N THE RED AND BLACK FLAME.

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「赤と黒」



 あたくしの話をせよとおっしゃって?
 あたくしの話なんて、おもしろくもありませんことよ。
 いつも内に籠もって、明るい外を窓から眺めているだけですもの。
 そう、もう四年以上にもなりますかしら。ずっと外には出ていませんの。
 だから、お外のことなんて何も知りませんわ。
 ……あ、でも少し。少しなら存じてますわ。おにいさまが話してくださいますの。
 ええ、五つ上の兄でしてよ。年に一度、あたくしの住まう丘の上の城を訪れては、おにいさまが歩かれた森や丘だとか、都のきらびやかな社交界のお話などを、アルジェベタがせがむ限り話してくださいますの。
 アルジェベタ、ええ、あたくしの名ですわ。
 いくつかって?
 この夏で十九になります。夏の終わりが誕生日ですの。
 小さい頃から、丘の上には家族で夏によく訪れていましたの。屋敷は森の向こう、馬車で半日も行った先にあるのですけれど、この丘の上の城は景色もよく、あたりを囲む林の空気はみずみずしく、小鳥が鳴く声が耳にも心地よいのです。おとうさまは小さすぎるとおっしゃっていましたけれど、とても可愛らしいお城で、あたくしは好き。
 おとうさまは物静かな方でしたわ。おかあさまのほうが時には厳しいくらい……。でも、おかあさまは高貴なお家のご出身でらっしゃいますから、とてもお上品で教養もおありになります。ご不浄にいらっしゃることがあるだなんて想像がつかないような淑女ですのよ、おかあさまは……。あら! 内緒ですのよ。お下品なアルジェベタをお許しあそばせね。
 ……でも、おかあさまに抱いていただいた記憶、おとうさまに撫でていただいた記憶はほとんどございません。それもお二人がお上品でいらっしゃるからなのかしら。わかりませんわ。
 一番上のおにいさまはいつもお仕事に忙しそうで、気難しい顔をしてらして、アルジェベタはあまりお話をしたことがありません。そのかわり、五つ年上のおにいさまはアルジェベタとよく遊んでくださいました。林の中には、それはそれは色々な生き物がいたもので、あたくしたち二人は綺麗な鳥や蝶々ですとか、親鹿のおしりに続いて歩く潤んだ瞳の子鹿などを見つけては、二人並んで飽きもせずに眺めていたものですわ。一度など倒木のかげでくるくると絡みあう二匹の蛇を目にしましたことよ。うふ、ふ、蛇の子づくりを見たことがおありになって? ねえ……艶かしいものですことよ。おにいさまとあたくしは二人で顔を見合わせて、ひそひそ笑ったものですわ。
 ――ええ、そうですわ。その頃はよくお外に出ておりましたの。
 でも昔からアルジェベタは泣き虫で、とても恐がりでしたの。とりわけ夜ひとりで休むのが怖くって……。綺麗な彫刻がたくさんで昼間は可愛らしいお城も、夜になると物陰に何か黒ぐろとしたものが潜んでいるようで不気味なのでした。たまに悪い夢を見たときなど怖くて眠れなくて……。そんなとき、アルジェベタはおにいさまのお部屋を訪ねるのが日課でしたの。おにいさまは寝台にもぐりこんだアルジェベタの涙のあとを指でぬぐい、大丈夫だよ、ぼくのアルジェベタ、ゆっくり朝までお休み、そう言って、きまって額に優しく口づけてくだすったものですわ。
 ええ、幼いころのお話です。おにいさまはアルジェベタが十二の年に、都の学(まな)び舎(や)で暮らすことになって、家を離れておしまいになりましたから。あのとき、あたくしはずいぶん泣いたものですわ。おにいさまはそんなアルジェベタを見て、たびたび帰ってくるから寂しがらないで、おまえの誕生日は毎年ここで祝ってあげようと、そうおっしゃいました。
 ええ、おにいさまはいつでも内から光り輝いているような、そんな人でございましたわ。おとうさまもおかあさまも、おにいさまのことを深く愛してらっしゃいました。
 ええ、おとうさまもおかあさまも、


