とかげ










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AGIC CIRCLE.






「あら、これ」
 友人エーリーンの声に、カウンタ奥の棚を整理していたアルマは振り返った。
 エーリーンが手にしていたのは、カウンタの隅に立てかけてあった木の板だった。大きめの本程度のサイズで、厚さは指一本分くらいだろうか。表面には、古くなって掠れたインクで、丸や三角や星型や、その他の図形がいくつも描かれている。ところどころに記号や文字も刻まれ、赤や青で色づけされているが、その色もずいぶん褪せていた。
 数日前、当のアルマもふとその木の板に目を留め、いったい何に使うのだろうとしげしげ眺めたところだった。その板がいつからそこにあったのか、アルマは記憶になかった。半年前にあったかと問われれば、なかった気もする。ではいつ、誰が持ってきたのだろう? どこかの客が売りにきたのだろうか?
 店主のロバートが出してきたという可能性もある。だが、店頭に置くものとしまっておくものとを整理して、カウンタ下や地下の倉庫にある古い箱から雑多な諸々を出し入れしているうちに、自分が何気なく取り出したと思えなくもないのだった。
 アルマが雇われ店番をしているこの《ロバートの道具屋》には、出所の知れない品々が山のようにある。とにかく物が多い店で、カウンタ近辺こそまあまあゆったりとくつろげるスペースが設けてあったが、それ以外の場所は足の踏み場もない。店内のぐるりの壁は、窓以外の部分にみっしりと棚が並ぶ。謎の大袋や椅子やテーブルがごちゃごちゃと置かれているし、それらの上にも品物が所狭しと並べられている。アルマもさすがに慣れたが、はじめて店に来た時には、空間内にあまりにモノが多くて窒息しそうになったものである。
 そうして置かれている商品のうち、錐だの金槌だの毛布だのの実用的な品々は、目立つところに置いておけば、そう時間がたたないうちに売れていく。しかし何の役に立つのかまったくわからない代物もたくさんある。不可思議な方向に手足の曲がる金色の目をした木人形や、灯りに透かすたびに色を変える硝子の玉……、アルマがここで働き出してから1年と少しになるが、その時からずっと陳列されたりしまいこまれたりを繰り返しているガラクタも、この店には数え切れないほどあった。
「ううん、何だろ」
 一昨日店にやってきた魔女見習いのクリッサは、その木の板を眺めつすがめつして言った。板に描いてある三角形だの星だのがクリッサの家で見た占い板にちょっと似ている気がしたから、アルマは彼女に聞いてみたのだ。これは何に使うか知っているか、と。
「随分古いものねえ。木も古びてるし、インクもかなり色褪せてるし」
 クリッサは眉間に軽く皺を寄せ、表面の図形を指でさらっとなぞった。木板には中央に大きな円が、その横にやや小さめの三角形が刻まれていて、その他いろいろな図形が円と三角形の内と外にも刻み込まれている。
「魔法円かな。でも見たことないなあ……《ソロモンの魔法円》に似てる気がするけど、中が六芒星だけじゃないし、配置も違うし……それとも《冥王の第6護符》に近いのかな? 書いてある言葉も、わたし読めないわ。普通、降魔術に使う文句は古典語とか北方文字で書かれているんだけど、単語が全然違うみたい」
 店で買ったばかりのホウキを片手にクリッサは色々とつぶやいていたが、いずれにせよアルマにはちんぷんかんぷんである。とりあえず、クリッサの知る魔術の作法に似ている何かだということだけはわかった。だとすれば、やはりまじないの道具なのだろうと、アルマはそんな風に思っていたのだった。
 今目の前にいるエーリーンも、やはりアルマの友人である。赤味の強い、長くゆるい巻き毛の竪琴弾きで、アルマより6、7つは年下だろう。男女かまわず誰にでも独特の馴れ馴れしさで接する娘で、アルマが年上なのを気にしているようにも見えない。だが最近アルマは、彼女がしょっちゅう《ロバートの道具屋》に来るのは、ひょっとして自分に対する甘えなのかもしれないなあ、とも思っているのだった。
 木板を手にとったエーリーンは、カウンタ前の高椅子(スツール)に腰を預けると、図形の各所を指でなぞりはじめた。
「それ知ってる、エーリーン?」
 アルマは聞いてみた。「ていうかそこの文字、読めるの? 何に使うかわからないんだけど、使い方書いてあったりする?」
 エーリーンは板を持ち上げると、鑑定するように裏や側面を見た。
「子どもがゲーム遊びに使う板よ。飴玉だとか綺麗な小石だとか、ちょっとした大事なものを賭けて遊ぶの」
「子どものおもちゃなの?」
 アルマは両肘をカウンタに乗せ、「けっこう凝って作られてるように見えるけど……。ちょっとまがまがしい雰囲気もあるよね」
「うん、これだいぶ本格的だわ」
 エーリーンは彫られている記号を読み解くような様子で、木板表面の図形の線をなぞりながら、「もしかしたら面白い遊びができるかも。ねえアルマ、ちょっとだけだから、これ使ってみていいかしら」
「え……。別にいいけど」
 アルマは面食らい、「何するの。ゲームってことはわたしも混じらなきゃならないのかな。片づけの仕事があるんだけど」
「うーん」エーリーンは大きな翠色の目を思案げに細めて唸った。「あたし一人のほうがいいかも。アルマ戻れなくなっちゃったら、まずいものね」
 その表情と口調にはからかうような調子があって、アルマはますます面食らった。「戻れなくなる」とはどういうことだ?
 よくわからないままアルマは「あ、そう」とつぶやくと肩をすくめた。「じゃあ、わたし地下に持っていくものがあるから、その木板で遊びながら待っててくれるかな。お客さん来たら声かけてね、下に」
「ええ」
 エーリーンはにんまりすると、スツールから降りて木板を床に置き、近くの椅子をどけた。「遊び」のためのスペースを作ったらしい。木板を床に置いて、その真正面に座り込み、またしても図形を指でなぞりだしている。
 ——何をやっているんだか。
 アルマは嘆息する。エーリーンが何を考えているのかわからないのはいつものことだ。彼女は物知りで、どうやら頭もいい。だが10歳前後の少女が住んでいるような現実半分空想半分の世界に、いまだ片足を突っ込んでいるふしがある。ときたまその世界の空想部分から、ぎょっとするようなモノだの物語だのを引きずりだしてくるので始末が悪いのだったが、まあ、あんな小さな木板で遊ぶくらいだったら害はないだろう。
 そう決めつけると、アルマは売れなかったガラクタの山が入った木箱を抱え、うずくまるエーリーンの脇をすり抜ける。そしてカウンタ横のドアを開けると、地下へと下る階段をえっちらおっちらと下りたのだった。


