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TWIN SEASHELL.
「もし、」 背後からかかった声に、カウンタの奥の棚の整理をしていたアルマが振り返ると、そこに一人の女が立っていた。全身をすっぽり覆う灰色の長い外套に身を包んだ、背の低い女だった。 アルマは濡れぶきんを手に握りしめたまま、ぽかんと女を見た。店の表戸には呼び鈴代わりに牛の鈴がつり下げられていて、誰かが入ってくればカラカランと音が鳴る。だが、そんな気配はなかったのだ。そこそこ固定客の多いここ<ロバートの武具店>であるが、何やら今日は閑古鳥が鳴いていて、店番を申しつけられたアルマは午後のひまをもてあましていたのだった。 「ええと」アルマは咳払いをした。鈴が鳴ったけれども気づかなかったのだろうか? 自分はそれほど整理に熱中していただろうか? 「いらっしゃいませ、何かご入り用で?」 「貝を」 女は蚊の鳴くような声で言った。 「はい?」 「貝を買っていただけませんか」 女はそう言った。声音に独特のなまりがある。アルマの生まれ育った東の国よりも、さらに東方のなまりだ。見れば、いつのまに並べたものやら、カウンタの上にはいくつかの藍の布包みが転がっている。そうして女はその布包みを開きはじめているのだった。 「お客さん、ちょっと待ってくださいな」 アルマは慌てた。 「うちは道具屋ですよ。貝って、あの、その、ああ、」 広げられた藍布から顔を出した品を見て、アルマは目をしばたたいた。「……貝がらですか」 そのとおり、布の上に転がっていたのは大小さまざまの貝がらの数かずだった。赤みを帯びた真珠色の平たい貝。石灰のように真っ白なうずのなかから、長いとげをいくつも伸ばした巻貝。あざやかな煉瓦色と白とのしま模様の二枚貝。どれも、うすい殻のはしまで欠けることもなく、繊細な形状を完全なままにとどめている。 「きれいですね」 思わずそう言って、アルマは二枚貝のひとつを手にとった。ざらざらした褐色の面の内側で、銀がかった玉虫色が濃厚なつやを放っている。「……遠来のものでしょうか。このあたりでは見かけたことがないわ」 手の中のその貝を少し見つめてから、彼女はため息をついて貝がらを布の上に戻した。 「でも、ごめんなさい。……うちは皮の長ぐつだの、洞窟の岩壁をがんがん掘るつるはしだの、そんなのを売り買いする店なんです。三つ向こうの通りにある装飾具のお店なら買ってくれるんじゃないかしら。こんなにきれいなんですから」 女は小さく吐息をついて、そうですかと言った。あいかわらずうつむきかげんの上に、フードを深く下ろしているので、その顔はよく見えないままだった。そのまま細い指が貝がらをもとのとおりに包みなおしていくのを申し訳なげに見ていたアルマであったが、ふと一番はしに出されたきり開かれないままになっていた布包みに気がついた。 「そちらも、貝ですか?」 そうアルマが尋ねたのは、その包みが他とずいぶん違ったかたちをしていたからだ。 女は顔をあげ、布包みにちらりと目をやった。そのときフードの影からのぞいた顔は日にやけて浅黒かったが、その肌はきめこまやかだった。女は手を伸ばして布包みを引き寄せた。「ええ、こちらも貝でございます。売り物ではございませんが、ごらんになりますか」 女が布包みを結んでいた紐を解きほどくと、なかから現れたのは案の定、両の手でつつみこむほどのころりとした硝子びんだった。厚い硝子の壁のなかで透明な水がちゃぷんと音を立てると、底に横たわっていた黒い貝がゆらゆらと揺れ動いた。 「烏貝(からすがい)ですか? まだ生きてる?」 そう言いながらびんの中身を覗きこんだアルマは、はっと息を呑んだ。七分目まで水で満たされた硝子びんの底に沈んでいたのは、たしかに烏貝であるはずだった――色つやも、その大きさも、以前彼女が各地を旅して回っていたときに、いくつもの海ぞいで見かけたものだ。