EMORIES OF TWO LIVES.

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「二つの記憶」



 気管が無理矢理ねじ切られるような鋭い雑音を喉から発したかと思うと、直後に娘の全身は激しく弓なりに反り返った。次いで悲鳴にならない悲鳴をひゅうひゅうと間断なく漏らしながら、彼女の全身はその華奢な容姿からは想像しがたいほどの烈しさで、座った椅子ごと床から三・四度跳ね上がった。肩から五本の指の先にいたるまで、あらゆる間接が折れ曲がり、脚はつま先まで硬直しきって、ともに部屋一面を覆う青い光の中でびくんびくんと震えている。乱れたショールの胸元から覗く細い首は、異常な収縮状態に陥った全身の筋肉の断続的な緊張と弛緩によって、がくがくと揺さぶられては、脊椎が折れるのではないかというほど限界までのけぞり返るのを幾度となく繰り返す。
 「アマリエ」
 娘の椅子が今にも壊れそうな軋みを立てるその合間に、クリッサが低く呼ぶ。
 反応はない。後方に大きく引き攣(つ)った胴と四肢はなお激しく震え、爪が己が手のひらに深く食い込んでいるのが見える。いっぱいに見開かれ、まばたきを停止した両の眼から止めどなく涙があふれ出し、体の痙攣に合わせ雫となって飛び散る。半開きになった唇の端から唾液が頬を伝って流れ落ちた。
 「アマリエ」
 クリッサがもう一度呼ぶ。
 音高く椅子を揺らし、最後に一度大きく全身を反り返らせると、娘の身体を襲っていた酷烈な痙攣はようやく鎮まりはじめた。振り子がしだいにその運動をゆるやかにしていくように、その引き攣りも少しずつ弱まっていく。胸が押しつぶされる雑音としか聞き取れなかったものも、しだいに荒い呼吸音に変わり、さらにはそのリズムをゆるめていった。
 娘の全身の強ばりが解け、その体重がぐったりと椅子の背もたれに預けられる。首はだらりと脱力し、見開かれていた瞳が気だるげに伏せられる。力を失った腕が肩から垂れ下がった。
 ふと、収束した青い光がその顔をさっと横切るのをツァランは見た。クリッサが燭台の前に手のひらをかざし、光を操ったのだ。
 「アマリエ」
 三度目の呼び声。
 娘はまぶしそうに眼を細め、それから名を呼ぶ者にぼんやりと視線を向けた。いまだ瞳に光はなく、焦点がどこに当てられているのかは定かではない。ショールがするりと床に滑り落ちる。
 「アマリエ?」
 「……は…………」
 かすかな、吐息のような声だった。加えて彼女の表情に自我の色は戻っていない。だが確かにそれは応(いら)えの声だった。
 「アマリエ」
 クリッサは静かに言った。
 「お眠りなさい」
 その声を合図にしたように、かくんとアマリエの首が力を失い垂れる。
 閉じられた瞳の下で薄い胸がおだやかな上下運動を見せはじめるのを確認してから、クリッサはすと両手を伸ばし、青い硝子玉を蝋燭から取り去った。
 視界に人の世の光が戻る。
 クリッサは静かにショールを持ち上げた。ふうと一つ息をついてから、窓際の二人のほうに眼を向けてくる。
 「もういいわよ」
 声をかけられると同時に、隣に座るイザクが長く息を吐いた。それから、ツァランの腕を掴んでいた手をゆっくりと離す。
 “儀式”とやらの真ん中あたりで全身を不穏に震わせたイザクを抑えるべくとっさに腕を出したところで、ツァランが掴むより先に逆に掴まれてしまった腕である。その後イザクの手の力はアマリエの苦悶が激しくなるに比例して強くなり、彼女が激しい痙攣を見せるにいたっては、ツァランは腕の骨がへし折られるかと思ったほどである。解放された自分の腕をちらりと見下ろしてみれば、手首のすぐ下の赤く染まった肌の中に、太い指の跡が真っ白に浮き上がっている。
 クリッサが立ち上がり、ぐったりしたアマリエに近づいた。懐から取り出した布で彼女の顔をそっと拭うが、意識を失ったアマリエはされるがままになっている。
 「寝台に寝かせて休ませたほうがいいわねえ」とクリッサは言った。
 イザクが無言で立ち上がるとアマリエに歩み寄る。その顔に浮かんだ汗の玉を見て取ったツァランは、自分も身体中にぐっしょりと脂汗をかいていることにようやく気がついた。背の肌に触れるシャツがひやりと冷たい。
 イザクがアマリエを抱き上げ、クリッサについて儀式部屋を出て行った後、客室に戻るように言われたツァランはのろのろと地上に足を向けた。客間の長椅子にその身をどっかりと預けると、埃っぽい臭いがひときわ強く立ち上って息を詰まらせる。数度の咳払いと深呼吸の後に、彼は天井を仰いだ。
 ――なんだ、あれは。
 “降霊儀式”に実際に立ち会うのはツァランにとって初めての経験だったが、結論から言えば、それは彼の予想をはるかに超えたものだった。“悪魔憑き”という呼称と、そこに込められた畏れと含みとを、彼はもう一度はっきりと意識する。
 そうこうしているうちに扉を開けて入ってきたクリッサは、長椅子に寝転がったツァランを見てからからと笑った。まだ儀式衣装のままだったが、先ほどの一部始終のあいだ彼女に漂っていた神秘的な雰囲気はどこかに去ってしまっていた。
 「大丈夫? だらしないのねえ」
 水差しと二・三のマグの載った盆をテーブルに置きつつ、クリッサは言った。
 ツァランは溜息をついて身を起こし、マグのひとつに水を注いだ。「ああいうものを毎度毎度観察して身を立てているとは、いやはや魔女どのにはまったく恐れ入る。常人の肝では耐えられまい」