 …………。


 兄上は優しい人でありました。少しばかりその體(からだ)は脆弱でありましたけれど、美しい金髮(きんぐし)をおもちで、青水晶の瞳でいつも笑つていらしたものでございます。
 兄上を溺愛した父上は早くにこの世を去りました。爵位こそございましたがそれも過去の榮光、生活はつゝましく辛いことも澤山(たくさん)あつたと記憶してをります。それでも母上と三人身を寄せ合ふやうにして暮らした記憶は都に行つてからも度(たび)たび思ひ出されたものでございます。
 いゝえ、いゝえ都のくらしは充ちたりたものにございました。私は眞(まこと)都にて生まれ變(か)はつたのでございます。あの地をご來訪になつた大僧正樣が勿體(もつたい)なくも私に御目をかけあそばされたあのときに主(しゅ)の御手(みて)のなかにいま一度生まれ變はつたのでございます。其方(そのはう)が遠い地の景色を物語る娘かと大僧正様はお尋ねになりました。はい幼き頃から何故か目にしたことなき景色が頭に浮かびますと私が申しますと、大僧正樣はそれはそれは慈しみ深い笑顏をお浮かべになり、そなる力は主が其方をお選びになつた證(あかし)、其方にお授けになつた恩寵(おんちょう)であると仰せになりました。
 そのとき私は慥(たし)かに神々しく眩しい白光がすと一筋頭のてつぺんからつま先までを驅(か)け拔けるのを知つたのでございます。そのとき私の體の奥深くは甘美なるよろこびに濡れ、私の心はこの身の總(すべ)てを主の為(た)めに捧げるものとさう決まつたのでございます。
 たゞ母上を彼(か)の辺境に独り残してきた事が悔やまれました。家を離れた後も生家を度たび訪れ私どもに慰めを與(あた)へてくれた兄上は、
 兄上は、……


 …………。


 ああ、そうですわ。
 おとうさまやおかあさまは、時たまアルジェベタを不思議な目で見ることがありましたのよ。たとえばおにいさまがたと、おとうさまと、召使いたちが談笑しているところにアルジェベタが足を踏み入れたりしますと、皆はっとしたように口をつぐみ、奇妙な沈黙のあとに、どこかしらへ散ってしまうのですわ。
 いま思えば、それは時たまアルジェベタが口にするものを恐れていたからなのかもしれません。たとえば十や二十もの聖人様の彫刻が縦にずらりと並ぶみごとな壁や、視界一杯に広がる世界創造の天井画……、ふと思い出されるそうした光景について、幼いころは屈託なく話していたのですわ。
 けれども大きくなるにつれて、自分がどこでそれらを目にしたのか不思議に思うようになりました。ヘプタルク大寺院の光景では決してないのですもの。なぜあたくしは、床を飾る聖典物語をこんなにもはっきり思い出せるのでしょう? 一目あたくしに会おうと寺院の前で列を作る痩せ細った民のことを、こんなにもよく覚えているのでしょう?
 いくら考えてもわかりませんの。
 ただ二番目のおにいさまだけが、飽きもせず、面白そうにあたくしの話を聞いてくれたのですわ。おにいさまはおっしゃいました。南の砂漠の蜃気楼の中に垣間見える金色(こんじき)の異国には、魂がいくども生まれ変わるという言い伝えがあるそうだ、と。気の遠くなるような昔から、おそらく天地がこの世に築かれたその昔から、魂は変化(へんげ)を繰り返しながら永遠の時間をたゆたっているのだと。ひとつの身体にぷかりと入っては一生を終え、また別の身体にぽかりと入っては一生を終えるその魂の遍歴を、ぼくらはただ忘れているだけなのかもしれないね、と。ならばアルジェベタ、おまえだけがそれを思い出すことができるのかもしれないね、死と暴力の暗黒に包まれた世界の雲間から理知と神の光が射し込み人びとを照らすまでを、あるいは多くの野望が生まれては潰(つい)えていく時の流れを、おまえだけが思い出すことができるのかもしれないね、と。
 ああ、そうなのかとあたくしは思いましたわ。おにいさまはなんでもご存知なのです。うふ、ふ、……ねえ、不思議なのはアルジェベタではないのです。不思議なのはきっと、すべてを忘れている皆ども、あなたがたのほうなのですわ、