 それからしばらく、アルマは狭い地下室で、積み上げられた木箱をあちこちで開け、多少なりとも売り物になりそうな品を探した。中規模の卓上砂時計を2、3度ひっくり返すくらいの時間がたった後だったろうか、彼女は持って下りた中身分と同じだけの物品をようやく詰めこんで、やはりえっちらおっちらと階段を登った。そして最上段について、店に通じるドアの前に立った、その時のことである。
 声が聞こえた。
 エーリーンだ。ドアの向こうで何かぼそぼそ言っている。誰かと話をしているような雰囲気である。
 客が来ているのかと、アルマは眉を寄せた。声をかけてと言ったのに……。
 だが、違和感もあった。店に来た誰かと話しているにしては、声が低く、ドア越しにせよ内容が聞き取れないほどくぐもっている。独り言だろうか?
 そして相手の声も、ほとんど聞こえなかった。時折、キュッという高い音や、ヴーン、ヴーンと何かが回転するような鈍い音が聞こえる気もしたが、人の声とは思えなかったし、店内の何かが発する音かどうかすら、アルマにはわからなかった。往来から届く雑音かもしれない。
 アルマは膝と壁で木箱を支えると、がちゃりとドアを開いた。「エーリーン、誰か来たの?」
 その瞬間――ドアの向こうのエーリーンが、ばっとこちらに顔を向けた。彼女は先ほどと同じ体勢、つまり店の真ん中の床にしゃがみこんだ状態だったが、今は顔だけが横、つまりアルマの方を向いている。その大きな翠色の目は狼狽をたたえ、強くアルマを睨んでいた。
 そのエーリーンの正面、やや離れた場所の床に例の木板が置かれている。そして、そこに刻まれた円――クリッサが「魔法円」と呼んだもの――のちょうど真ん中に、

 何かがいた。

 ――とかげ?