 「あら、ツァランがいつもやってる賭け事やインチキのほうが、よっぽど無神経じゃなきゃやってけないわよ!」
 クリッサは楽天的に笑った。それから少し首を傾げ、
 「うーん、それにしてもあの子、かなり重度だわね」
 「きみでもそう思うか」
 ツァランは腕を組んだ。「あれは……いったい何なんだ? 二人の女がアマリエに憑依しているのか?」
 そうねえとクリッサは曖昧に答えた。少し眉を寄せ、「実はわたしもあんなの初めて見るのよね。アルジェベタじゃないほうの、あの『もう一人』、あれずいぶん昔の人なのかしら?」
 「細部が漠然としているのでいかんとも言いがたいが、五・六百年前の帝国の魔女狩りを思い起こさせることは確かだな」
 そう言ってツァランはマグに口をつけた。冷たい水の感触が、驚きと畏怖に染め上げられていた頭を冷やし、思考する力を呼び戻す。
 「……『二人』が言っていた豪華絢爛な礼拝堂は帝都の神聖大寺院のことだと思う。あそこの天井には世界創造のフレスコ画が描かれているし、床は聖典物語のモザイク画で一面彩られていたはずだ。加えれば、神聖大寺院の僧の最高位は『大僧正』と呼ばれる。あの『もう一人の女』は、聖女として大僧正に直々に見初められ、総本山たる神聖大寺院に連れて行かれたのだろうな」
 「その礼拝堂の話、アルジェベタって言ったっけ、あのお姫様の話のほうにもあったものね」
 クリッサは瞳をくるりと上に向けて思案するように、「アマリエの中に二人がいるっていうよりは、入れ子になってるのかしらねえ」
 「アマリエの中にアルジェベタが、さらにアルジェベタの中に『もう一人』がいると?」
 ツァランがそう言ったとき、客間の扉が開いた。イザクである。二人の方に歩いてきたイザクは、マグを手にするツァランの腕にくっきりと浮かんだ指の跡を見て、「すまん」とだけ言った。
 ツァランは肩をすくめた。「今になってずきずきし始めたぜ。まあ骨は折れてない。気にするな」
 クリッサがそれを聞いて笑い、
 「だからツァランに一緒にいてもらったの。がまんってのは一人でするよりも二人でしたほうがいいのよねえ! なにか捕まって力を入れるモノが手近にあったほうがいいってこと」
 他人を堂々とモノ扱いする態度に呆れたツァランは彼女を睨みつけてやったが、クリッサは悪びれる様子もなく、
 「……大丈夫よイザク、たしかにあんな反応を見ると心配になるかもしれないけど、苦しんでいたのは『あの子』じゃないし――ただちょっと身体は疲れてるかもしれないわね。あの子が目をさましたら、咳止めと体力増進によく効く薬、渡すわ」
 イザクは曖昧に唸った。クリッサはツァランに向き直り、
 「それでツァラン、ほかにわかったことはある?」
 「ああ」とツァランは溜息をつき、
 「――あの真っ赤な畑と丘についてだな。彼女が住んでいたという城は二五〇年前に農民蜂起で襲撃され、廃墟になったのだが、その蜂起のきっかけとなったのは元をたどれば虫の大繁殖だったはずだ。赤い微細な虫がびっしりと麦について青葉をすべて食いつくし、遠くから見ると畑全体が虫の色でうっすら赤味を帯びてさえ見えるところから、<赤の飢饉>と呼ばれたのだな。その後の彼女の語りからすると、農民たちは城に火をかけたようだ。アルジェベタはそれに巻き込まれて焼死したんだろう。このアルジェベタが、王家の家系図では性別も名も不詳となっているバルタ家の第三子である可能性は高い――偶然にしては符合が多すぎる。だが……」
 と、ツァランはそこで言葉をいったん切って顎に手を当てた。「……その子は飢饉の数年前に十四で死んでいるはずなんだ」
 「はあ」と、クリッサ。「あの子、十九だって言っていなかった?」
 「そう」とツァランはうなずき、「それに関連して、さらに不思議がある。――丘の上のあの城は、ここ王都から馬ならば半日かからない距離だ。もしアルジェベタがまごうことなきバルタ本家の姫ならば、そんな令嬢の住む城が王都の目と鼻の先で襲撃されているにもかかわらず、なぜ鎮圧の兵が向かわなかったのか? バルタの当主、つまり彼女の父が指一つ鳴らしただけでかなりの数の兵が動いたはずなのに? アルジェベタが書いた手紙はいったいどうなった?」
 ツァランの問いかけに、クリッサはぱちぱちと眼をまたたかせてイザクに視線を向けた。だがイザクは知るものかとでも言うように、肩をすくめただけだった。
 「……何なのよう」
 クリッサが焦らされたように先を急かしてくる。ツァランは唇を舐めた。
 「イザクから話を聞いた後、ぼくは王立図書館でいくつかの歴史書を調べた。それらに一貫して書かれていたのは、当時あの城は空だった、ということだ」
 「からっぽ?」
 「そうだ。極度の餓えに苛まれ、絶望と怒りに駆られて暴徒と化した農民らの一団は、丘上の城を襲い、食物やその他の品を強奪した。しかし幸いなことにバルタ家の一族の誰一人として当時城には滞在しておらず、殺傷されたのは数少ない使用人のみである……というのが、歴史書の多くに共通した記述だ」
 「……じゃあ、アルジェベタってなんなの?」
 「『何』なのだろうな」
 クリッサの素朴な疑問にツァランは呟いた。
 ――あの娘はなんと言っていた? 十四の秋から窓の外ばかりを眺めつづけ、丘の上の城で待ちつづけて、待ちつづけて……
 最後の朝に母親は彼女になんと言っていた? 彼女をきつく抱きしめて、
 ――許して、アルジェベタ。