 …………。


 私(わたくし)は幼き頃から身近にない筈(はず)の光景や樂(がく)の音がふと頭に浮かぶ子にございました。人はそれを不氣味と云ひ、母上もその事をあまり人に云ふでないと私を諌(いさ)めたものでございます。たゞ兄上だけは私のさうした話を好いたのでした。慣れぬ生活の心勞(しんらう)は時折兄のおだやかな顏に暗い隈を落としてをりましたから、そんな兄に私は旧(ふる)い記憶のなかからとりわけ美しい景色や物語を掘り起こしては語つて聞かせてゐたのでございます。少しでも慰めになればとさう願つたのでございます。
 ええ私はこの現世(うつしよ)に生くる者が識(し)る筈のない景色を識つてをりました。それが偉大なる主より賜つた啓示であると大僧正樣はお教へ下すつたのでありました。
 初めて大禮拜堂(だいれいはいだう)に足を踏み入れた感動は忘れることができませぬ。豪華絢爛な内裝の藝術(げいじゆつ)は人の産み出しうるわざの域を超へ、主の威光をその儘(まゝ)に顯(あらは)してをりました。天廊のかたはらから地を見下ろす天使像は人よりも猶(なほ)生きてゐるがごとき優しい微笑を浮かべてゐる。その厳粛な祈りの場で、僧正樣司祭樣の御前(みまえ)にて、また民草(たみぐさ)の集ふその前にて、私は主の默示を語り開いたのでございます。
 寺院の扉の前には毎日のやうに身體(からだ)のねぢくれた哀れな男女が列を成してをります。私の指に觸(ふ)れた彼(か)れらはその痩せて折れ曲がつた四肢を歡喜(くわんき)に震はせ、聖女樣に觸れていただいた、これで不治の病が治ると泣き噎(むせ)ぶのでした。
 幸福でございました。私は選ばれたのだと思ひました。主は私の總(すべ)てを受け入れてくださるのだと。
 ならば私が為してきたことは、あれはやはり罪ではなかつたのだと、
 やはり罪では、


 …………。


 丘の上の城には幽鬼がおりました。
 初めて見たのはいつでしたかしら。十五のとき。いいえ、十四のとき?
 幽鬼はいつも扉の隙間からじいっとこちらを眺めておりました。長い髪を垂れ流して、眼窩からこぼれ出しそうなほどに目を見開いて。音もなく何をするでもなく、ただじいっとこちらを見つめているんですの。
 真夜中に胸苦しくて目が覚めると、ふと見やった扉の隙間がいつの間にやら細く開いていることがありますの。そんなときはきまって幽鬼がそこに佇んでいるのですわ。いつでもだらしなく口を開いてこちらを凝視しているのです。
 一度なぞ、廊下で幽鬼に出くわしたことがありますのよ。真夜中、小用を足しに部屋を出たときでしたかしら。寝間着姿で廊下を歩いておりますと、ふと前方に黒いわだかまりがあるのに気づきました。
 幽鬼でしたわ。
 のっぺりした顔にかかった長い髪の間から、真っ赤に血走った目玉が覗いておりました。見開きすぎて裂けた瞼から赤い血を細く滴らせながら、幽鬼はぼうと突っ立っておりました。叫び声を上げるように大きく開かれたその口は、けれども無言のままでした。あたくし足が床に凍り付いてしまったようで、その場に立ちつくしていましたわ。すると幽鬼の唇が小刻みに震え、開かれた虚無の奥から低い、しゃがれた、かぼそい声で音を紡ぎましたの。
 アル……ジェ……ベタ、と。
 あたくし、ぞっとして、回れ右をして走って逃げましたわ。

