鬼屋敷 2

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REAT SHRIEKS.







 ……ぽたん、ぽたんと音がする。
 ……ぐらん、ぐらんと世界が回っている。
 ……隅の本棚がひっきりなしに近くなっては遠くなり……窓枠がぐにゃぐにゃ粘土のように歪む……すべての輪郭があいまいだ。カンテラの灯りがむやみにゆらゆら揺れるので……床もそれに合わせてうねり動くのだ……不安定でたまらない……
 天井が回転するのを止めるために、デューラムは懸命にテーブルの足を掴むのだが……テーブルそのものが滑るように自分から遠ざかってしまう……物がみなども横に向かって落ちていくのだ……
 ――酔っているんだ。
 デューラムはこみ上げる生唾を飲み下す。……仲間たちは? ひっくり返った人影が二つ……空になったどぶろくの瓶が……大きな足の横に転がって、……ダグラスの足だ。
 ――ここはどこだったっけ。
 ――床に寝転がれば壁も天井も動きを止めるだろう、
 ――そんなに飲んだのか、おれは。
 ……ぽたん、ぽたんと音がする。手探りで地面を探した手が、冷たい石を撫でているのを感じとる……背中がその平面に接していて……
 そうしてデューラムは、自分がとうに仰向けに横たわっていたことを思い出す。
 ……じくじくする胃液が喉と胸の間あたりで滞留し、舌の奥を灼いている。デューラムは大きく口を開け……舌を押し出すように空気を求め……
 まるで獣のようだ、とデューラムは思う。天井は真ん中の穴を軸にして回りつづけている。彼の横たわる床も、彼の臍を中心としてぐるんぐるんと動き回る……臍……そうだ、……天井の穴……
 ――なぜあんなところに穴が空いているんだっけ?
 ぴちゃんと顔に冷たい刺激があって、デューラムは眉を寄せた。頬を何かの水滴が流れ落ちていく感触……もうひとつ軽い刺激が口のすぐ横を叩き、耳の横を伝わって首の辺りを垂れていく……天井の穴から何か液体が滴っているのだ。それが下にあるデューラムの顔に当たっている……
 デューラムは体を横にずり寄せるようにして、その場から顔をのけた。……天井の穴は黒々と口を開けている。そしてその穴から、
 ――何かがのぞいている。
 カンテラの光がちらちらとまたたく。……神経を逆向きに引っ掻き上げるような、いらいらさせる光だ。……うわんうわんと動く視界を定めてきちんと天井を見据えようと、デューラムは目を細めた。……たしかに何かがこちらをのぞいているような気が、……
 ずるりと穴から何かが垂れ下がった。
 やわらかく、細く長く揺れる、……髪の毛だ。
 ――マーヤ?
 ――なんでそんなところにいるんだ。
 乾いて唇に貼りつく舌を湿らせて、デューラムは隣家に住む娘の名を呼ぼうとする。
 ……顔は見えない。見えないが、マーヤとわかるのだ……カンテラの光を橙色に照り返す丸い肩のつややかな曲線……首や腕に巻き付いた、かすかに波打つ美しい色の髪……細く、だがやわらかそうな二本の腕。穴のふちに手がかかり、闇の奥から体がずるずる引き出される……その胴はしなやかに長く……長く……伸びて……ふくよかな胸のふくらみが暗闇の中でねっとりと光るのが……
 ――近づいてくる。
 両手の十本の指をまっすぐに開いてこちらへ伸ばし……まだ下半身は穴の向こうだ。まるで蛇のような……。茶色の髪を天井いっぱいに伸ばし……やわらかな体で……もう、すぐそこで彼を求めている……腕の内側のきめこまかい皮膚が彼の顔を包み、震える声が耳元で何かをささやいている……なんと言っている? 湿った息が、何かをささやいている……
 デューラムの首に巻き付いた裸の腕にきゅっと力がこもる……やわらかな双丘が胸に押し付けられる心地よい圧迫感……デューラムは娘の細腕をやさしくゆるめると……手を伸ばし、彼女の顔を覆い隠している前髪をやさしく横に払いのけ、……

 瞬間、冷水を浴びせられたように、酩酊感のすべてが消滅した。
 デューラムは目を見開いて、息も触れんばかりの距離にあるその黄色い顔を凝視した。そう、しなやかな髪に隠されていたその顔は、「たんぽぽみたいに」鮮やかな黄色だった。だが彼を凍り付かせたのはその色ではない。その顔は口もなければ鼻もないのっぺらぼうで、半熟卵のようにやわらかい剥き出しの皮膚が、彼の指の感触にひくひくと応えている。ただ真ん中、左右に二つ、閉じられた両目だけが――
 ――太い針金で両のまぶたをびっしりと縫い合わされた両目だけが。
 デューラムは叫んだ。目の前の顔を突き飛ばし、横たわった体を跳ね上がらせるようにしてその場を飛び退く。転がるように部屋の隅に移動してから、さっと顔をあげ、「それ」がどこにいるのかを――

 カンテラの灯りがちらちらとまたたいている。
 がらんとして薄暗い部屋の中が目に入る。
 デューラムは唖然としてあたりを見回した。――さっきの「あれ」はどこに行ったのだ?
