鬼屋敷












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TORY OF AN UNFOTUNATE PAINTER.







 その家はヘプタルク王国の都のはずれの、街壁にほど近い一角にあった。ごみごみした下町の建物と、そこそこ安定した生活を送る町民の家々とが、大通りをはさんで向かい合う、ちょうどその境界、ぎりぎり下町の側である。だが、近隣の建物からたった五十ヤード(注:四十五・六メートル)ほど距離を置いているだけなのに、その建物はあきらかに周囲から隔絶された雰囲気を漂わせていた。それはおそらく、奇妙なつくりのせいもあったろう。ずんぐりと背が低く、丸っこい屋根をしており、壁や屋根のところどころに見なれない図形が刻まれている。窓の形も妙だ。似たような設計の建物が数十軒建ち並ぶ住居群のはしっこで、異国風(エキゾチック)なその家の風貌は目をひいた。そしてそのエキゾチズムは、どことなく陰鬱でもあった。ほかの建物より暗い色の石で立てられているせいだろうかと、家の前に立ったデューラムは思案した。
 「入るぞ」とダグラスが言った。
 石壁にはめ込まれた正面の木の扉は、もう扉としての用途を果たしていなかった。下半分が完全に朽ちて空洞となった部分には、ぞんざいに木の板が打ち付けられていて、侵入者を拒むそぶりだけを見せていたものの、ダグラスが少し力を込めると、釘はあっさりとはずれてしまった。巨体をかがめて扉の下半分から建物の中に入ったダグラスに、彼の相棒のツァラン、そしてデューラムも続いた。
 カンテラの灯りがともる。屋敷の中の空気はかびくさく、湿っていた。彼ら三人が立っている場所は形だけの小さな踊り場で、正面に朽ちかけた階段があった。その横には部屋らしきものにつながる出入り口があったが、扉もどこかに失われており、中にがらくたが転がっているのが暗闇の中ぼんやりと見える。
 「ぼろぼろだな」とダグラスが言った。「だがお目当てはそっちじゃない。一階の奥だってこった」
 三人は階段を左手に通り過ぎて、狭い廊下を歩いた。途中で扉のない出入り口を行き過ぎたが、ちらりと目をやったその室内はがらんとして何もなく、毛布やごみが雑然とちらかっているだけだった。家をもたない者たちが一晩夜露をしのいだことでもあったのだろうか。
 「こっちだ」とダグラスが奥で呼ぶ。
 急ぎ足で追いつくと、ダグラスは廊下の行き止まりに立っていた。彼の右側には閉ざされた扉がある。金属製のドアノブは錆びつき、扉本体の塗装もはげ、木のささくれが露出している。
 「これがその部屋か?」
 ツァランの声に、ノブに手をかけていたダグラスは頷いた。
 「そうだ。ここに悪魔が出るんだとさ」
 悪魔の出る部屋。それを見るために、デューラムら三人も今晩この廃屋を訪れたのだ。それは用心棒として日銭を稼ぐダグラスが、仕事仲間に聞いてきた怪談だった。<鬼屋敷>と呼ばれるこの家にはもう何十年も誰も住んだことがない。だが、なぜか取り壊される事もなく、町外れにぽつんと立ちつづけている。その家の一室で夜な夜な起こる奇怪な出来事のために、誰もがこの家に関与する事を恐れ、避けているのだという。
 「奇怪な出来事ってなんだ」と、いつものように酒場でエールを飲みながら話を聞いていたデューラムは、そのとき尋ねたものである。
 聞かれたダグラスは肩をすくめた。「そいつを確かめてみるってわけさ。もちろん、来るだろ?」
 デューラムは唸って腕を組んだ。彼のつるみ仲間であるこのダグラスと、その相棒であるちんぴら学士ツァランの二人組は日々の刺激に貪欲だ。年がら年中、賭け事だの肝試しだの飲み比べだの、いろいろとよからぬものに首をつっこんでは、色々と楽しんだり痛い目に遭ったりしている。そんな二人の所行にデューラムはいつも呆れ返っていたわけだが、彼本人とて、根は冒険好きである。悪魔が出ると噂される廃屋の探検――気味が悪くないといえば、嘘になるけれども、そのスリルはどことなく扇情的だった。結局、デューラムは半ばやけぱっちに答えたのだった。「上等だ」


 ……扉はぎいぎい軋み音を立てながら開いた。カンテラの灯りに照らし出された部屋の中はやはりがらんとしていたが、まだ形状をとどめた揺り椅子だの、小さなテーブルと椅子だのがかろうじて残っているのが見えた。隅に置かれた本棚には、古ぼけた本や置物さえ置かれていた。数十年放っておかれた廃屋にある一室としては、人の生活のなごりをとどめている。
