HE MANSION OF THE GREAT WIZARD.

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「<大魔法使いの古屋敷>」



 イザクが件(くだん)の娘を連れて都にやってきたのは、それから数日後のことだった。前もってその知らせを受けていたツァランは、王立図書館での写本の仕事を早々に終わらせ、その足で町外れの一軒の屋敷へと赴いた。
 ヘプタルクの一部の住民に<大魔法使いの古屋敷>と――若干以上の揶揄(やゆ)を込めて――呼ばれるその屋敷は、街中にはそぐわないほど荒れ茂った庭の木立に半ば以上うずもれ、市壁の内側にへばりつくようにして、ひっそりと建っていた。飲み仲間の一人であるクリッサが、「魔術の修行」と名打たれた、そのじつ家政婦修行としか見えない鍛錬を積んでいる館である。屋敷の主人はかつてヘプタルクの影の実力者であったとも囁かれる人物であるが、齢(よわい)にしてじつに三百を超えるという信じがたい噂の持ち主でもあるため、前者の噂の真偽もはなはだ疑わしいのだった。いずれにせよ、その大魔法使いの姿をじかに見たことがあるという人間に、ツァランはクリッサをのぞいて会ったことがない。さらに言えばほとんど唯一彼を身近で知る人間であるはずのクリッサは、いつでも会話のポイントをはずしたその独特の応答でもってして、故意にかあるいはまったく狙わずにしてか、ツァランら仲間に対してすらも師匠の人となりについてなんら役に立つ情報をもたらさないのだった。したがって、その屋敷の主(あるじ)がはたして数百年を生きたにふさわしい奇怪なる容貌をもつのかも、あるいはその男がじつのところ何者であるのかも、すべての謎は謎のまま、うっそうと生い茂って屋敷を覆う蔦の中に隠されているのみなのだった。確かなことは、その男が誰も覚えていないほど昔からその屋敷に住みついていたということだけなのだ。
 扉を叩いたツァランを出迎えたクリッサは、案の定、その日も師匠は留守なのだと言った。弟子の飲み仲間という素性も知れない輩を屋敷に入れさせることじたいが驚きなのだが、その日に限っては、彼女の副業である降霊術の類ということで許可が下りたらしかった。
 ツァランが通されたのは小さな客間だった。かつてはさぞ豪奢(ごうしゃ)だったと思われる、だが今となっては一様に色あせた調度品に覆われたその部屋には、かびと埃の臭いが充満していた。部屋に足を踏み入れたツァランの顔を見て、クリッサは言い訳がましく「拭きそうじはしてるんだけど」と言った。
 その部屋で待たされ、しばしあって、イザクと連れの娘が屋敷に到着した。
 「あなたがおしゃべりな魔法使いさんね!」
 イザクを伴って客間に入ってきた娘は、ツァランを見つけるなり開口一番そう言った。肩を覆った質素な毛織りのショールの上で、薄い茶色の目が好奇心に光っている。
 「魔法を使ってるのを見たことがないって木こりさんが言ってたわ。でも本当は使えるんでしょう? 今度、わたしと木こりさんの目の前で、素敵な魔法を見せてくれなくちゃ」
 娘に挨拶すべく腰を上げていたツァランは、彼女の人なつこい表情に微笑を返した。
 「これは参った。ぼくの魔法は職業機密なので、おいそれと人には見せられないのです……。だが、うら若きお嬢さんに頼まれたとあっては心も揺れる。木こりと一緒などとは言わず、今度ひとりでぼくのところにいらしてはいかがです。とっておきの魔法を見せてあげるかもしれません」
 「どうしたの、今日はやけに色気づいちゃって、ツァラン!」
 二人に続いて入ってきたクリッサが言う。にこにこと笑顔を娘に向けて席をすすめつつ、口調だけはやけに忠告じみて、「このひと口ばっかりうまいけど、ぜんぜん甲斐性がないんだから騙されちゃだめよ。女の子の扱いなんてからっきしなんだから! お母さまがお泣きになるわよ」