 そう、それは一匹のとかげだった。
 ごく普通の大きさである。アルマが手のひらを広げた上に乗せれば、尻尾だけがはみ出るくらい……。ただその尻尾がかなり長い。全身は玉虫色がかった銀色で、背骨に当たる部分の上を、頭から尻尾まで一本の鮮やかな青色の線が走っているようだった。
 美しいとかげである。
 このとかげが逃げ出してしまうことを案じ、エーリーンは大きな音を立ててドアを開けた自分を睨みつけたのだろうか。アルマはとっさに首をすくめた。
 だが、とかげは逃げなかった。ゆっくりとアルマの方に頭を向けて、細い舌をちろちろと出した。アルマはぎくっとした。やや距離が離れているし、何より相手が小さな生き物だからはっきりとは見えなかったが、その両の目が一瞬、やけに人間めいているように思われたのだ。白目と瞳がはっきり分かれ、そして瞳にいわくいいがたい表情があった。
 とかげはゆっくりと首を前に戻し、エーリーンの方を向いた。エーリーンもやはり前方に——とかげの方に向き直る。その唇がわずかに震えているように見えた。
 ふと、妙な匂いが漂った。百合のような華やかさの中に卵のどろりとした水っぽさが漂う、どこか生き物の存在感がある不思議な匂いだった。先ほど気づかなかったが、エーリーンが何か新しい香でもつけているのかとアルマは訝しんだ。しかし香にしては生臭すぎる——
「エーリーン?」
 アルマは荷物を床に置くと友人の方に歩み寄りかけた。
 ——と、エーリーンがこちらを向かぬまま、さっと素早く手をあげて、アルマの歩みを制した。その表情は険しく、唇は一文字に引き結ばれ、目はとかげを睨みつけている。こちらを一瞥もしなかったが、その動作と彼女の表情には有無を言わせぬ強制力があった。アルマは身動きできずに足を止めた。
 そしてエーリーンの唇から、呪文のような言葉が漏れる。

 ——Níl, níl, ní féidir leat!
 ——Ní bheidh mé in iúl di dul in éineacht leat,
 ——Ní bheidh mé a thabhairt suas í!
 ——Níl, níl, ní féidir leat!
 ——Téigh abhaile,
 ——Dul abhaile anois!