 部屋の中に入ってみたデューラムは、部屋の中心あたりで立ち止まって、眉を寄せた。
 「なんだ、それは」
 後ろでツァランが言った。同じものに目を止めたのだろう。
 穴だ。床の真ん中に――ぽっかりと、丸い大きな穴が口を開けている。直径にして3フィート(注:1メートル弱)ほどあったろうか。屋内の石造りの床に自然にできるようなしろものではない。
 まるでコンパスを使って綺麗にくりぬいたように、完全な円を描いたその穴の中は、ただただ真っ暗だった。カンテラの光も底に届いていない。
 「……おい。天井にもあるぞ」
 言って、ツァランが灯りを持ち上げる。つられて見上げると、天井のまったく同じ箇所に、やはりまったく同じような穴が口を開いているのが見えた。
 完全な円を描いた大きな穴。
 ひゅうとダグラスが口笛を吹く。「まさかと思ってたが、本気でありやがった……。これが鬼屋敷の一番の謎さ。<悪魔の穴>と呼ばれてる。落ちないように気をつけろよ」
 「地獄までそのまま落っこちるってか」
 「さあな。そうかもしれん」
 デューラムはごくりと唾を飲んだ。たしかに異様だ。これは誰かが――あるいは、何かが――意図的に開けた穴だ。
 だが、なんの目的で?
 デューラムは穴の近くにしゃがみこんで、近くに転がっていた木の破片を中に放り投げてみた。ぽっかりと開いた黒い口の中に、木のかけらは音も立てずに吸い込まれていく。
 そのまま、デューラムは木片が底にぶつかる音を待った。だが、いつまでたっても何の音も聞こえてはこなかった。
 ――いったいどれだけ深いのか。
 「この屋敷の話をおれにしてくれた用心棒仲間がいてな」と、そのデューラムの様子を眺めながらダグラスが、「そいつも悪魔の穴の噂話をたしかめにここに来た事があるそうだ。夜は気味が悪いってんで、昼間にやってきたらしい。で、ほんとに穴があいてるのを見てそいつは仰天したわけだが、どうせならと穴の深さを調べてみようとした。持って来てた長い紐のさきに石をくくりつけて、この穴の中に垂らしてみたんだ」
 「……延々と、いつまでも底につかなかったってのか」
 ダグラスは、背に負っていた藁のむしろを床に広げながら答えた。「ご明察」
 「紐はどれだけ長かったんだよ」
 「そいつの主張だと、三十フィート(注:十メートル強)はあったって話だ。ほんとかどうかは知らんがな」
 そう言って、ダグラスはむしろの上にどっかりとあぐらをかくと、手に持っていたずだ袋から大きなびんを取り出した。お手製のどぶろくである。「そういうわけで、おれたちは今晩、刻二つ(注:深夜三時ごろ)までここで待って、その穴に何が起こるのか見届けてやろうってわけだ。飲むだろ?」
 デューラムは大男の動じない姿勢に驚き呆れつつも、「もらうよ」と答え、むしろに腰を下ろした。昼間は少し汗ばむくらいの春の暖気も、廃屋の最奥の部屋にまでは浸透してこないようで、あたりの空気は冷え冷えとしている。だが、尻の下の藁のむしろは、ひんやりとした床石の冷気をいくぶんかは遮ってくれるようだった。
 「それにしても」と、これはやはりむしろに腰を下ろしたツァランで、ぐるりと部屋を見渡して感心したように、「この家の古さは、百年や二百年じゃ済まないかもしれないぞ。ひょっとすると帝国支配前の様式かもしれない」
 「帝国支配前っていうと、六百年とか七百年とか昔だって言ってたか?」
 「そうだ」と、ダグラスの声にツァランは頷き、「まあ国中でもかなり古い部類に入るだろうな」
 「その、帝国支配前と後の建築様式だかってのは、そんなにぱっと見てわかるもんなのか」
 「かなりの程度は、わかる。もともと<竜の背>山脈の東と西ではまったく異なる文化が発達していたんだ。東のヘプタルクと西の帝国領では、建物の様式も設計もずいぶん違っていた。ところが帝国が山脈を越えて勢力を延ばしてきたときに、言ってみれば東の文化は西の文化に駆逐されたわけだ。だから、帝国が来る前のこの国と、来た後のこの国では、色んなものがガラリと姿を変えている。……そもそも、この土地だって帝国の支配下に入る前は別の名で呼ばれていたんだぜ。ヘプタルクは帝国由来の言葉で『七人の王』という意味だが、ずっと昔は、この地方の古い言語で独自の名称があったんだ」