けれども、この形はなんなのだろう? 一瞬アルマは、ふたつの貝がびんの中で重なり合っているのかと思った――だが違う。その烏貝はまるで体の一部を共有しながら生まれてきたふたごのように、まんなかでしっかりと深く融合しあい、完全に左右対称な、ひとつの奇妙なかたちをなしているのだった。 「まあ、めずらしい」 アルマは目を見張ってつぶやいた。 「わたくしは長いこと旅をしておりまして」女は言った。「このふたごの貝は、もう十年も二十年も昔、ずいぶん東の国で小さな漁村に立ち寄ったときに手に入れたものにございます」 「二十年?」 鼻が硝子に触れるほどの距離で貝を見つめていたアルマは、驚いて女の顔を見上げた。「そんなに長いこと、貝が生きているものですか?」 「ええ。とくに何の餌(え)をやるわけでもございません。水をかえるわけでもございません。それでも腐ることもなく、朽ちることもなく、ずっとこのままの姿でいるのでございます。貝ですから、喋りもせず、動きもいたしません。それでもたしかに、生きつづけているのでございます。そのふしぎさと、そしてこの貝について聞き及んだ奇妙な謂われのせいもあったのでしょうか、今日まで手放せずにきたのでございます」 よく聞いてみれば、女の声はたしかに積み重ねられた年月の影をおびていた。先ほどフードのすそから覗いた肌は若々しく見えたものの、女はそれなりの齢を数えているのかもしれなかった。アルマは硝子びんの中のふしぎな貝をもう一度まじまじと見つめた。黒々とした貝がらが、窓から差し込む昼下がりの光を反射して独特のつやを帯びていた。 「奇妙な謂われ?」 アルマの顔を見て、女は微笑した。どこか寂しそうな微笑だった。 そうしてお聞きになりますかと言って、女は話しはじめたのである。 先ほども申し上げましたとおり、わたくしがこれを手に入れたのはもうずいぶん昔、周囲を海と森に囲まれた漁村に偶然立ち寄ったときのことにございます。とても小さな、おそらく人の数にして五十にも満たぬような集落にございました。長々とつづく美しい砂浜の両端を険しい黒磯に挟まれた、そんな海ぎわで、人びとは貝をとり蟹をとり、時には沖あいで魚をとって、ひっそりと暮らしていたのでございます。 寄せては返す波に洗われる砂の涼やかさと、おだやかな潮風のにおいに惹かれ、わたくしはその漁村で数月をすごしました。そしてわたくしが寝起きしていた小屋のとなりには、ひとりの年老いた漁師が住んでおりました。これはその老人がわたくしに託した烏貝、その老人がわたくしに語って聞かせた話なのでございます。 なんでも、わたくしがその漁村に立ち寄るよりさらに四十年ほど前のことであったとか、その集落にふたごの若者が住んでいたそうでございます。兄弟の父はまだふたりが赤子のころ、ある夜ふらりと漁に出たきり帰っては来ず、その帰りを待ちつづけた兄弟の母も、ふたりが十に満たないうちにひっそりこの世を去ったそうでございます。以来、兄弟はたったふたり、たがいにたがいを助けあって生きてきたのでした。 このふたごは、背格好も顔かたちもうりふたつで、汐と陽に灼けた褐色の肌も、舟の櫂(かい)を力強くこぐ腕も、あるいは大漁の網をひくために盛り上がった肩も、みな生き写しなのでした。やあい、やあいとふたごが声をかけあいながら網をひく様子をながめていると、まるでひとりの漁師と水面(みなも)に映るその影とを神様が気まぐれにたわむれさせているような、そんな気持ちがしたそうにございます。 そんなふたごも気性には少しちがいがございました。たとえば兄のほうは、人と交わる事を愛する陽気な気性で、集落のほかの男衆とよく酒を酌み交わしては、漁について、海について、いろいろなことを語り明かしていたそうにございます。対する弟のほうはもの静かで、漁に出ない日などにはあまり出歩かず、彫り物などをして一日を過ごすくせがありました。