 夢などではないはずだった。しなやかな腕の感触が、あのささやきの濡れた息の感触が、まだ耳に鮮明に残っている。
 それでも、部屋の中には何もいないのだった。二人の仲間が酔いつぶれてむしろの上に転がっているのが見えるばかりである。空になったどぶろくの瓶の横で、ピューターの杯が三つ転がっている。ダグラスが低い唸り声をあげて寝返りを打った。
 ――夢だったのか。
 デューラムは長い息をついて、額から流れ落ちた汗をぬぐった。どっかりと床に座り込み、背中を壁に預けると、濡れた衣服がひんやりと背中にはりついた。全身にびっしょり汗をかいていたのだ。
 考えてみれば、とデューラムは苦笑した。――化け物屋敷の天井の穴からさかさまに手を突き出してくる女などが、マーヤであるわけがない。蛇のように体を伸ばして彼にすり寄ってくる「あれ」をなんの疑問もなく隣家の娘と判断しているあたり、自分が完全に夢の中にいたことがわかる。
 おそらく、先ほど酒を飲みながら聞いた話が記憶の中でいろいろと歪んで、あんな夢を作り上げたのだろう。そういえば、この鬼屋敷の数ある噂のひとつとして、天井の穴からこちらを盗み見る黄色の化け物の話を、ダグラスが口にしていたではないか。
 それにしても、あの化け物が耳元で何をささやいていたのかが、デューラムは妙に気になった。たしか同じ言葉を何度も何度もくりかえしていたような気がする。「に」で始まる単語だった、そんな気がする。だがその先がどうしても思い出せない。夢の中のことだから、たいして意味もない台詞のはずと彼は自分に言い聞かせ、化け物の姿を頭の隅に追い払った。
 ――そういえば、いまはどのくらいの時間なのだろう。
 奇怪な現象は二の刻(注:深夜三時ごろ)に起こると、ダグラスはそう言っていた。そう長く寝込んだ気はしないが、夜もすっかり更けたようだし、ひょっとしてすでに二の刻を過ぎているのではないか。もしかすると、自分の見た悪夢こそが、鬼屋敷の怪奇現象なのかもしれない。ここに泊まり込んだ人間は、誰もが夜中に悪夢を見る。そんな話なのではないか。
 そう思案しながら、額からもう一筋流れ落ちてきた汗を手のひらでぬぐう。その手になんとはなしに目をやって、デューラムはぎょっとした。
 真っ赤だった。
 顔を流れた汗が、どす黒い赤色なのだ。否――汗が流し落とした何か、すなわち顔に付着していた何かが、
 ――血のように赤いのだ。
 ぽたん、ぽたんという音がデューラムの鼓膜に蘇る。
 ……水滴が……天井の穴から滴って……ぴちゃりと音……冷たい感触が……耳の横を流れ……
 だが、あれは夢のなかの音のはずだ。
 では、彼の顔を汚している、この液体はなんなのか?  どす黒く染まった手が震える。記憶の中のささやき声が耳朶を甘噛みするように耳元で呟きつづける……何を? 「に」で始まる……何を……、


 「……贄(にえ)だ……贄だ……贄だ……贄だ……贄だ……贄だ……」


 同時に――その言葉が蘇った瞬間に、甚大な恐怖が足の先から脊柱を這い上がってきた。今すぐにこの場所を離れなくてはならないと、デューラムは悟った。これから何かが起こるという、はっきりした理性の知覚などではない。鳥肌などという生易しいものでもなかった。それは、表皮と内蔵の表裏が口の部分からひっくり返るような、猛烈な吐き気だった。肉が、肌が、「この場所」を全身で拒否しているのだ。手足がひきつけを起こしたようにびくびくと緊張する。それを無理矢理押さえ込んで、デューラムは仲間の体に飛びついた。
 「ダグラス! ダグラス!」
