RINCESS ALZBETA.

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「アルジェベタ」



 小さなころ、隙間が怖かった。
 立てつけの悪い扉の、細く開いた隙間。
 誰かがきちんと閉めなかった木の戸棚の隙間。
 衣装箱や道具箱の、ずれた蓋。
 ぱっと全部開いてしまえばなんということもない。そこには何もない空間が広がっているばかり。でなければ古ぼけたマグだの皿だの古着だのが雑然と積み重なっているばかり。なのに、薄く切れ目が開いていると途端にそこに不安が生まれる。
 いくつも蝋燭やランプをつけて明るくしても、細く切れた闇の手前で光はたじろいでしまう。
 そして、その光の外からじっとこちらをうかがう暗闇がある。
 黙りこくってただじいっとこちらを見ている目が、隙間の闇にはいつもある。

 母さんもペトル兄さんも仕事で忙しい晩、ひとりで屋根裏部屋の寝台に横たわっているとき、ふと、わたしは閉じたはずの扉がうっすらと開いているのを見つける。
 誰なの、とわたしは尋ねる。
 ――誰かいるの。
 答えはない。
 ぞっとして、わたしは頭から毛布をかぶる。
 見てはいけない。見てはいけない。
 あんまり見ていると、今にきっとその隙間から真っ黒い髪の毛がざわりとはみだしてくる。その長い髪の毛の間からまん丸い白目がぎょろりと覗く。
 そうして、土気色の肌の、顔の半分ほどの大きさにまで目を見開いた鬼が。
 だらしなく開いた赤い唇で、音もなく何かをささやく鬼が。
 こちらを見つめているのに気づいてしまうだろう。
 そう考えると、いつも苦しい咳が止まらなくなった。
 隙間を見てはいけない。隙間を見てはいけない。
 あれは、悪いものを運んでくる鬼だ。

 兄さんに一度その鬼のことを話したことがある。わたしは七つだったか、八つだったか。
 ――鬼が出てくるよ、鬼が出てくるよ、だから一人にしないで。
 ――怖いよ、兄さん。
 兄さんは笑って、恐がりだなあアマリエ、と頭を撫でてくれた。
 ――アマリエを脅かすなんて、けしからん鬼だなあ。
 ――そいつが出たらおれが退治してやるよ。

 どこでそんな姿の鬼を知ったのだろう。
 村のほかの子供と一緒に、長老さまに見せてもらった絵物語だろうか。
 小さいころ、母さんがおとぎ話を語りがてらに描いてくれた絵だろうか。
 ああ、そうだ。きっとそうだ。
 ――おまえは明るい子だから、きっとすぐに体も良くなるんだから、だからよく眠らなきゃ駄目だよ。
 母さんはそう言って、一晩にひとつだけという約束で、昔はよくお話をしてくれたものだから。
 最後に母さんがお話をしてくれたのはいつだったろう。
 覚えていない。
 わたしの体はいつまでも治らずに、母さんの笑顔はどこかに行ってしまった。
 隙間の闇だけを残して。

