WON'T GIVE HER UP". その日に起きたことは、それがすべてだった。エーリーンがアルマのいぬ間に何をしていたのか、あの木板ととかげは何だったのか、何度聞いてもかんばしい答えは返ってこなかった。 ただあのときエーリーンがつぶやいていた異国の言葉が妙に耳に残って、アルマはその音を何度も反芻した。呪文のような、唄のような、だが確かにあれは誰かに話しかける言葉だった。 翌日、アルマが早めに店を閉めたあとに行きつけの酒場《まだらの竜》亭に行くと、見慣れた人影がすみのテーブルにいるのが目に入った。にぶい金髪の男で、何やら酒の大マグをそばに置いて書き物をしているようだ。友人の学士、ツァランである。エーリーンの口止めがちらっと頭をよぎったが、何か情報を得るとしたらチャンスだと思い、アルマはそちらに足を向けた。 「おやアルマ。今日は早いですね」 と、ツァランもこちらに気がついて、「この白麦酒(ビール)はうまいですよ、店の親父が南の商人から特別に仕入れたのだそうです。甘くないが、果実の皮が入っているとかで香りがさわやかだ。たぶん何か柑橘のたぐいでしょう。女性にも受けがいいのでは? ああ、しかしこんな台詞は偏見かもしれませんね、失敬」 相変わらずよくしゃべる男だ、とアルマはあきれた。どことなくかちんと来るのもいつも通りである。失敬と言っているのがよけいに失敬だった。アルマは中途半端に笑っただけで彼の挨拶は取りあわないことにした。向かいに腰かけながら尋ねてみる。 「ねえ、エーリーンって西の方の出身だったっけ?」 ツァランはちらりと彼女の顔を見た。 「そうですね。西の辺境らしい」 「帝国から来たのだと思っていたけど……あなたもそうですよね」 アルマは言った。この男もエーリーンも、ヘプタルクの西にある山脈を超えた向こうに広がる巨大帝国から来たのだったとアルマは記憶していた。 「そうですが、生まれ育った土地はずいぶん離れています。エーリーンの出身地は、帝国領ですが独特の文化で知られていて……。ずいぶん古くに帝国支配下に入った、と言うより、帝国がまだ諸王国だった時代に、その最も勢力の強い王国に侵略された土地です。だから帝国との関係はヘプタルクより長く、因縁深いですよ。あの地の出身者は蛮族と言われもしましたが、一方で、帝国の文芸文化を率いたような人物も数多く輩出しています」 「へえ。さすがに詳しい」 「彼女自身から詳しく聞いたわけではありませんがね」 ツァランは白麦酒を一口飲んで、「だが、書物でもよく言及されるのです。神秘的な景色があるとかで、精霊や妖物があちこちに息づいていると言われたりもする」 「ふうん」 アルマは感心した。この男はどうも軽薄で、その慇懃無礼なしゃべり口も合わせて不誠実な印象がある。だが、腐っても学士というべきか、その博識ぶりは見事なものである。何かを聞けば大抵は答えが返ってくる(ただし、その内容の真偽をアルマは判断できないのであったが)。 「ねえツァラン、もしかしてそこの言葉、わかりません?」 「言葉? 西の辺境の言葉ですか? いや、あれはなかなかやっかいで……帝国語とは完全に語族が違うのです。文法の構成がまったく違うし、共有されている語もほとんどありません。申し訳ないが、聞いただけでも半分もわかるかどうか」 「少しでもいいんだけど……ええとね、ニール、ニールってなんども繰り返してました。それから……」 アルマはできる限りエーリーンの言った通りの発音にしようと苦心しながら、あのとき彼女が呟いていた音を口にした。 ツァランはそのアルマの口元をじっと見た。「最初のNílは……『否』かな。あるいは『駄目』。しかし、知らない言葉の音を、よく覚えていますね。見事なものだ」 感心したようにツァランが言うので、アルマは少し照れた。 「いろんなところを旅してきたからカタコトを覚えるのだけは早くなったんです。やりとりできるくらいまで話せるようになるには、最初はとにかく、意味がわからなくても丸暗記しないといけないから」 「それができるのはある種の才能ですよ。ぼくはからきし駄目でね、頭で理解しないと話せるようにならないタイプですが、そういう人間の言語能力には限界がすぐ来ます。