 ツァランの台詞に目を丸くしていた娘は、クリッサの言葉に少し笑い、それから視線を落とした。
 「うちの母さんは、わたしが誰と会っていてもなんにも言いっこないわ。わたしの咳を毎日聞かなくて済むようになるなら、むしろほっとするんじゃないかしら。今日だって、わたしが出かけてくると言っても、そう、と言ったっきり一言も返さないんですもの」
 やや音色の翳(かげ)った娘の口調に、クリッサは小首をかしげて娘を見、それからイザクに視線を向けた。だがイザクは客間の出窓の桟に腰かけたまま、表情も変えず三人を見ているばかりだった。
 「……今日は悪い夢について知りたくて訪ねてくれたんだったっけ、アマリエ?」
 娘の向かいに腰をかけつつ、クリッサは少し口調を和らげて尋ねた。「少し詳しく話を聞かせてくれる?」
 素直に頷いたアマリエは、クリッサとツァランの二人に順繰りに視線を向けつつ話を始めた。三年前に目覚めた記憶、アルジェベタと呼ばれた姫のこと、丘の城での毎日の生活――少女らしい、華やかながら幼げな語彙とリズムに彩られたものとはいえど、その内容は大まかには数日前にイザクから聞いた話と一致するものだった。
 ――聡明そうな娘だな。
 アマリエの話を聞きながらツァランは思う。その話は分かりやすく順を追っており、内容の荒唐無稽さから考えればひどくしっかりしたものと言えた。強い村なまりがあるとはいえ、家をろくに出たこともない少女とは思えない、明瞭な語り口である。
 ただしその語りは、彼女を襲う咳の発作にしばしば中断された。実のところツァランは、病人とは思えぬほど溌溂(はつらつ)としているという第一印象を彼女に対して抱いたのである。しかしながら彼女をしばし見ていると、やはり病の影はそのしぐさにも容姿にも色濃く落ちているのがわかった。大きな目の下には黒い隈がはっきりと刻まれていたし、日の光を知らない青白い肌の下からは、内側に巣食った病魔が土色に透けて見えていた。
 「面白いわねえ」
 しばらく黙って彼女の話を聞いていたクリッサは、話が一区切りを迎えたところで頷いた。「でもふだん思い出せる記憶が幸せなものなんだったら、夢の中の怖い部分を突っ込んで調べる必要もないんじゃない?」
 「イザクもそう言うんです」
 アマリエは窓際に立ったままの男を見やってから、すぐにクリッサに向き直り、
 「でも、どうしても知りたいの。どうしてわたしは見たこともない景色や感触をこんなにはっきり覚えているのか、この不安はいったいどこからやってくるのか、ただ、知りたくて……、ええ、馬鹿げているっていうのは分かっています、もしかしたらアルジェベタなんて、本当にいたのかどうかもわからないんだわ。でもこの記憶をもう他人のものとは思えないんです。だって窓から見えるあの夕焼けを、赤い空と蜜柑色のお日様を映してきらきらゆらめいてるあの遠くの湖を、わたし今だって自分の目で見たのとおんなしように、はっきり思い出せるんです……」
 アマリエはぎゅっと目を閉じた。今この瞬間もまぶたの裏に丘の上の空を映しているかのように、唇を二、三度震わせる。
 「……最近はもやもやとした不安を起きているときにも感じるの。この間なんて夕暮れに母さんと兄さんと暖炉の火を囲んでいるときに、突然その不安がやってきて、わたし息ができなくなって倒れてしまいました。……わたし、怖いの。アルジェベタに起こった同じことが、もしかしたらわたしにも起こるんじゃないかって。それなのに、アルジェベタはどうなってしまったのか、考えても考えても思い出せない。ただ毎日夢ばかりが不気味になって……」
 アマリエはそこで咳き込み、懐から取り出したハンカチーフで口元を覆った。テーブルの上に置かれたカップの水を一口ふくみ、息を落ち着かせる。
 「そうねえ」