 小さなころから、わたしは隙間が怖かった。
 三年前に記憶が蘇ってからも。
 その闇と不安は、消えてはくれなかった。 







 振りかぶった斧が勢いよく下ろされると同時に、軽快な音が春の空気の中に響いた。まっぷたつに割れた薪が切り株から傾き落ちる。男は斧を地面に軽く突き立てると、額にうっすら浮かんだ汗を腕でぬぐい、後ろを振り返った。「これで全部か」
 「そう」
 灰色のショールに身を包んだ中年の女が答える。齢にして五十ばかりだろうか。「ありがとうね、イザク」
 「どこに置く?」
 「その窓の下の日当りのいいところにでも置いといてちょうだいな」
 イザクと呼ばれた男が腕一杯に薪の束を抱え上げて日なたに移動させるのを見ながら、ショールの女は手にしていた紙包みを足下の大きな籠に押し込んだ。「ミルクと卵と……チーズも少し入れとくよ。今回のはかびがちょうどいい具合について、いい出来だわ。気温が良かったのかしらねえ」
 「助かる」
 イザクは女に向かって頷いてから、晴れ渡った空を見上げてまぶしさに目を細めた。雲ひとつない空をつがいの鳥が横切って、前方に広がる森の木々の梢へと消えて行く。
 大陸を北西からななめに横断する<竜の背>山脈の、その北東に位置するヘプタルク王国にもようやく春が訪れていた。王都にほど近い村・ここカリャンスクでは人々が種まきや畑の整備に精を出し、草むらでは真っ白の毛皮に包まれた生まれたての子羊たちが、母羊のまわりをはしゃいで跳ね回っていた。イザクが自分の住む森沿いの小屋からこの家に歩いてくる短い間にも、空気に満ちたすがすがしい生気の香りはふんだんに感じることができた。
 人づきあいのさして得意でないイザクがこうしてこの隣家を訪れるのは、大黒柱を早くに亡くしたこの家でちょっとした力仕事を手伝うためだった。家の息子ペトルは大した働き者なのだが、遠くの畑地で働いているがために留守がちだ。一度ペトルの留守中にたまたま近くを通りがかり、男手がなく困っている母親の手助けをしてからは、イザクはたびたびこの家を訪れるようになったのだった。やもめの母親ヴェラは牝牛一頭と何羽かの鶏を死んだ夫からささやかな財産として受け継いでいて、イザクが何かを手伝うたびにミルクや卵をわけてくれるのだった。
 「ありがとうねえ」
 ヴェラはもう一度言った。「わたしも最近は斧がめっきり重くなったし、アマリエはあんな体だからねえ。あの娘も気が強いのとおんなしくらい体も強かったら良かったんだけど、大きくなるにつれて頑固になって困るわ。去年より咳がひどくなった気がするし、せっかくいいものを食べさせても胸は良くならないのかねえ」
 イザクはあいまいに「ああ」と返した。「……ペトルの婚礼は?」
 そう尋ねると、長年の生活の疲労によって消えない皺が刻まれたヴェラの顔がわずかにほころんだ。
 「この秋だよ。相手も気だてのいい子で、牛や豚の世話も丁寧にする。わたしにも礼儀正しくて……よい相手を見つけたよ。……これでわたしも安心して死ねるってものなんだけど、アマリエだけが気がかりで」
 「アマリエは?」
 「いつものとおりさ。屋根裏部屋にいるよ」ヴェラは答えた。「……話をしていくかい?」
 ミルクや卵の入った籠をいったんヴェラに預けたイザクは、家の奥から屋根裏に続く簡素な階段を上った。突き当たりの木の扉をノックして、声をかける。「アマリエ?」
 「入って!」快活な声が答えた。「木こりさんね?」
 扉を開けると正面の天窓の雨戸は大きく開かれていて、そこから覗く澄んだ青空が薄暗い屋根裏部屋に彩りを与えていた。天窓の下の寝台に横たわっていた亜麻色の髪の娘が、イザクの姿を見て身体を起こした。
 「声が聞こえたから、きっと木こりさんだと思ったの……あらごめんなさい、こんな格好で!」
 娘はイザクに笑いかけながら、細く痩せた手を伸ばして近くの椅子にかかっていたショールを取り、荒地の麻の夜着の上にさっとまとった。「ね、今日はとってもいいお天気じゃない? さっきまで綺麗な揚羽蝶が窓のすぐそばを飛んでいたのよ……」