 「イザク」
 目を閉じ、額に指を当ててツァランは言った。
 「ぼくが見せたあの家系図には、誤りや記載漏れがほとんどないときみに話したな」
 イザクが顔をあげて怪訝そうに太い眉を寄せる。
 「ひとつ例外がある」
 ツァランは続けた。「ある人間についての記録が意図的に消去された場合だ。てっとり早く言えば、アルジェベタが十四のときに彼女の存在そのものを公の場から抹消しようとする思惑が働いた可能性がある。――なんらかの理由で、あるいは何かの秘密を守るために。そうだとすれば、城が襲撃されているのに兵がさし向けられなかったのにも納得がいく。一握りの人間を除いて、誰もあの城に『誰かがいた』ことを知らなかったのだ。……記録の上で『殺され』、その後あの城に人知れず幽閉された一人の姫は、それから五年後、今度こそ本当に殺された。彼女が生きていることを知っていたはずの一握りの人間に――彼女自身の父と母に――見殺しにされたんだ」


 しばしの沈黙が落ちた。
 クリッサは眼を丸くしてツァランの顔を見つめている。イザクは不機嫌に、じっと目の前のテーブルの上を見つめていた。
 「しかし一番肝心な部分が謎のままだ」
 とツァランは肩をすくめ、「つまり、アルジェベタの両親がなぜそんなことをしたのか、だ」
 「そうねえ」
 クリッサが珍しく思案げに口を開く。「まあ降霊儀式って大事なことを引き出すまでに何度か回数を重ねなくちゃならないこともあるから、もしかしたらもう一度やれば……」
 「もういい」
 低い、だが断固とした声が二人の会話に割り入った。
 イザクである。ツァランの隣に腰かけた彼は視線をテーブルの上に向けたまま、
 「辛いことは思い出さなくたっていい。体に負担をかけるばかりだ。もうこのことには突っ込まないほうが、アマリエのためだ」
 「……だがイザク、それを解決しなければアマリエの悪夢は酷くなるばかりかもしれないぜ」
 「夢は夢だ」
 イザクはきっぱりと言った。
 「何があの娘に取り憑いているのか、そのお姫さんに昔何があったのか、おれは知らんし興味もない。いずれアマリエの自分の人生ではないんだ。そいつらが過去に何をしてようと、どんな目に遭ってようと、あの娘の責任じゃない。……さっきのあれは、もうやる必要はない。アマリエを休ませたら二人で帰る。世話になったな、二人とも」
 有無を言わせぬ口調だった。クリッサは立ち上がるイザクをただ黙って見つめている。イザクは「おれはアマリエを見てくる」とだけ言い残すと、扉に足を向けた。
 その背中にツァランは呼びかけた。「イザク」
 呼ばれた男は立ち止まり、少しだけ振り返った。
 「アマリエはこの夏で十九になると言ったな」
 それがどうしたと言いたげなイザクに向かい、ツァランはゆっくりと言葉を区切りつつ、
 「アルジェベタの中にいた『もうひとり』は火あぶりになって死んだ。その記憶をもったアルジェベタは、焼き討ちにあい、同じように火のなかで死んだ。そして、アルジェベタが死んだのと同じ十九という年を、二人の記憶をさらに引き継ぐアマリエはもうすぐ迎えようとしている」
 イザクは視線を鋭くした。
 「何が言いたい」
 「何も」
 ツァランは肩をすくめた。
 「守ってやりたいなら、気をつけろと。それだけだ」
 イザクは険しい顔でじっとツァランを見返した。だが彼は何も言わぬまま、ただきびすを返すと客間を出て行った。






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