 珍しく眉を寄せて考え込んでいたクリッサがゆっくりと言った。「アルジェベタと話すことはできるかもしれないわ」
 その場の一同がクリッサを見つめた。
 「ただしその間、あなた――アマリエには眠ってもらうことになるわ」と、クリッサは思考を巡らすように、「だから直接話をするのは、わたし。その上で、悪夢にどう対処できるかを考えることになるかしらねえ。でもちょっとめんどうな準備が必要だし、かなり体力も消耗するし……。それでなんにもわからない可能性もあるんだけど、いいの?」
 アマリエは頷いた。「お願いできるのですか。たいしたお礼もできはしないのですけど」
 「まあ、お礼に関しちゃイザクに後払いで払ってもらうから、いいわよ」
 クリッサはイザクのほうを見もせずに、あっけらかんと笑い、「じゃあ、軽く最初に様子を見るからこっちに来てくれる?」
 クリッサに連れられて客間を出て行くアマリエの背中を見送ってから、ツァランはイザクに向き直った。イザクはアマリエが話を始める前と寸分違(たが)わぬ格好で出窓のあたりに腰を預けていたが、その表情は先ほどよりも不機嫌になっているように見えた。
 「彼女の体の調子は良くなったのか」
 「いや」とイザクは表情を変えもせず、「実のところ、ここしばらく快調じゃない。クリッサの話をしたら、本人がどうしても来たいといって聞かなくてな。おとついからやっと少し咳が軽くなったのと、アマリエの家の隣の旦那が今日は街に馬車を出すというので、一緒に乗せて連れてきた」
 「肺病と言ったか?」
 「そうだ」
 ツァランは呟いた。「……難しいな」
 イザクは答えなかった。
 しばしあって、クリッサは一人で客間に戻ってきた。様子を聞いたツァランに対し、クリッサは首を傾げて唸りつつ、
 「ちょっと変わった様子ねえ。軽く術をかけてみたんだけど、たしかに何かがいるみたいね」
 「何かが、いる?」
 「あの子の中によ」
 とすれば――彼女のような悪魔憑き・死霊憑きの専門家からしてみても、アマリエの話は一見してそれと知れるちゃちな作りものではないわけだ。ツァランは沸き上がる高揚を抑えつつ、唇を舐めた。
 「何がいる?」
 「よくわからないわね。ふつう人間に取り憑くものは悪魔であれ死霊であれ、肉体を乗っ取ろうとする意思を見せたりするんだけど、そういうわけでもないし……。いずれにせよ詳しいことはきちんと儀式をしてみないと」
 「立ち会えるか」
 と、これはイザクだった。
 「うーん」とクリッサは唸った。「でもあなたがたは素人だし……」
 「だが、立ち会う場合もあるんだろう」
 「まあ、憑依状態で出てくる話の中には、身近な人にしかわからないものもあるから。だけど……」
 「邪魔はしない」
 ゆずらない様子のイザクに、クリッサは少し考えた。
 「……わかったわ。ただ一つ言っておくけど、何があっても絶対に邪魔はしないでね。彼女に触っちゃ駄目。話しかけても駄目。彼女が何を言っても、どんな苦しそうな様子を見せても、わたしがいいって言うまでじっと黙って座ってるのよ。いい? でないと――」
 クリッサはそこで言葉を区切り、何かを考えるように目をそらしてから、
 「本物のあの子が返ってこなくなるかもしれないわ」
 と言った。
 淡々としたその言葉に、ツァランとイザクは目を剥いた。
 クリッサは二人の反応に眉を上げ、言い含めるような口調で続けた。「……自分の記憶にせよ、取り憑いてるものが見せてる何かにせよ、夢の中にだけ漠然とした不安や恐怖として出てくるイメージがあるとすれば、それには理由があるの。ふだん起きてるときには出てこないだけの理由が」
 「理由?」