 そう言ってから娘は少し咳き込んだ。抑えられたその咳のなかに、胸の奥から発される喘ぎを聞き取って、イザクは渋面を浮かべた。
 「起き上がらなくていい。寝てろ、アマリエ」
 「あら、お客さんが来てるのに、そんなことできないわ。大丈夫、体を起こしてるだけなら寝てるのとそんなに変わりないのよ。いまのは勢いこんで喋りすぎて、むせちゃったの」とアマリエは二つ、三つ、咳払いをしてみせ、「昨日も街に行ったんですっけ? 夏のお祭りの準備はまだ始まってないのよね……」
 むせたと言いつつ止まることを知らないおしゃべりである。イザクは黙ってふところを探り、軽く握った拳を彼女に向かって突き出した。「土産だ」
 不思議そうに首を傾げたアマリエが差し出した手のひらに、何かが押し付けられる。アマリエは目を丸くした。
 「まあ、どうしたの、これ……」
 青白い手のひらの上に転がっていたのは、深い青地に白と薄桃色の精巧な模様が入った三・四の硝子玉だった。
 「とんぼ玉だ」
 イザクは寝台の横にあった椅子を引き寄せると腰掛けた。「仲間がたくさん手に入れたとかでな、分けてよこした」
 予期しなかった贈り物に表情を輝かせ、アマリエは微笑の片鱗もないイザクのしかめっ面を見上げた。「本当にこれ、もらっていいの?」
 イザクは肩をすくめた。「おれが持ってても仕方がない」
 「うれしい……紐を通して首飾りにするわ。本当にありがとう」
 と、礼を言ったところで、アマリエは口を押さえてまた激しく咳き込んだ。その様子に眉を寄せ、水を持ってくると言って席を立とうとしたイザクを彼女はおしとどめ、
 「大丈夫。すぐに収まるわ。少しそばにいて」
 イザクは躊躇するようにアマリエの顔と屋根裏部屋の扉とを見比べたが、彼女の咳がひととおり収まった様子を見て、ふたたび椅子に腰かけた。
 「……体の調子はどうだ」
 「あら、そんなに悪くないのよ」アマリエは肩をすくめた。「昨日も外に出て、裏の茂みでいちごを採っていたのよ。母さんはわたしが悪くなるってばかり言うけど、きっとそんなことを毎日聞いてるから、悪くなるような気がしちゃうんだと思うわ」
 そうか、とだけ答えてイザクはアマリエの顔を見た。その顔色はけっして良いとは言えない。体調が良ければ生き生きと魅力的に輝いているであろう茶色の目は、長い病のためにこけた頬の上で大きすぎるばかりに目立っている。赤みのない頬と額に落ちたほつれ毛が、娘の表情全体にうっすらと翳りを作りだしていた。
 「なあに、顔に何かついている?」と、アマリエはそんな自分の姿を知ってか知らずにか、にっこりと微笑んで、「ね、とんぼ玉のお礼にわたしの秘密を教えてあげましょうか」
 イザクは怪訝げに眉を上げた。「なんだ」
 「笑わないって約束してくれる? いえ、木こりさんだってきっと笑うわ。母さんにも兄さんにも言ったことがないの。誰も知らないわたしの秘密……」
 アマリエは少し間を置いた後、重大な秘密を打ち明けるかのごとくに、冗談めかして声をひそめた。
 「わたしはね、お姫様の生まれ変わりなのよ」
 イザクはほとんど表情を変えなかった。ただ片方の眉を少し動かしただけだった。
 「ほら、信じてない」と、アマリエは拗ねるような表情を見せた。「でも本当なんだから仕方ないわ。わたしだって三年前のあの日まで、そんなこと考えたこともなかったのよ。わたしはお姫様どころか、こんな村はずれのわら ぶき屋根で寝起きする娘ですもの。だけど……三年前のお誕生日に、突然思い出したの」
 アマリエは胸元のショールをたぐりよせた。頭上から響いた鳥の声に、少し天窓を見上げる。
 「……あのとき、わたしどこかからの帰りに気分が悪くなって、道沿いの大きな木の下で休んでいたの。しばらくぼんやりしていたら、どこからか鮮やかな赤い胸の鳥が飛んできたわ。ちっともあたしを怖がらないで、こんなに手の届く近くまで来て。こんにちは小鳥さんってわたしが言ったら、ぴゅいぴゅいって鳴いたわ。あんまり可愛いんで、わたし思わず手を伸ばしたの。
 その真っ赤なやわらかい首に、わたしが触れた瞬間だったわ。
 鳥が言ったの。
 アルジェベタ、って。