 押しても引いてもびくともしない、酒のせいでぐっすりと深い眠りに入っている巨体を揺らして、彼は叫んだ。「起きろ、今すぐここから出るんだ……起きろと言ってるだろ、聞こえないのか!」
 反応する様子もない大男の様子に、とうとうしびれを切らしたデューラムは、その横腹を思い切り蹴りつけた。ぐうとダグラスが唸り、海老のように体を折り曲げて、二度、三度咳き込む。ぎょろりとまぶたが開いて、血走ったまなこがデューラムを睨みつける。「おまえ、デューラム、何をしやがる……覚えてろよ」
 「あとで百発でも殴られてやる!」デューラムはわめいた。「早く立て! この部屋を出るんだ、今すぐに!」
 ダグラスがのろのろと体を起こす。「なんだってんだ? おまえ突然……気でも違ったのか」
 「そうだよ!」怒鳴り返して、デューラムは部屋の扉を乱暴に開けると、呆然とした様子で立ち上がったダグラスの体を部屋の外に押し出した。それが済むなり、今度はツァランの体に飛びつく。こちらはダグラスよりはるかに厄介だ。一度眠り込んだら、日が空高く登るまで、めったなことでは目をさまさない。案の定、ゆすっても名を呼んでもびくともしない。
 そのときである。窓の外の夜の中から寺院の鐘の音が聞こえてきて、デューラムは凍りついた。何重にも反響する、聞き慣れた短いメロディ。それが終わったあとに、ごおん、ごおんと時報の鐘が響いて、時を知らせるのだ。寺院の鐘は、夜のあいだに三回しか鳴らない。夜の祈りの時刻を告げる晩課の鐘と、深夜と、刻二つである。晩課の鐘と深夜の鐘はもう鳴った。だとすれば、時報の鐘は二つ鳴るはずだ。刻二つを知らせるために。
 それが鳴り終わるまでに、この部屋を出なくてはならないのだ。
 涙があふれ出てくる。――嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。ここから離れたい、離れたい、離れたい、離れたい、だが間に合わない。
 間に合わない。
 デューラムは目をさます様子のないツァランの腕を掴み、彼を肩に担ぎ上げた。そのまま扉まで引きずって連れていく。
 メロディを奏でる鐘がやむ。ごおんとひとつ時を告げる鐘が鳴り響いた。……ツァランの靴が戸口にひっかかる。デューラムは半狂乱でその足を蹴りつけ、部屋の外に出した。
 「なんだ、なんだって言うんだ」ツァランが目を覚ましてうめいた。デューラムはそれには答えず、彼の体をさらに引きずった後、廊下の床に放り投げた。ダグラスが阿呆のように目を丸くして突っ立っているのも無視し、デューラムはきびすを返し、部屋の入り口へと戻ろうとした。
 ――扉を、
 ――扉を閉めないと。
 そのとき、二つ目の鐘が鳴り響いた。
 デューラムは部屋まであと三歩という場所で、立ちすくんだ。朝や昼間の鐘よりもずっと控えめの音が、夜の静けさの中を伝わってゆく。荘厳で澄んだ音が、まっすぐに尾をひいて流れてゆき――
 その最後の余韻が闇の中に消えた。
 同時に、開いたままの扉の中でちらついていたカンテラの灯りが、最後のまたたきの後にふっと消えた。
 沈黙。
 そして、闇。
 “うなり”――
 そう、おそらく“うなり”だった。その場に凍りついた三人の耳に最初に届いたのは、低い、低い、耳鳴りのような“うなり”――。あまりに低音であるがために人の耳ではとらえられないような、その空気の震えは、しかし次第にその振動を上げて「音」となり……地の底から……どんどん高く……高く……
 否、ただの音ではなかった。金属的で、人間離れこそしていたものの、床の下から聞こえてくるそれは金切り声だった。長い長い女の悲鳴が静寂を引き裂いて、地の底深くから駆け上って来るのだ。まっすぐに、こちらに向かって、