 ハァとデューラムはあいづちを打った。ちんぴらとはいえども腐っても学士なのか、ツァランはこうした歴史だの政治だのの話が大好きである。デューラムにとってみれば、あの穴を誰が開けたかという話題の方がずっと重要に思えるのだが。
 「もうひとつ大きな変化といえば、暦(こよみ)だな。それまで長く、ヘプタルクを含め東邦の各国は、ずっと昔、二千年以上も前の古代帝国時代に定められた暦を使っていた。だが西の新しい帝国の支配下に入ってからしばらくして、王宮や寺院が使う正式な暦は現在の帝国暦に改められたんだ。神話にもとづく古代暦が不正確すぎるというのがその理由だ。とにもかくにも、ぼくらが慣れ親しんだものの多くは、七百年前から五百年前くらいのあいだに導入されたものにすぎないんだぜ。それ以前、この国の人々はまったく異なる暮らしをしていたんだ」
 ふうんとデューラムは唸ってどぶろくを啜った。ダグラスの酒はあいかわらず程よくどろりとして、程よく酸味があり、かぐわしい。「まあ、おまえみたいしてみれば新しい話なのかもしれんが、おれにとっちゃ五百年前にできた決まりなんて、じゅうぶん古いよ」
 「違いねえ」とダグラスが笑った。
 「ふん」と、ツァランは手応えのない聴衆の反応にすねたようだった。「話がいのないやつらめ。今日お出ましになる悪魔のことしか頭にないと見える。しかし、その奇怪な現象ってのがもし起こったとして、おれたちの身は大丈夫なんだろうな。獰猛なのが出てきて腹でもかっさばかれちゃたまらないぜ」
 「おまえに関しちゃ、腹をかっさばかれて中身の黒いもんを出してもらった方が、世のためになるんじゃねえか」と、憎まれ口にダグラスが返してやると、ツァランは嫌味ったらしくあくびをしてみせて、
 「あいにくそういう場合は、ほんの少し残っていたまともな部分のほうが取り除かれて、黒いものだけが残るというのが、古今東西のお話の鉄則なんだ。――で、なんだ。刻二つになると、『何か奇妙なことが起こる』と、それだけがおまえの聞いてきた話なのか?」
 「まあな、だが、この屋敷にかんしちゃ色々変な話がある」
 そう言うダグラスの話によると、なんでも、刻二つになると若い女の金切り声が聞こえるという噂があるらしい。どーん、どーんと奇怪な轟音が夜中に響くとも噂される。あるいは、真夜中に天井の穴から黄色い化け物がこっちを覗いてるのを見たという人間もいるらしい。
 「黄色い化け物?」
 デューラムの声に、ダグラスは肩をすくめ、「おれもそれ以上は知らん」と言った。「ただ、のっぺらぼうで肌が真っ黄色なんだそうだ」
 気味が悪くはあるが、たしかに命に別状があるような話ではない。
 一杯目の杯を早々に空にしてしまうと、酒豪の大男はふうーと長い息を吐いた。ツァランが持参した煎った木の実を豪快な音を立てて噛んでから、思い出したように、
 「それから、一年に一度だけは、とくに気をつけた方がいいらしい。その日に、そら、そこの床の穴を悪魔が通り抜けて行くんだそうだ。この穴の由来にかかわる話なんだとさ」
 「この穴の由来?」
 「噂話だがな」と、ツァランの声にダグラスは眉を上げ、「……ちっと長い話になるぞ、いいのか」
 「いいよ、刻二つまではまだうんざりするほど長いんだ」とデューラムは言った。「おれも気になる。話せよ」
 ふうん、とダグラスは眉を上げて、少し間を置いた。それから彼が話しはじめた鬼屋敷の由来とは、次のようなものだった。


 なんでも、ツァランが推測したように、この家は建てられてウン百年になるらしい。だが五十年前かそこらまではふつうに人が住んでいた。床と天井に妙な穴も開いていなかった。伝えられるところによると、この家が廃屋になる前の最後の住人は、ぱっとしない画家だったらしい。爪に火をともすような貧しい暮らしというわけではないが、お世辞にも才能を広く認められた絵描きではなかった。
 しかし、その男には不思議な力があった。なんの因果でか、小さい頃から鬼や幽霊や妖精や、ふつうの人間には見えない何かを見たり感じることができたのだ。
 長じてからも、その力はなくならなかった。画家になってしばらくして、その男はふとした拍子に奇妙な気配を感じるようになった。自分が絵を描いている最中、たまにひたひたと足音が聞こえた気がして、はっと耳をそばだてると、もう足音はどこかに消えている。別なときには、耳のすぐ後ろからじいっと自分の絵を眺めている視線を感じる。絵筆をもった手に見えない何かがひやりと触れた事すらあった。
