TRANGE RING ON THE GRASS.

2


 そうして二人は歩き続けた。
 すでに日は頭上高く昇っていたろうか――しかし二人が歩く森の中はむしろ先ほどより幾分暗く、湿った空気を漂わせているように感じられた。
 それも気のせいばかりではない。明るい樹肌の、色あざやかな紅葉を見せる木々の林をいつしか二人は通り過ぎていた。いま彼らが歩く獣道の上から覆いかぶさるように枝を伸ばすのは、暗褐色の細長い葉をこんもりと枝にたたえる木々である。秋といえども葉を落とすことのない、険しい木肌の常緑樹の群である。うっそうと茂って光を遮るその林に漂うのはけして禍々しい空気ではなく、森の湿気に感じられる生命の息吹はむしろ濃くなってすらいるようだ。それでも、鳥の声に満ち視界の明るい先ほどの林とはまた違った神秘的な空気が、梢も高くそびえ立つ木々のあいだには確かに漂っているのだった。
 「あら」
 そう言ってエーリーンが立ち止まったのは、彼ら二人が常緑樹の林に入って半刻も経とうかという頃だった。どこの異世界に思いを馳せていたのやら、しばらくの間話しかけてもうわの空の返事しか返してこなかった彼女の声に、デューラムはいぶかしげに振り返った。
 「……このへんにもあるんだわ。ちょっと大きいわね……避けて通りにくいわ」
 「何かあったか?」
 デューラムは背に負った籠の位置を正すとエーリーンに歩み寄った。……と、その足元に大きな茸を見つけ、思わず小さな口笛を吹く。「はあ、こいつは美味そうじゃないか」
 エーリーンは少しデューラムを見上げたが、ふたたび視線を下ろすとその場にしゃがみ込んだ。「これはねえ、でもちょっと厄介なのよ」
 「何が?」
 デューラムが聞き返すと、彼女は視線を前方にとどめたまま手を伸ばし、空中、斜め前方の地面のあたりに大きな円を描いてみせた。
 「そこに大きな円が見えるでしょ。少しだけ草や土が盛り上がったりしてる。この茸、その円の軌道から生えてるんだわ。ほら、あっちのはしにも、そこにも、いくつか生えているわ」
 言われてみればその通りだった。一本の大木の根元に生えたその茸から、彼女が手で描いた円のあたりをぐるりと目で辿れば、ごくかすか、言われなければわからない程度に地面が盛り上がって成した円が見える。直径二十フィート(注:六メートル強)ほどもあろうかというその大きな円の軌道上のそこかしこに、たしかに同じ形をした茸が、落ち葉のあいだからぽこりぽこりと焦げ茶の傘を覗かせていた。
 「こいつは面白いな」
 デューラムはエーリーンの隣にしゃがみこむと、手近の茸に被さっていた落ち葉を払いのけた。「しかし何が厄介なんだ。毒茸ってことか?」
 「そうねえ」エーリーンは小首をかしげた。「いえ、むしろやっかいなのは……この円ね、妖精が決闘だの舞踏だのをした跡地なんですって」
 ――またそっちの話か。
 デューラムは心中でやれやれと溜息をついた。だが、茸と円を凝視している隣の女はそんな彼の内心の呟きに気づくべくもなく、どこか楽しげな口調のままで言う。
 「森の外でもたまにあるのよ……ほら、草地でまあるく草が盛り上がって生えているのを見たことがなくて?」
 「ああ、あれか。おれの家の近くでもたまに見かけるが……、しかしあれ全部が妖精の決闘の跡なんだとしたら、毎晩毎晩うるさくって寝ていられないぜ。そんな騒ぎを聞いた覚えもないけどな」
 エーリーンはくすくす笑った。「あんたってばそりゃもう死んだみたく眠るんだから、ハルマゲドンで顔の上に世界が落ちてきたって目覚めやしないんじゃないの!」
 「眠れるときに眠っとくのがおれの流儀ってだけだ」デューラムはふんと鼻を鳴らした。「そのおかげで朝は気分爽快に目が醒める。おまえみたいに起きてるときまで夢の続きを見てたり世迷い事を言ってたりはしないんだ」
 「まあ、生意気なこと言うんだわ!」
 そう言うエーリーンの瞳は、だがむやみに楽しそうである。
 「それにしても嫌味ったらしくなったこと。あの魔法使いさんの口癖が移ってるんじゃなくて? ……まあいいわ、これね、本当はあんまり中を通り抜けちゃいけないの。こんな濃いリングで、りっぱな茸が生えてるようなのは特によ。どうしても通り抜けるっていうんなら……」と、片手をデューラムに向けて掲げて見せ、「……ほら、こうやって指を重ね合わせないといけないのよ」
 その手を見てデューラムは目を丸くした。それが奇々怪々な印を結んでいたからではない。むしろそれはよく見知った仕草だった。……中指を人差し指にかぶせる例のあれである。
 「いや、そのまじないはさすがにおれでも知ってる。賭けの時だの、子供が人をからかったりする時だのに使うやつだろ。なんだっけ、まじない文句は、えんがちょとか言わなかったか」
 「えん……? なんですって?」
 エーリーンは眉を寄せた。どうやら彼女の地域では知られていない呪文だったようである。「……まあ、気にしないんだったらいいけど、あたしはやっとくわ」
 デューラムは中指を人差し指にかぶせた自分の手を眉を寄せて眺め下ろした。どことなくノスタルジックな気分がしたが、それは故郷の近所のガキ大将の記憶であるとか、彼がそのガキ大将とぐるになって泣かせた少女の甘酸っぱい思い出だのであって、妖精がどう鬼がどうという異界の香りではまったくない。
 ――やってもやらなくても変わりないのなら、やっておくか。
 彼は小さく息を吐くと、生えていた茸を二・三本引っこ抜いて背中の籠に放り込んだ。そのまま「まじない」をするとエーリーンのあとを追う。