 あの<穴>の底から。
 どんどん大きくなるその金切り声に、別な音が混じり出す。やはり甲高く、耳障りで悲鳴じみた、……だが今度のそれは人間のものですらない。獣だ。獣の断末魔だ。まるで豚を何頭も同時に縊り殺すときの叫びのような――
 どおん、と鼓膜を破らんばかりの轟音があった。建物全体が大きくぐらぐらと揺れる。そしてもうひとつ、轟音。たまらず、デューラムはその場に倒れ込んだ。振動でぱらぱらと壁土が廊下の床にこぼれ落ち、首や頭に降りかかる。<穴>の部屋は廊下の横側に位置していたから、いまは角度の都合で、廊下にいる三人に部屋の中の様子はうかがえない。何が起こっているのかはわからなかった。ただ、デューラムは揺れる床を必死で掻いた。少しでも部屋から遠くへ這って逃れたい、その一心だった。女と獣の金切り声は、すでに人の聴覚がまともにとらえうる領域をとっくに超えている。まるで途切れなく続く断末魔を頭蓋の中に直接、流し込まれているようで、耳の奥が破裂しそうだ。すでに嘔吐感は耐えがたく、飲み込んでも飲み込んでも胃液が口の中に逆流してくる。振動がひどい。家がいまにも崩れそうだ――
 そして、すべてはあの<穴>を這い登ってきているのだ。
 ひときわ激しい衝撃が床を下から打ち据えた。同時に扉の向こうで、何かが穴から飛び出す気配があった。重く濡れたものが大量に、下から上に向かって一気に叩き付けられたような音――いちじるしく巨大な生物の“はらわた”を小さすぎる穴から無理矢理絞り出したような、不快きわまりない音。一瞬、デューラムの視界が黒く染まる。部屋中にぶちまけられたその「何か」の一部が、開け放しになっていた部屋の扉から廊下に向かって飛び散ったのだ。「それ」は彼の目の前を横切り、びしゃっと音を立てて向かいの壁にはりついた。そのごくわずかな飛沫が、腰を抜かしていた彼の、シャツの袖をまくった腕に飛んだ。
 若い女と獣の金切り声はそこで頂点を迎え――そして、まっすぐ上へと駈け抜けていった。床下はるか深くから接近してきて、<悪魔の穴>からひり出されたその「何か」は、そのまま部屋を通りすぎ、天井の穴から抜けていったのである。わんわんと頭蓋の中を反響する悲鳴がしだいに薄くなり――やがて、すすり泣くように遠ざかっていった。
 気づけば、いつしか家を揺らす轟音もどこかに消えている。
 闇の中、ふたたび静寂が戻っていた。
 ただその場にいる三人の人間たちの、殺そうとして殺しきれない息の音が断続的に漏れ聞こえるばかりだ。
 そのまま、どのくらいの時間を身動きもせず過ごしたのか、デューラムにはわからない。ずいぶんと長かったような気がする。ふうーっとツァランが息をついたのに誘われて、彼も詰めていた息を漏らした。そのまま声もなく床を這って、体を壁際にもたれかけさせる。目をつむって深く吐いた息は、血の味がした。
 床にしりもちをついていたダグラスがうめいた。
 「冥府の主ハデスの名にかけて、くそったれ、なんだったんだ今のは?」
 「知るか」デューラムはかすれた声で答えた。「悪魔なんだろ?」
 どこかで猫の鳴く声がした。家のすぐ外ではない。もっと遠くだ。二度、三度甘ったるい声をあげると、そのままどこかに去って行ったようで、その後はもう聞こえなかった。だがその声は、彼ら三人が奇異なる世界からいつもの街にようやく帰ってきた証のような気がして、デューラムを安堵させた。