 画家も最初は気味悪く思った。だが次第に、その目に見えないものがいったい何をしているのか、興味を抱きはじめた。とうとうある日その画家は、画板の前に座る自分のすぐ後ろにわだかまっている気配に向かって喋りかけた。おまえは何者か、と。
 後ろの気配はしばらく押し黙っていた。そしてその画家が、何かに見られているなどというのは自分の妄想だったのかと思い始めたころ、耳のすぐ横で、喉の詰まったような、息だけのささやき声が答えた。自分は悪魔である、と。
 画家は飛び上がるほど驚いたが、なんとか動揺を押し隠した。そして震える声を落ち着けつつ、なぜ自分のまわりをうろつくのかと悪魔にさらに尋ねた。
 すると悪魔はこう答えた。――人間の芸術家のなかには、たまに見る者・聞く者を地獄に誘い込んでしまうような、この世のものならぬ作品を産み出す力のある者がいる。そのたぐいの芸術家を探し出し、うまく彼らをみちびいて、狂気と邪悪をあらわに見せる絵や音楽や彫刻を作るようにそそのかす悪魔がいるのだと。自分はそうした悪魔のひとりであると。
 さらに悪魔は続けた。――だが、おまえはそういう才能をもつ画家ではない。おまえが絵を描き始めてからこのかた、ずっとおまえの絵を見つづけてきたが、そのことはもうはっきりした。だからもうおまえの周囲をうろつくこともないだろう、と。今日かぎりでおまえが自分の存在を感じ取ることも、もうないだろう、と。
 なるほど、そういうことだったかと画家は納得したが、同時に落胆もした。自分の絵の才能は悪魔さえひきつけないのかと思うと、悔しさが込みあげ、さらには怒りがふつふつと湧いてきた。その怒りを抑えきれなくなって、画家は去ろうとする気配を呼び止めた。――待て悪魔、と。
 そうして画家は、悪魔にひとつの取引を持ちかけたのだった。――たしかに自分は何の助けもなしには、人のたましいを惑わせるような傑作は描けないかもしれない。だが、おまえのような異界の存在とこうして会話ができるのは、ひとつの才能であるはずだ。おまえさえその気になれば、自分にはおまえの姿が見えるのではないか。どうだ、おまえがその姿をあらわにしてくれるならば、自分がそれを絵に映しとってみせようではないか。正真正銘の悪魔の姿の絵だ。これまでどんな人間も見た事のない……
 悪魔はこの取引に乗ってきた。ただし、ほかのいくつもの悪魔のお話と同じように、そこには交換条件がついていた。姿を見せて絵の材料を与える代わりに、その絵が認められたあかつきには、おまえのたましいをもらう、と悪魔はそう言ったのだ。
 そうして悪魔はその真の姿を画家の前にあらわにした。常人の想像の限界をゆうに超えた、冒涜的な姿だった。あまりに奇々怪々なその容貌に、もう少しで画家も正気を失うところだった。だが歯を食いしばって、震える手で絵筆を握り、画家はその姿を映しとりはじめた。ひっきりなしに胃液が喉元から口の中にこみあげ、画家は何度も吐いた。脂汗にまみれながら、それでも彼はとうとう絵を完成させた。
 この絵はひとたび世に出るなり、大当たりした。見るだけで心が地の底にひきずりこまれるような、これまで誰も見たことのない絵があるという噂は、ヘプタルクの国の中はおろか、帝国をはじめはるか彼方の国々まで伝わり、遠方からの見物客が大勢やってきた。寺院はその絵が忌まわしい力を持っていると言って、公開を禁じ、絵を燃やすように画家に申し渡した。しかし時すでに遅く、酔狂な貴族がその絵をべらぼうな値段で画家から買い取った後だった。その貴族はその後も、寺院や王宮に隠れて、こっそりと悪魔の絵の鑑賞会を続けるのだった。
 いまや誰もが画家の才能を疑いはしなかった。だが、彼の評判が定着した頃には、悪魔との約束の期日が近づいていた。絵が完成した次の年の、三の月の最初の安息日の夜にたましいを取りにくると、そう言い残して悪魔は去って行ったのだ。おとぎ話のなかで悪魔と取引した人間がみなそうであるように、この画家もまた己の取引が怖くなって、家中の扉という扉、窓という窓、出入り口という出入り口に、聖水をいやというほど振りまき、神の紋章をこれでもかこれでもかと貼りつけて、悪魔がどこからも入ってこられないようにした。
