EIRD FOOTSTEPS.

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 それはごく小さな音だった。
 だからはじめは、なぜ目が覚めたのかわからなかったのだ。
 (真夜中だな)
 寝台の中で目を開けたデューラムは、ぼんやりした頭でそう思った。あたりはまだ真っ暗で、朝のきざしも見えてはいなかった。
 珍しい。
 夜中に目を覚ますことが、である。日中いつも体を動かしているデューラムにとって、一日の疲れは通常、深い睡眠をもたらすに十分足るものだった。作業を終え、ベーコンと卵と茹で野菜のささやかな夕食を終え、そして床についた後は、朝までぐっすり眠るのが常だった。
 鼓膜の片隅にかすかな音がひっかかっている。目覚める直前に聞いたもののような気がした。だが、それが夢の世界の音か現実の物音かすら定かではない。デューラムは深く考えることもなく、毛布を引っ張り上げてくるまりなおすと目を閉じた。心地よい睡眠は、すぐにまた彼を包み込むはずだった。
 そのとき、彼はまたその音を聞いたのだ。
 ごとんという小さな音だった。
 思わず目を開ける。
 確かに小さな音ではあった。が、ごく近く、まるで部屋の中で響いているように聞こえはしなかったか? かつ聞き慣れた音でもあるような……。そう、自分がさっきこの寝室を歩いたときにも響いた日常的な音。
 ごとん、ともう一つ。
 間違いない。足音だった。
 ごとん
 (なんだって? そんな馬鹿な)
 ――誰かいる。
 デューラムは横たわったまま目を見開き、正面の壁を見つめる。
 部屋の中に誰かいる。木靴か革靴を履いた何者かが部屋の真ん中あたりで歩き回っているのだ。眠気がすうっとひいていく。
 ――泥棒!
 考えるより早く体が動く。毛布をはねのけて瞬時に起きあがると、その怪人物に飛びかかって、
 ――いたはずだった。
 体は動かなかった。
 毛布を引き寄せくるまり直したその姿勢のまま、手も足も微動だにしなかった。
 どっと汗が噴き出る。
 おかしい、なぜ体が動かない。自分は半分眠っているのか? ……しかし、目はぱっちりと冴えている。思考もくっきりと冴えている。自分が寝ぼけているとは到底信じられなかった。しかし、首をねじって怪人物に顔を向けようとするも、やはり体はぴくりとも動かない――それも事実だった。
 (冗談じゃない)
 もしこのまま襲われたら? 
 抵抗のしようもない。相手が刃物を持っていたら一巻の終わりだ。 
 ――と、一つの考えが頭をよぎる。
 (もしかして)
 これは、もしかして、泥棒なんかではなく……、
 背後の足音は相変わらず続いている。小さなゆっくりとした足取りに、衣擦れの音が絡むのまでが聞こえた。しばらくするとその足音は寝台のほうへと歩み寄ってきた。その音を聴きながら、デューラムにはどうすることもできない。ただ目を見開き、壁があるとおぼしき暗闇を見つめるだけだ。
 (やめろ、来るな、来るな、来るな!)
 足音は彼の頭のすぐ後ろで止まった。
 そうして彼は深い溜息を聞いた。
 ああ……、という声がかすかに混じった、深く長い溜息だった。
 そこでデューラムの意識は途絶えている。


 次に目を開けた時には、のぼりかけの太陽がすでに丘の向こうから顔を覗かせており、薄白い光を窓越しに部屋の中に送り込んでいた。デューラムは飛び起きて部屋の中を見渡したが、誰もいなかった。寝間着のまま居間に飛び込み、戸口のかんぬきを調べ、家中の窓の錠を調べる。だが、どの錠も彼が前日の夕方に確認したように、しっかりと堅く閉ざされていた。ついで彼は自分のささやかな財産が納められている戸棚と木箱を調べた。だが、何も荒らされた様子はなかった。
 すべてを調べ終わった後、デューラムは困惑して椅子に座り込んだ。昨晩誰かが家の中に入り込んだ形跡は何ひとつとして発見できなかった。
 夢だったのだろうか、と彼は思う。
 (でも、あんなにはっきり音を聞いたのに。あんなにはっきり溜息をついていたのに!)
 しかし、体は確かに動かなかった。やはり寝ぼけていたのだろうか。
 考えられるのはそれだけだった。彼は混乱したまま溜息をついた。
 ――たぶん、いつもより疲れていたんだな。