この弟が銛(もり)や櫂にほどこした彫刻は、荒波や魚、貝などの文様で、それは美しいものであったといいます。かように異なるふたりではございましたが、どちらも働き者で兄弟思いと、村人たちの評判も高かったそうでございます。 さて、そんなある夏のことにございました。まれに見るほどの“しけ”が浜をおそったのでございます。十年、二十年に一度かというほどの、激しい激しい“しけ”でございました。海は七日七晩荒れ狂い、人びとはただ祖末な家のなかで息をひそめ、ちぢこまって嵐をやりすごしたのでした。漁にも出られない、海藻ひろいや海もぐりにも出られない、そんな日が続いた八日目のことでございます。それまでの海神の荒ぶる怒りが嘘かと思うほどに空が冴えわたったその朝、浜に打ち上げられたものがあったそうにございます。 それを見つけたのはふたごの片割れでございました。ふたごのひとりが嵐の翌朝、気を失ったひとりの娘をかついで村に持ち帰ったのでございます。高波と暴風にあおられ沖で難破した船に乗っていた者が、流れに流され、たまたま浜まで流れついたのでしょうか。打ち上げられた木くずと流木にまじって、娘は砂の上にひとり倒れていたのでした。 村の衆はどうしたものかと困惑しましたが、ふたごのたっての希望で、娘を彼らに任せることにしたそうでございます。兄弟の家で介抱された娘は数日後に目をひらきました。墨のように黒ぐろとした、けれどもどこかおぼろげな目だったそうだと、老人は申しました。 それから少しずつからだのよくなった娘は、兄弟に飯を準備したり、村の女衆に海藻ひろいを教わるなどしながら、浜に住みつづけたそうにございます。けれども、ずいぶんたっても娘の素性は知れませんでした。波にもまれるうちに記憶まで洗われてしまったのか、はたまた乗っていた船と一緒に過去まで沖に沈めてしまおうとしたのか、それはわかりませぬ。ただ、娘は多くを語らなかったそうにございます。そういえば、その嵐ののち浜に流れついたのは、ただひとりその娘だけであったといいます。難破した船に乗っていたであろうほかの者は、骸すらも、骨いっぽんも、浜にうちあげられはしなかったのでした。ふしぎなことにございます。 そうしてまたたくまに一年ほどがすぎ、村の衆は娘を集落に迎え入れることについて考えはじめました。そんなよそ者が、とお思いでしょう。けれども老人の語るところによりますと、それは集落のさだめのようなものであったそうにございます。その浜には、十年にひとり、ふたりほど、こんなふうにしてよその者が流れつくのでした。なにしろ閉じられた小さな集落のことにございます。子を残すために外の血が必要と、荒磯とがけを隔てた隣の浜に住む集落と、ときおりむりに婚礼のまじわりを整えるほどでした。そんな状況でしたから、外界より流れついた者は、奇異な目で見られることこそあれ虐げられるものではなく、かくなる者との婚礼は、むしろ集落の歓迎するところにあったそうにございます。 けれども、娘が誰と連れそうべきか、村の衆はみな頭を悩ませました。いえ、もっと言えば、娘がふたごのどちらと連れ添うべきかが誰にもわからなかったのでした。西の海に沈む太陽が夕潮を赤く染めあげるなか、ふたごの兄と娘とが高らかに笑いながらじゃれあい、水をはねかけているのを、いく人もの村人が見ていました。かと思えば、月が小波にゆらゆらと揺られる晩に、ふたごの弟と娘とが磯の岩に隣りあって腰かけ、静かに語らっているのを見た者もおりました。ふたりがともに娘を好いていること、娘を手ばなしたがらぬことは、誰の目にもあきらかだったのでございます。 そうして、だからこそでしょうか、ふたごはけっして自分たちの側からは、娘と連れ添う話を持ち出さなかったそうにございます。兄弟ふたりと娘とが三人で暮らしているうちは、娘は兄と弟どちらのものでもあり、またどちらのものでもありませんでした。