 低い、小さな声だったが、何かを打ち破るような激しい口調だった。そこに響いていたのは、独特のトーンだった。怒り——否、命令——それも違う。警戒。そう、警戒と脅迫がないまぜになったようなトーン。
 その後にエーリーンはしばし無言になった。
 彼女が何を言っているのか、アルマにはさっぱりわからなかった。この国で普段使われている言語ではない。アルマはこれまで、ここヘプタルクより東にある多くの国を旅してきて、2、3の言語を最低限のやりとりができるくらいには学んでいる。だが、それらのどの言葉とも、音の抑揚がまったく違っていた。
 雲間から太陽が顔を出したのか、窓から斜めに差し込む午後の光がぐっと強くなって、跪いたエーリーンの濃緑のスカートに当たった。ところ狭しと置かれた品物の数々が、直線と曲線の交錯する濃い影を店内のあちこちに作り出す。その光のコントラストのために、アルマは一瞬、とかげの姿を見失った。真昼の強い光がその陰に作り出す深い闇の中に、木板もとかげも姿をひそめていた。
 ヴーン、ヴーンと、先ほど響いていた出所の知れない低い音が、また耳に入ってくる。それは音というよりは、空気が軋み、ねじれるような触感だった。けして騒音ではない、むしろかすかな空気の震えなのに、鼓膜を、そして目や唇の粘膜を、異物に直接こすられているような不快感があった。
 ふと、とかげのいる闇の中を見つめていたエーリーンが、ぱっと目を見開いた。唇を噛み、一瞬視線を下ろすと、確かに小さく頷く。
 とかげがぴくりと頭を動かし、長い尾を持ち上げた。ゆらり、ゆらりと左右に揺れる尾が陰の中で鈍色(にびいろ)に光る。口からちろちろと出たり入ったりする舌が、卑小で、それでいて淫靡だった。
 ——淫靡?
 ——とかげが?
 アルマは自身の感覚に困惑する。だが直感的にそう感じたのだ。エーリーンの方を向いて尻尾を揺らし、舌を出したり引っ込めたりしているとかげの動きは、不気味で、淫らだった。
 エーリーンが息を大きく吸って、長い時間をかけて吐く。吐きおわったところで、喉の奥で呻くような声が混じる。
 床についた彼女の拳の関節が白くなっていて、力が入っているのがわかる。エーリーンは何かに耐えるように唇を噛んでうつむいていた。
 アルマは呆けたようにその様子を見つめることができるだけだ。
 エーリーンは身じろぎし、唇をかすかに開くと、ふうっと息を漏らした。スカートの中で太腿をすり合わせるようにずらしてななめ座りになる。自分の胸を抱きかかえるように、左手で右手の肘をぎゅっとつかむ。
 そして彼女の息のリズムが少しずつ変化する。次第に早く。そして深く。時たま声が漏れ出そうになるが、その度にエーリーンはいやいやをするようにわずかに首を横に振って、その喘ぎを抑えようとし……。
 だが、程なくして彼女は限界に達した。ぶるっと身を震わせ、ああっと短い声を漏らすと、エーリーンは上半身をぐんと弓なりにそらした。
 日光の中に彼女の汗の玉がわずかに散るのが見えた。赤い巻き毛がざらりと揺れた。眉を寄せて目を閉じたその表情と、生白い首筋が描いた曲線に、一瞬アルマはどきりとした。


 と、次の瞬間、木板の上のとかげが目にも留まらぬ速さで走り出した。大きな八の字を描くように床をぐるりと走り回ると、とかげはあっという間に立ち並ぶ棚の隙間に入って行ってしまった。
 一瞬のことだった。
 とかげのいなくなった木の板は、ついさっきまでその上に張り詰めていた緊張が嘘のように、ただ古ぼけたみすぼらしい見かけで、床に転がっている。
 エーリーンは床に手をつき俯いていた。肩で息をしている。
「エーリーン」
 アルマはおそるおそる声をかけた。
 エーリーンがゆっくりとこちらを見る。瞳がちの目が潤んでいた。
「アルマ、大丈夫?」
 エーリーンの言葉に、アルマは再度面食らった。
「それはこっちが聞きたいんだけど……」とアルマは歯切れ悪く、「いまいったい、何してたの?」
 エーリーンはふうっと息を吐くと、前に落ちた髪の毛を肩の後ろに払った。
「……ゲームをしていただけ。でもちょっと悪戯が過ぎたわ……よくわからないもので遊びすぎるのって危険ね」
「悪戯?」
「なんでもない」
 エーリーンは目を伏せて、もう一つため息をついた。安堵のような、切なげなような、丸く湿ったため息だった。
「今の、とかげ……とかげでしょう? あれ、どこに行ったの?」
「『帰った』わ」
 気だるげに言うなり、エーリーンはずるりとくずおれて、両腕を投げ出すように体を床に横たえた。荒く深い息に合わせて胸が上下に揺れている。アルマは慌てて友人に駆け寄った。
「ちょっと、具合でも悪いの?」
 言いながら、彼女の細い上半身を抱き起こす。エーリーンはアルマの胸にぐったりと頭をもたせかけた。
「大丈夫。本当になんでもないの。——ねえアルマ、さっきのこと、みんなには内緒よ」
 アルマの腕の中で、エーリーンは囁いた。
「だってあれ、子どものゲームだわ。とかげと一緒に遊んだなんて、年甲斐もなくて恥ずかしいんだもの」





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