まあ、とりあえず、もう一回お願いします。どんな音でした?」 「えっと、最後に言ってたのが確か、……ティーク……チークかな、チーク・オーワ・ウェ」 「Téigh abhaile? 」 ツァランが聞き返す。彼の口から出てきたその文句は、少なくともアルマが今再現してみたものよりは、エーリーン本人の音に近いように思えた。 「それは多分、『帰れ』とか『戻れ』ですね。『来た場所に帰れ』」 「それと…」 アルマは何度かツァランに正されながらも必死にエーリーンのつぶやきを再現した。ツァランは眉を寄せて考えこみながら、あまり自信がなさそうに、 「おまえと一緒に行かせない……かな。彼女をおまえと一緒に行かせはしない……」 「……彼女を行かせはしない?」 アルマは眉を寄せた。 「彼女って、それ、誰のこと?」 「どうしてぼくにそんなことがわかるんです。本人にお聞きなさい」 ツァランはあきれたように言うと、うさん臭げにアルマを一瞥した。 「そもそも、どうしてその内容が気になるんですか。あなたに向かって話していたわけじゃないんでしょう。いや、いったいエーリーンは誰と話していたんです? 彼女は竪琴を弾きながら歌うときにはあの言葉を使うそうですが、ふだんの会話ではほとんど口にしない。少なくともぼくは聞いたことがありませんが。……同郷の知人なのかな」 誰と、と問われてアルマは思わず黙ってしまった。 あのとき、エーリーンが話していた相手は——あの、とかげしかいない。だが、とかげになぜ、そのような言葉を? 地下から上がってきて扉を開いたそのとき、エーリーンがさっと自分を見たことを思い出す。同時にあのとかげも、こちらに頭を向けていた。驚きと狼狽に満ちた、エーリーンのあの視線。とかげに向けられた口調の、あの激しさと鋭さ。 ——いいや、駄目だ。 ——彼女をおまえと一緒に行かせはしない。 ——もときた場所に帰れ。 否、と言って渡すのを拒否した『彼女』の代わりに、エーリーンは何かを差し出したのだろうか? ——あっと呻いてのけぞった、エーリーンの白い頤。 そこまで考えたとき、背筋をぞくっとうすら寒いものが走った。 だが次の瞬間、馬鹿馬鹿しい、とアルマは思い直す。 ——あのとかげがいったい何だというのだ。アルマがその気になれば踏み潰してしまえるような、ごく普通の、小さな生き物だったはず。 そうは思うのだったが、アルマは落ち着かない気分になった。エーリーンに対して呆れる気持ち、なぜか憤る気持ち、そして—— (いや、そもそもあのえたいの知れない木板で遊びだしたのはエーリーンなんだし……) だが、かすかな負い目の感覚が、ちくりと胸を刺したのだった。 「どうしたのです」 アルマははっと意識を目の前の相手に戻した。ツァランがじろじろこちらを見ている。不躾に観察するような視線に、アルマは身じろぎした。 「……二人で喧嘩にでも巻き込まれたので?」 「違うの。エーリーンが……、異国の言葉で書かれた本を読んでいたんです。口に出して。それが思わせ振りな調子だったから、気になって」 ツァランは片方の眉をあげると、テーブルの上で手を組んだ。「……本ですか。なるほどね」 まったく信じていないのを、あえて見せつけるような態度である。そのくせ、それ以上、今ここで追求してくることもない。アルマは居心地の悪さにため息をついた。そして身勝手な思いとは思いつつも、誰か別の友人が早く酒場に来てくれるよう、切に願った。 いずれにせよ、あのときのエーリーンの白い頤と、わずかに開いた唇の艶かしさにどきりとしてしまったアルマは、エーリーンと顔をあわせるのがなんとなくばつが悪いのだった。 (いや、ない、ない。たまたまだわ。もう2度とない……) そう彼女は思い込もうとした。しかし次にエーリーンと会ったとき、アルマはまともに視線を合わせることができず、「そっけない」「薄情だ」と愚痴られる羽目になるのだった。 例の木版は、いつの間にか店から消え失せていた。 エーリーンが持ち帰ったのか、あるいは雇い主のロバートが誰かに売ってしまったのか。その行方も由来も、はたしてわからないままである。 |