬ者の所行を思わせるあの姿をツァランは思い出す。
そしてコーネリアの木版画に描かれていた、獣じみた悪魔の顔を。
狼狽と笑みとをなかば入り交じらせた、その卑屈にして邪(よこしま)な表情を。
「悪いが、今日は帰る」
ツァランは立ち上がると、椅子の背にかけていた外套を素早く羽織った。
ええっとデューラムが不満の声をあげ、エーリーンも目を剥いた。
「ちょっとツァラン、さっき善処するって……」
「もう一人じゃないだろう? そのうちダグラスも戻ってくるさ」
ツァランはすでに歩き出しつつ、ぽかんとしているデューラムをさっと手で指して、「あとはそっちの『兄上』によろしく頼んでくれ、妹君」
「待ってよ、ツァラン……もう!」
「どっちかってとおれが弟じゃないか?」
エーリーンの抗議とデューラムの場違いな文句を尻目に、ツァランはさっさと<まだらの竜>亭をあとにした。
――ミロシュ・バルタ。
<赤の飢饉>によって丘の上の城が焼け落ちた、その当時のバルタ家の次男にして、ヘプタルク大主教の座にまで上り詰めた男。徳高く、慈悲深く、国中で主にもっとも近いとされた聖なる者。
――大主教ミロシュ・バルタを調べねばならない。
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