 しかし、同じ足音はそれから十日間、一晩もあくことなく続いたのである。
 五日も経ったころには、デューラムはすっかり睡眠不足になっていた。





 ヘプタルクという国がある。
 大陸の中央を南北に縦断する《竜の背》山脈のすぐ西にある小さな王国だ。
 山脈の西に広がる《偉大なる帝国》の支配力は、その最盛期に比べれば大きく衰退したといえども、いまだに強大なものでありつづけていた。直接統治の手が山脈の東から完全に撤退してすでに二百年が経過していたが、山脈から大陸中央の大砂漠にいたるまでのほぼすべての国々は、事実上は帝国の属国だった。ヘプタルクはそうした中でもなお小さな部類に入る弱小国にすぎない。
 しかし、その政治的影響力の小ささとは裏腹に、ヘプタルクはその歴史の厚みと独自の文化風土によって、大陸に広く名を知られた国でもあった。ぐるりを分厚い要塞壁に囲まれたヘプタルクの王都はそう大きなものではなかったが、そこには文字通りありとあらゆる顔つきと骨格と肌の色の人間が暮らしていた。
 当代最高の富と文化を求めて東から帝国に向かおうとする野心家たち、ミステリアスな東の知を求めて逆に帝国からやってくる学者たち、そして南の共和国群から北の地を目指そうとする商人たち……。遠方を目指す旅人たちの多くは、山脈からほど近い距離にあるこのヘプタルクにて、装備を整えなおし、あるいは長い旅路のさなかのひとときの休息に身を委ねる。そんな者たちの一部が、この国の不思議な引力に取り込まれ、何故だかそのまま居ついてしまうのだ。ゆえにヘプタルクの都は、奇妙な異国情緒と混沌とがたゆたう場となっていた。多様な出自の人々が背負うおびただしい数の物語が、ごちゃごちゃと重なり合い、堆積しあって、市壁の中に一種異様な空気を作り出していたのである。
 長きにわたり遠方の人間を引きつけてきたヘプタルクには、珍しい物品や知識、芸術が多く持ち込まれてきた。のみならず、謎めいた慣習、奇怪な信仰、そして想像を超えた力をもつ不可思議な技(わざ)もまた、旅人とともに運ばれてきたのである。それらの伝統は、えたいの知れぬ無数の神々や妖の影を、ふとした拍子に映し出すのだった。家と家との壁の隙間に、石畳のその下に、あるいは狭い路地の奥の暗闇に、見なれぬ何かの湿った息吹を感じながら、ヘプタルクの住人たちは毎日を生きていたのである。

 デューラムもまた、数年前にヘプタルクの都を訪れた青年である。一応はヘプタルクの領土内にある、だがかなり遠方の村で生まれ育った彼は、はじめて訪れた都の内部の文化混淆の活気に完全に圧倒された。こんな匂いのする街が、こんな色の見える街が世界には存在するのだと、彼は背骨の髄まで感動したものである。
 ヘプタルクの都にたどりついたら、これまでは想像もできなかったような胸踊る冒険に出会えるだろう、毎日わくわくしてたまらない日々を送るのだ――旅路の途上にはぐくまれた彼の期待を、王都の刺激は裏切らなかった。しかし、なんの因果であろう。偶然めぐりあった人間たちに助けられたり、仲良くなったりしているうちに、気づけば彼は、市壁の外で野菜や小麦づくりの手伝いなどをして生活することになってしまっていたのだった。
 勝手知った生き方から完全に離れるというのは、彼のような青年にとっても、たやすいことではなかったのか? 否、たとえ麦を作り野菜を売る暮らしをしていようとも、なお不可思議な刺激に飢えることがない――ヘプタルクの都がそのような場であった、ということなのかもしれなかった。
 市壁から歩いて半日の距離にある村、カリャンスク。そこにデューラムの小さな住まいがあった。知人から小さな土地と小屋とを貸してもらい、畑のめんどうを見、山羊や驢馬の世話をし、時おり市壁の中を訪れては、あふるるふしぎに触れる――そうした日々を送るようになって、いつしか数年が経過していた。
 
 季節は春だった。土の手入れのために、そして野菜と麦の植え付けのために、やらなければならない作業は山のようにある。何日もろくに寝ない日々がつづくと、彼の仕事は滞るばかりだった。ある日には街で買ってくる種をまちがえて、今期の作物の計画を大幅に変えなくてはならなくなったし、その次の日には肥料のあわせを間違えて、かなりの量を台無しにしてしまった。
 デューラムは弱り切っていた。足音に恐怖すると同時にうんざりしてもいた。ある日、屋根の修理の途中で足を滑らせ、地面に転がり落ちそうになるに至って、彼はとうとう決心した。
 こうして一人で怯えていても仕方がない。
 そしてこういうときにできることは一つしかない。
 すなわち、憂さ晴らしである。


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