 首飾りとおっしゃって?
 ええ、あれは十四の誕生日の贈り物にいただいたのです。エメラルドと金剛石の綺麗な品で、あたくし嬉しくて小躍りして、幾度もその首飾りに口づけしたものでしてよ。
 幸せな思い出ですわ。
 けれども、その秋からでした。あたくし丘の上に住むようになりましたの。夏だけではありません、あそこがあたくしの住まいになったのですわ。
 おとうさまとおかあさまは幾人かの召使いと下男を残していつも通り本屋敷にお戻りになりました。
 それが、あたくしがお二人のお顔を見た最後です。
 城を去られるあの朝、おかあさまはあたくしのお部屋にいらっしゃいました。それから手を振り上げて、あたくしの頬を二つばかり激しくおぶちになりましたわ。あたくしは驚いて声もなくおかあさまを見つめるばかりでした。するとおかあさまはあたくしの顔をじっとご覧になってから、あたくしを苦しいほどに強く胸に抱きしめました。それから、馬鹿なアルジェベタ、許してアルジェベタ、とそうおっしゃいましたの。
 おかあさまにぶたれたのも、抱きしめられたのも、思えばそれが最初で最後の記憶ですわ。
 城の生活はつまらないものでしたわ。話し相手は身の回りの世話をまかせた下女くらいしかおりませんし、その下女でさえ、どこかいつもおびえているような、変な様子なのです。あたくしと目があうとさっと視線をそむけるような具合で、下がりなさいと命じると、いつでも走るように逃げ去っていくのですわ。
 それでもおにいさまだけは年に一回、変わりなく丘の上の城にいらっしゃいましたことよ。相変わらずほがらかでいらっしゃいましたけれど、時折ふとお話の途中でお顔を険しくなさっては、じっと考え込まれるようになりましたわ。
 五年間、あたくしは窓から四季の移り変わりを眺めつづけました。木々の葉とともに枯れゆく風が冷たい吹雪となり、それから春の息吹を含んで、そうして夏が再び咲きほこるまで。毎日毎日、ただ待ちつづけて、
 ただ待ちつづけて、


 …………。


 或(あ)る朝のこと、僧の一團(いちだん)が私(わたくし)の部屋にやつて參りました。何事かと尋ねるも答(こたへ)はなく大僧正樣のもとに連れて行かれます。私の前に立つた大僧正樣は險(けは)しい顏で私を一瞥(いちべつ)なさいました。曾(かつ)て浮かべられてゐた慈愛に満ちた微笑みはもう其所(そこ)にはございませぬ。或る知らせを受け取つた、酷く殘念であると大僧正樣は仰せになりました。
 審問は辛いものでございました。私は必死で抗辯(かうべん)致します。あれは惡魔の魔術などではない、自分は魔王と肌を合はせたことなどないと。それでも僧達は信じやうと致しませぬ。
 辛い、恥づかしい記憶にございます。審問堂にぐるりと居竝(ゐなら)ぶ僧達は私の衣服をはぎ取り、私の内股を胸を突囘(つつきまは)し、この罪深き乳房に惡魔が接吻したか、この白い脚の間に魔王の冒涜が割入つたか、この腹は一體何匹の惡魔を孕んだかと口々に詰問致します。魔王の唇、冒涜などこの體は誓つて知る由(よし)もございませぬ。私は、たゞ、……
 あゝそれとも主よ、萬能(ばんのう)にして全智なる主よ、私は罪を犯したのでございませうか。私はたゞ慰めを、
 慰めを、……