 そうこうするうちに、とうとう三の月の最初の安息日がやってきた。画家は怖くて一人でいられなかったので、たった一人の親友を呼んで、ふたりで酒を酌み交わしていた。だが、その親友の目から見ても画家は心ここにあらずという様子で、やけ酒を呷りながらも、その顔色は真っ青だった。しだいに夜は更けて、二の刻を知らせる真夜中の寺院の鐘が鳴り出す。画家はさらに青ざめて、その体はぶるぶると震えている。大丈夫だと親友は言った。心配するな、悪魔のやつはどこからも入ってこられない……
 そのとき、寺院の鐘の最後の余韻が消えた。その瞬間だった。突然、大きな振動が地の底から沸き上がって来たかと思うと、轟音がとどろき、部屋の床に丸い大穴が口を開いた。まるでナイフでラードでもくり抜くかのように、やすやすと、一瞬で。
 そしてその穴から、一声おそろしい叫びが響いた――『約束だ! たましいだ!』
 あっと思うひまもなく、画家の体がまるで巨大な手にわしづかみにされたように宙に浮き、次の瞬間にはすさまじい勢いで天井に激突していた。いやな音がして、血しぶきが飛び散り、……
 ……気がつけば、画家の姿はどこにもなく、ただ床と天井に同じように丸い穴がひとつずつ空いていた。天井の穴のまわりはべっとりと血で染まっていた。それが画家の最期だった。天井の血のしみを除けば、死体も、骨も、なんにも見つからずに、忽然と消えてしまった……


 「これでこの話は終わりさ」と言うと、ダグラスはどぶろくを一口飲んだ。
 デューラムは長く息をついた。「その絵描きの家がここで、その二つの穴がこれだってのか?」
 「そうだって話さ」
 デューラムはもう一度、ふりかえって床の穴を見た。穴の中はあいかわらず静かで、異界の存在を感じさせる蠢動などは見えない。けれども先ほどと同じように、その円の不自然なほど完全な形状が気になる。さらにその円のふちは――「ラードでもくり抜くように」とダグラスは言ったが――確かにまるで熱したナイフでバターでも切ったかのような、驚くほどなめらかな切り口を見せていた。デューラムの知る限り、石の床をそんなふうに切り取れる刃物を見つけるのは、そうたやすくない。
 「三の月の最初の安息日の夜といったか。その日が、悪魔が出るって日か?」
 「そうらしいぜ。絵描きが天井を血まみれにして消え失せて以来、毎年その日になるとこの部屋中が血をまきちらしたみたいに真っ赤になるんだそうだ。さすがにそれは気味が悪いから、おれもその日は避けたってわけだ」
 デューラムはううんと唸った。「最初の安息日というと、十日くらい前だよなあ。だとすると、十日ほど前にはこの部屋が血に染まってたってわけか? いまはすっかりきれいだけどなあ」
 「違いねえ」とダグラスはにやにやと笑い、「まあ、なんでも、その血は一日経つときれいさっぱり消え失せちまうって話さ。噂の怪談話ってのはいろいろ逃げ道を用意してるもんだよな」
 「いや」と、そこで口をはさんだのはツァランである。彼はがらにもなく真面目な表情を浮かべ、「なかなか興味深いぜ。じっさい、才能が突出した芸術家の作品は、いつだって悪魔の関与を連想させてきたんだ。画家でも、演奏家でも、作曲家でも、物語だってそうだ。……なにかそう思わせるものが、絵だの音楽だのには潜んでいるんだろうな……」
 そう言いつつ学士はしばらく考え込んでいるようだったが、一口どぶろくを啜ると眉を寄せた。「さらに言えばだ、その怪談も真っ赤な法螺でもないかもしれないぜ。五十年前と言ったか? ぼくの記憶が正しければ、たしかそのくらいの時期に、世にも恐ろしい怪物を描いた絵で王国中の話題をさらい、その後行方しれずになった男が一人いたはずだ。名だたる芸術家の仲間入りをしようとしていたのに、ある日をさかいに忽然と姿を消してしまった。ちまたでは、常規を逸した己自身の想像力に飲み込まれ、気がふれたと言われている……」
 目を細めてそう言ってから、ツァランは肩をすくめた。「まあ、その画家の話は有名だから、単に誰かがこの屋敷の穴とその画家のエピソードとをつなげて、でっちあげた怪談かもしれないが」
 デューラムは呆れた。「なんだい、はっきりしないな」
 「怪談話なんてはっきりしないもんじゃねえか」
 ダグラスが顎をがりがりとかきながら言うのだが、デューラムはどうも不満なのだった。





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