 高い声で確かにそうさえずったのよ。絶対に聞き間違いじゃないわ。綺麗な綺麗な澄んだ声で、はっきりひとつ、アルジェベタ! って叫んだの。
 あっという間にその鳥は飛んで行ってしまったわ。だけれど、そのときわたし思い出したの……まるで雨戸を開けた窓から突然明るい光が差し込んだみたいに、色んなことが突然見えて、戻ってきて、わかったの。
 アルジェベタってわたしのことよ。こうして母さんと兄さんのところにアマリエとして生まれてくるその前、ずうっと昔に、きっとわたしは別の名前で呼ばれていたことがあるんだわ。お姫様ってそのアルジェベタのことよ。そう、きっとどこかのお姫様だったにちがいないわ。だってあんなにりっぱなお城で、あんなに綺麗なドレスを着て、あんなにたくさんの召使いに囲まれて暮らしているんですもの。アルジェベタはお誕生日にもらった首飾りが大好きで、いつでも身につけてたわ。華奢な細工の首飾りで……」
 と、アマリエはそこで言葉を切ると目をまたたかせ、イザクの顔を見つめた。「あら、でも木こりさんがくれたとんぼ玉にはかなわないわ。わたしはこのとんぼ玉が好き!」
 にっこりと笑ったアマリエに、イザクは小声で「いや」と呟き返した。彼はいぶかしげに眉を寄せ、目の前の娘の口から次々と奇想天外な言葉が放たれるのを黙ってじっと聞いていた。そんなイザクの様子にアマリエは微笑して、
 「……ねえ、ここから少し東に行った高い丘の上に、古いお城の跡があるでしょう。あれがわたしの住んでいたお城よ。あのお城はいまでこそ半分崩れかけているみたいだけれど、昔は真っ白な壁をしてて、中は色とりどりの模様の壁紙と分厚い絨毯でどこもかしこも覆われてて、それはそれは綺麗だったのよ。
 知ってる? はだしの足でじゅうたんを踏むと、やわらかな毛が肌をくすぐって、ぎゅっと足がじゅうたんの中に沈むの。うちには暖炉の近くにひとつじゅうたんがあるだけで、それはまるで草の茎みたいに固いけど、本物のじゅうたんってそうじゃないの。寝台じゃなくて床でだって寝られそうなくらい……。わたし、そんな感触もみんな覚えてるのよ。
 わたしのお部屋はあのお城の三階にあったわ。アルジェベタは今のわたしと同じ、十八か十九で、……そうしていつだってお城の窓からヘプタルクの都を眺めているの。城壁のむこうのきらきらした湖を背景にして、……あれはお寺かしら……大きなお寺や王様のお城の塔が、影になって見えて、とってもきれいなの」
 湧き水がとめどなく溢れ出すかのごとく、うっとりとそう語ったアマリエは、そこでふと口をつぐんだ。細い首をかしげ、寝台の毛布に視線を下ろす。まっすぐに伸びた美しい色の、だが艶のない髪の毛が背から肩口に流れ落ちた。
 「だけど、少し気になるの」
 アマリエは声を落とした。
 「それ以来、よくいやな夢を見るの。その夢を見るたびに、わたしは汗びっしょりになって目を覚まして、くらくら目まいがするんだわ。そうして次の日にはきまってひどい発作がくるの」
 ふだんはめったに自分の前で弱音を吐かない娘の表情の変化を目の当たりにし、イザクはさらに眉を寄せた。
 「夢?」
 「どんな内容だか、よくは覚えていんだけど。ただ一面が赤と……黒で、とにかく息が苦しくて、手足や顔が痛くて、わたしはどこかに逃げようとしているんだけど、どこにも逃げられないの。だってどこもかしこも耳をつんざくような金切り声でいっぱいで、そうして、わたしは固く手足を縛られていて指一本も動かせないんだわ。
 最初はただ、ちらりと目のはしに赤いものが見える程度だったの。窓から見ていた夕焼けが、最後にぐにゃりと歪んだり……。でも、赤黒いものも恐ろしい叫び声も、痛さも苦しさも、だんだんひどくなってくるの。もう少しであれがみんな、わたしに届きそうなくらいに……」
 弱々しい語尾だった。アマリエは顔を上げてイザクを正面から見つめた。その瞳の奥で不安がかすかに揺れていた。
 「木こりさん」
 彼女は声を震わせた。「わたし、怖いの」





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