 …………。


 その年、いつも夏には緑に、秋には黄金色に輝く王国の畑が、春からずっと赤みを帯びていましたの。……いえ、思えばその前年からでしたわ。青々しい緑は少しずつ食いつくされ、二年目の終わりには丘も畑も見渡すかぎりが鮮血で染めたかと見まごうばかりの色となりました。
 そして、丘はしだいに異臭を漂わせはじめたのですわ。
 どんな臭いと言ったらよろしいかしら……、月のものがどろりとこびりついた下履きを真夏に何日も着つづけたような、そんな臭い……、あら、はしたないアルジェベタをお許しくださいませね。でも本当にあのような臭いですわ、血の固まりが饐えた臭い。生肉が腐るときにこんな臭いがいたしますと、下女がそう申したのを覚えています。
 窓からは泣き声とも苦悶とも怒りともつかない叫び、唸りが聞こえ出しましたわ。そして時折城の門をどおん、どおんと叩く音。
 食べ物を、食べ物を。
 麦を、せめて一袋。いやせめて一粒でも。
 そんな声でしたわ。
 あたくしの食事は丘が真っ赤に染まってからも変わることなく運ばれてきましたけれども、異臭は酷くなる一方で、ものを食べる気がいたしません。窓からお捨てと下女に命じましたわ。下女は少し目を見開いてから、黙って言う通りにいたしました。べちゃりと食べ物が地面に落ちる音と怒号が聞こえます。ほどあって、泣き声と、ぴちゃぴちゃと食べ物を啜る音がいたしましたわ。窓から外を眺めると、骸骨に薄皮がこびりついただけの、男か女かも分からない人間どもが、あたくしの捨てたパンと肉とスープに虫のようにたかっておりました。
 あたくしは丘の上の城を好いていました。どこにも出かけられない、話し相手の一人もない生活は辛いものでしたけれど、あの窓から見える景色があんまり綺麗だったから、まだあたくしは正気を保っていられたのですわ。けれどもどこもかしこもひどい臭いで、城を取り囲む叫びと唸りはぞっとするほど凶暴になってゆき、下男や召使いの顔色は目に見えて悪くなってゆきますの。
 ある日外を眺めると、都の手前の川の横に、巨大な穴がすり鉢のように口を開けているのが見えました。その真ん中から一筋の煙が立ち上っています。赤く染まった大地にそこだけ黒い“しみ”を落としたかのようでした。そうしていつにも増して生々しい腐臭が城まで漂ってくるのです。
 そのまま見ておりますと、一台の荷車が荷を山と積んで穴に向かってゆきます。荷車を引いていた男たちは穴の縁で立ち止まると、荷のひとつを担ぎ上げて穴のなかに放り捨てましたわ。
 黒いすり鉢に飲み込まれていったその荷には、手と頭と足がありました。
 人のかたちをしていたんですわ。
 畑の真ん中に黒ぐろと開けていたのは、地獄の門だったのですわ。
 吐き気がして、あたくしは目を背け窓を閉めました。
 それからあたくしはおとうさまに手紙を書き、下の者に届けさせましたの。迎えに来てほしい、一時でもいいからそちらの城にアルジェベタを置いてほしい。ここは怖くてたまらない、気がおかしくなりそうだ。だから、ほんの少しの間だけでいい、……
 手紙は数日で届くはずでした。けれど一月経っても返事は来ないのです。
 途中で事故にでも遭ったのかと案じて、もう一度、今度はおかあさまに手紙を書きましたわ。
 それでも返事は来ないのです、


 …………。


 無數(むすう)の手が私(わたくし)の腕を、身體(からだ)を、髮を亂暴(らんばう)に掴んで町中に引き摺(ず)り出します。曾(かつ)て私に觸(ふ)れ歡(よろこ)びに泣いた民が、いまは惡鬼のやうに齒を剥き出し、凶暴な叫びを上げて爪を伸ばし、石を投擲(たうてき)し、汚らはしい魔女、惡魔と姦淫した癡女と、言ふも憚(はばか)られる冒涜を口にします。けれども私の身體も心も既に何も感じなくなつてをりました。さうです、私は慥(たし)かに自分が悪魔と交はつていたことを知つたのでございます。
 あゝ母上、母上、母上、……