 「しかし、あのまじないをしなかったらどうなるって話なんだ?」
 円を通り抜けて、デューラムはエーリーンにそう尋ねる。
 「あたしも何が起こるかはよくは知らないの」
 エーリーンは指をほぐすと、歩きながら肩をすくめた。「でも、ああいう濃いリングは、変な場所につながってることがあるのですって」
 「変な場所?」
 「そう。たとえば、ああいうところでふっと消え失せちまった人が、何十年も経ってからひょっこりその時の姿のままで現れちゃったりするとか、でなけりゃ逆に、変な悪い小鬼が、そこを通り抜けた人間にくっついて来ちゃったりするのですって。だから、妖精の世界に引きずり込まれるのだとか、地下の世界につながってるのだとか、いろいろ言われるらしいのよ」
 「本当かあ?」デューラムは疑わしげに、「そんなに危険なものがおれんちの近くにすらゴロゴロしてるんなら、誰それがいなくなったって話をもっとしょっちゅう聞いてるはずだがなあ」
 そうねえ、とエーリーンは少し笑った。「実のところ、あたしもただの迷信だと思ってるの。妖精の舞台だって話もあれば、魔女が夜の会合で使うんだとか聞いたこともあるし、眉唾だわ……でも、ほら、この茸」
 彼女はそう言うと、いつのまに取っていたのか、先ほどの茸の一本をデューラムに掲げてみせた。茶色っぽい褐色の、縦に長く丸みを帯びたかさ。石突きが太く長い、大きめの茸である。
 「美味そうじゃないか」
 エーリーンはそれを聞くと、なにやらじっとりした笑いを浮かべた。コロンとした形状のその茸を手の中で転がす。
 「――おとぎ話だと、魔女が使った蟇蛙が、あやしい宴の後にその茸に座って、体から滲み出る毒を茸に塗りつけていくんですって」
 「じゃあこれ毒茸なのか?」
 「さあどうかしら」
 らちがあかない。デューラムはもう一度溜息をつくと、その茸についてはあとでイザクに詳細を尋ねようと心に決めた。彼らの酒飲み仲間のひとり、木こりのイザクが有している知識は、この娘の突拍子もないおとぎ話よりは概して実用的である。
 「しかしおれも夢みたいな話は嫌いじゃないが、あんまりそればっかり気にしてると食うもんも食えなくなるぜ。だからおまえはそんなガリガリなんじゃないのか」
 と、言ってしまってからデューラムはしまったと肩をすくめた。失言である。案の定、鋭い爪が伸びてきたかと思うとデューラムのむき出しになった二の腕のあたりをしたたかに抓りあげた。デューラムは痛ッと悲鳴をあげ、彼女の手を振り払った。
 見れば、抓られたあたりの皮膚が派手な赤色に染まっている。
 「悪かったよ」
 デューラムは恨みがましく言った。「だがさっきのまじないよりはその爪のほうが多分鬼にも効き目があるぜ」……じつに、たいそう痛かったのである。
 エーリーンはぎろりとデューラムを睨みつけ、手に持った籐の籠に茸を放り込んだ。
 「……そうね、迷信なのね、きっと。……だけども、さっき言ったでしょ。あたしは時々妖精じみたものが見えるもんだから、警戒することにしてるの。だからさっきみたいに指を重ねて厄よけをしてるのよ。だって何かしら変なことが起こったときに、ああ、おまじないをしなかったから鬼があの輪をくぐり抜けてくっついてきちゃったんだ、なんて後々思うのは嫌じゃなくって? おまじないをしてさえいれば鬼がついてきてるわけがないんですもの。そういう嫌ァな気持ちにはならなくて済むんだわ」
 そうして、エーリーンは眉を上げると、そうでしょ――と同意を誘うようにデューラムの顔を覗き込んだ。デューラムはその論理がどこかで転倒しているような気がして、歩きながらも眉を寄せた。
 まじないは確かに鬼よけのために行うのだろう。だが元をたどれば、変なことが起こるのを防ぐというのがまじないの目的ではないのか? だが、いまの彼女の話では、まじないをするにせよしないにせよ、いずれ変なことが起こるのは変わりがないかのようではないか。だとすればなんのためにまじないを行うというのだ。
 その時デューラムの思考は、その地点まで至っていたのである。だが、あまり突っ込むとまたこの気まぐれな同行者が機嫌を悪くするかもしれないと思い、それも面倒くさかったので、ただ曖昧に相づちを打っておいたのだ。――この女がよくわからないことを言うときは、適当にいなしておくのが吉というのを、しばらくの付き合いで学んでいたからである。
 それでも、このとき詳しい話を聞いておけば良かったのかもしれない、と後になってデューラムは思うのだった。そうすれば、帰りに彼がまじないを忘れることもなかったのかもしれない。そう、エーリーンのほうはといえば、帰りもたしかにその右手の指を重ね合わせていたのである。彼は彼女が指をもとの形に戻すのをその後ろ姿に確かに認め、そうして自分の気づかぬまに、ふたたび彼らが妖精の輪を通り抜けていたことを知ったのだった。
 そうして、――と彼はやはり後になって思うことになる。――もしも彼が彼女と同じようにまじないを行ってさえいたならば、その日の夜から彼がすさまじい騒音に悩まされることも、ひょっとして無かったのではないか? むろん、そう考える時点で彼は矛盾に矛盾を重ねて人を惑わすめくるめく妖精譚話のなかに巻き込まれていたのかもしれないが――それはすでにデューラムの認知するところのものでもなかったのである。





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