 ツァランがだるそうに体を起こす。そのまま、彼は暗がりの中、何かを手探りで探しているようだった。しばしあって、かちん、かちんと火打石の音がして、灯りがともる。あたりに転がっていた木片を無理矢理たいまつにしたと見え、湿っていたらしいその木片はぶすぶすと煙を吐いた。
 「見てみるか」とツァランは言った。
 正直な話、あの穴の部屋など見るのも嫌だった。だが、見なくては気持ちがおさまらないような気もした。不思議と、危険がまだ潜んでいる気はしなかった。「あれ」はもう完全に去ってしまった後だった。
 たいまつの光で部屋の中を照らし出した三人は、呆然とその入り口に立ち尽くした。先ほどの奇怪な音、部屋を一気に通り抜けていった、あの重い音が想像させたのと寸分違わぬ光景が、そこには広がっていた。すなわち、部屋一面に真っ赤な液体がぶちまけられていたのだ。床と天井の二つの穴から放射線状に広がった血痕は、隅の本棚も、テーブルも椅子も、どす黒い赤色に染め上げていた。どろりと灯りを照り返す血の"しみ"のところどころには肉片のようなものまで散らばっている。あたりには、むせ返るような生ぐさい臭いが立ちこめていて、気分を悪くさせた。
 刻二つはとうに過ぎていたから、朝ももう遠くなかった。それでも夜明けまでこの建物で過ごす気にはなれなかった。三人は来た時と同じように、戸板の半分はずれた入り口をくぐり抜けて外に出た。外はまだ真っ暗で、繁華街からも距離のある街並は、ひっそりと静まり返っていた。
 「それじゃあ、あの血は明日にはきれいさっぱり消えてるってわけなんだな」夜道を歩きながら、デューラムは鬱々と言った。
 「悪かったよ」と、ダグラスは珍しいほど萎縮して、歯切れ悪く言った。「だがなあ、おれが聞いた話じゃ、悪魔が通り過ぎる日ってのは今日じゃなかったはずなんだ」
 「いや」とツァランが呟く。「今日だったのさ。いま気づいた」
 デューラムは立ち止まってツァランの顔を見た。「どういうことだ?」
 ツァランはちらりとデューラムの顔を見返すと、ぎゅっと目をつむり、拭うように自分の顔を撫でた。「説明しただろう、この国の歴史において、暦は一度変わっている。だがぼくも――考えもしなかった。ダグラス、おまえの話によると、あの穴は五十年前かそこらにできたものだということだったからな」
 「おまえ、つまり……」デューラムは唇を舐めた。「そうか。ズレたのか」
 「そうだ」と言って、ツァランは溜息をついた。「五・六百年前に古代暦が現在の帝国暦になるとき、日付も十日前後、前倒しになったのさ。……ダグラス、おまえの聞いた悪魔の話はな、五十年前の逸話などではないんだ。おそらく何百年も前から連綿と語り継がれた伝承が形を変えたものなんだ……。あの家のあの部屋で『何か』が起きたのは――そしてあの穴が開いたのは、改暦前のことなのだろう。つまり、少なくとも五百年は昔なんだ……。そして三の月の最初の安息日は、旧暦だと――今日になる」








 その後、デューラムの腕に飛び散った飛沫は洗っても洗っても完全には落ちず、腐臭を長く漂わせて、彼を悩ませた。幸いなことに、顔にこびりついていた血痕はすぐに落ちた。だが、その後彼の腕は何かにかぶれ、ぐずぐずに化膿して、何ヶ月も治らなかった。まわりの人間はみな、草の汁にかぶれただけだと言った。だがデューラムには、あの日<鬼屋敷>を通り過ぎていった何かと関連があるような気がしてならないのだった。
 以後、デューラムは二度とあの家には行っていない。





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