 …………。


 ……ああ彼らがやってくる。扉が叩かれている。激しい音、めりめりと木が裂けている。あたくしの小間使いはどこ? 門兵は、下男は?
 ああ、ほらあそこ。あそこの草原を一人の下男が逃げていく。骸(むくろ)のような人間たちが群れをなして彼に四方八方から手を伸ばす、逃げて、逃げて、ああ捕まった。剥き出しの腕が、足が首が噛みちぎられ、頭が潰され、引きちぎられて……。
 怖い。怖い、おにいさま。お願いです、助けて、おとうさま、おかあさま。
 おかしな臭いがします。いえ昨日までの、あの腐臭ではない。何かが焦げているような……。息が苦しい。胸がひいひいと悲鳴をあげている。あたくし病に罹(かか)ったのかしら。どうしてこんなに熱いのです、涙が、汗が止まらない。いやです、いや、いや、怖い、怖い、

 人々が石礫(いしつぶて)を手に手に迫つてくる。がんと目に衝撃が走る。どろりと流れ出たのが私(わたくし)の血なのか、眼球なのかも、もうわからない。痛みはない。たゞ熱い、たゞ熱くて息が苦しい。身體(からだ)は動かない。縛り付けられた材木の棘(とげ)が、さゝくれが、眞裸(まはだか)の背中の皮膚に突き刺さる。煙が立ち昇る。狂亂(きやうらん)の歡聲(くわんせい)が上がる。
 眞つ赤な煙と眞つ黒な炎ががうがうと渦を卷く。髮が、足のあひだの毛がちりちりと踊り狂ひ、身體中の肌がじうじうと沸騰する、

 怖い。苦しい。どうして。熱くて息ができない。一階を覆いつくした煙と炎が二階へ三階へと上ってくる。窓から飛び込んできた何かが額に当たり、一瞬木が遠くなる。
 気がつくと床にしゃがみこんでいて、額から熱いものが鼻の横を流れ落ちて、拭った手にべったりと赤いものが、
 怖い。熱い。前が見えない。煙でどこもかしこも真っ白で、廊下はもう火の海で、怖い、いや、いやです、ああ助けて、おにいさま。いやです。怖い。手足に火がつく。赤い怪物がそこで笑っている。幽鬼があそこで見ている。いやです、いや、いや、いや、怖い。いやです。あたくしの手。あたくしの髪。
 熱い、熱い、いや、怖い、助けて、どうして、どうして、どうして、どうして、おかあさま。おとうさま。
 いやです、いや、いや、怖い、怖い、お願い誰か、怖い、誰か、ああ誰か、あたくしを助けて。熱い。苦しい。苦しい。怖い。おにいさま、助けて、助けて、怖い、苦しい、熱い、いやです、いやです、死ぬのは怖い、助けて、怖い、死ぬのはいや、いや、おかあさま、どうして、おかあさま。怖い、いやです、熱い、怖い、目がかすんで、いや、いや、いや、いや、苦しい、苦しい、苦しい、苦しい、

 あゝ主よ、私(わたくし)は今日ここで死ぬのでございますね、
 あゝ主よ、私を御元(みもと)に召してはいただけぬのでせうか、
 あゝならば今私は主ではなく、貴方、貴方のもとに、

 おにいさまの声がする。
 アルジェベタと呼んでいる。
 空耳? いえ空耳ではない。ほら炎の向こうに、窓のすぐ下に。馬に乗ってたくさんの兵隊を引き連れて。ああ来てくだすったのだわ。そうですわね、今日は私(わたくし)の誕生日ですもの。十九の誕生日でしたもの。兄上が、ほらそこに。癖のある金髪を風にはためかせて。その青水晶のような目に悲嘆と恐怖を浮かべて。
 ああ兄上、そんな顔をなさらないで。
 どうか、どうか最後にアルジェベタに笑顔を向けて下さいませ、ねえ、
 おにいさま、おにいさま。

 さようなら。






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