 「憑依されている側の防衛反応だってことね。つまり、アマリエの。もし儀式の負担をできるだけ残さないようにするんだったら、取り憑いてるものが喋った内容を、もう一度しっかりあの子の意識の外に封じ込める必要があるわ。……言い換えると、儀式は滞りなくきちんと終わらせなければならないの。途中で妨害したら、取り憑いてるものが暴走してあの子の心に外傷を残したり、本物のあの子とすり替わってしまったりするかもしれないってこと。わかった?」
 イザクが呻いた。「その儀式とやらは、本当にやらなくちゃならんのか」
 「それはわたしが決めることじゃないわ」
 クリッサは簡潔に答えた。いつもながらの飄々(ひょうひょう)とした物言いだったが、そこに漂う冷徹さをツァランは初めてのように意識した。
 「あの子か、でなけりゃあなたが決めることじゃない、イザク?」
 「わかった」イザクは唸るように言った。「邪魔はせん」
 クリッサは大きな溜息をつき、ツァランに向き直った。「仕方ないわね。どうせ一人入れるなら二人もおんなじだし、ツァランも来てよ」
 「ぼくもか」
 「そうよ。歴史の話ならツァランのほうが詳しいでしょ? それから、イザクが暴れないように抑えていてよ」
 イザクが不服そうに唸ったが、クリッサはそれを無視してさっさと部屋を出て行った。ふたたび戻ってきた彼女は、手に持っていた硝子(がらす)びんを二人に手渡した。「これで口をゆすいで」
 怪訝そうにびんを眺めるイザクに、クリッサは笑い、
 「心配しないで、塩水よ。儀式に列席するんだったら身を清める必要があるから。それからお便所で用も足してきてね」
 二人が言われた通りにして戻ってくると、クリッサは身じたくを整えて待っていた。先ほどまでの女中のような服装から、絹らしき薄手の濃紺の衣服に着替えている。露出した肩から腕にかけては、複雑な文様の施された金の腕輪がいくつもはめられており、長い金髪は衣服と同色のレースのベールですっかり覆われていた。いつもとは豹変した雰囲気をまとった彼女は、だがいつもと変わらぬ淡々とした調子で、二人を屋敷の地下へといざなった。
 地下への狭い階段は、固い石で出来ているのか三人の足音を高く反響させた。大理石か石灰石の類いとおぼしき白色の手すりには、古めかしくも禍々(まがまが)しくうねった数々の彫刻が施されている。かっと顎を開いて無音のままに哄笑するそれら古代の鬼神の表情を、一段降りるごとに揺れる燭台の炎が、まるで生きたもののように照らし出していた。
 長い階段を下りた後、三人は長くまっすぐな廊下を歩いた。左右の壁にはそれぞれ三・四つの扉が並び、いずれの表面にも、見慣れない図形や奇妙な文字――おそらく古代象形文字(ピクトグラフ)の類い――が黒々と描かれていた。クリッサが足を止めた突き当たりの扉の真上には、長くねじくれた角をもつ巨大な牡羊の首が掲げられており、その眼窩(がんか)に埋め込まれた紫色の玉(ぎょく)が、燭台の明かりを反射してぬらりと光った。
 扉が開かれたその正面にはマホガニィのテーブルが置かれていた。表面に描かれた三角形の魔法陣の中心に、一本の大きなろうそくが立っている。その正三角形の角の一つが指し示す方向――扉から見て正面の位置――に、アマリエが腰かけていた。すでにクリッサ言うところの“術”を通じて夢幻(トランス)状態にあるのか、先ほどの溌溂とした様子も意思の光は、その顔からはぬぐい去られていた。身体は椅子の上でわずかに横に傾き、焦点の合っていない瞳は彼ら三人の入室にも反応を見せない。
 クリッサは壁際に配置された質素な木椅子にツァランとイザクの二人を座らせた。自身はアマリエの正面に腰かける。それから彼女はテーブルの中央のろうそくの炎に、てっぺんの開いた球形の青硝子をかぶせかけた。
 瞬時にして、部屋一面が深い青色に染められる。
 後ろに上げていたレースのベールを顔の前に下ろし、クリッサは言った。
 「始めるわよ」





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