けれどもどちらかひとりが娘を手に入れたとき、残るひとりは確実に娘を失います。そしてまた、それだけでなく、それまで十年つちかわれた兄と弟との絆を、ふたりはともに失うことであったでしょう。それをふたごは恐れたのでございます。 だけれども、いつまでもそんなことを続けているわけにはまいりません。どちらかが娘を娶るようにと村の長老が言ってきかせたとき、ふたごはじっとうなだれておりました。しばしののち、兄と弟のどちらであったでしょうか、ひとりがきっと顔をあげて、では娘に選ばせてくださいと、そう申したそうにございます。 ふたりのどちらかを選べと長老に命じられた娘は、そのおぼろげな色の瞳をふせ、二、三度まつげを打ちあわせたそうでございます。それからしばしあって、娘は何も言わぬまま、兄のほうへと歩み寄ったのでした。 兄と娘との婚礼は、ささやかながら心のこもったものであったといいます。手のこんだ数かずの料理がふるまわれ、貴重な肉の薫製がみなに馳走され、ふたごの家は小さな野花の束で飾られました。そうしてもっとも祝いに熱心だったのは、ふたごの弟であったといいます。弟は、柄の部分に繊細な文様彫刻をほどこした美しい手銛(てもり)をつくりあげ、それを兄に贈ったのでした。兄は弟からの祝福のしるしに、ただ黙って涙を流したそうでございます。 それから弟は家を出て、兄と花嫁の家から少し離れた小屋に暮らしはじめました。花嫁はあいかわらず無口ながら、よく体を動かし、そして兄弟もそれまでとかわりなく、おたがいに助けあってよく働いたそうにございます。婚礼の前にささやかれていたような不和は何一つきざしを見せず、兄と弟とが力をあわせて網をひく、やあい、やあいという声が、それまでとまったく変わりなく、時たま浜に力強く響きわたるのでした。 そんなある日のことでございます。婚礼から半年ばかりも経っていたでしょうか。この話をわたくしに語って聞かせた老人は、そのころまだ三十路にさしかかったばかりであったといいますので、彼(か)の人とでもしておきましょうか。この人がたまたま夫婦の家の前を通りかかったところ、家の中から夫婦がほがらかに談笑する声を聞いたのだそうでございます。姿かたちだけでなく、声もそっくりながら、その喋り方で、きょうだいはすぐにどちらと知れます。快活に、笑いをまじえて何かを物語るその声は、たしかに兄のものでありました。娘がひかえめながら優しい笑いを返しているのが聞こえます。ふだんなら男衆はみな海に出ている時刻でございましたが、そのふたごの兄も今日は家でなにか作業をするのだろうと、彼の人は気にも留めませんでした。ところが浜に出てみて彼は驚いたのです。さっき声を聞いたはずのふたごの兄本人が、目の前で他の若人と網を扱っているではありませんか。快活に挨拶をよこしたその兄に対し、彼の人は、どうしておまえがここにいるのだと思わず問いかけました。おまえは自分の家にいて、妻と話していたではないかと。そう言ってしまってから、彼の人はきょとんとしていた兄の顔がしだいに青ざめていくのを見、そして同時に悟ったのでございます。あの声は兄のものではなかったのだと。そして自分があれを兄と信じて疑わなかったそのなかに、何かよくない兆しがくすぶっているということが。 兄は無言のまま立ち上がると、早足で家に向かって歩き始めました。彼の人は慌ててそれを追いかけました。浜を戻って夫婦の家のそばまで来ると、家の中は静まり返っていて、誰かが話しあう声さえ聞こえませんでした。兄は入り口の戸の前にしばし立ち尽くしてから、思い切ったようにその戸を、がたあんと勢いよく開け放ちました。そして兄のすぐ後に続いた彼の人は、兄の背と扉のすきまから見たのでございます。家の奥にしつらえられた粗末な寝台は、くっきりと盛り上がっておりました。その寝台のなかで、男が何かにおおいかぶさっている、その褐色の背中の線が見えます。そうして乱れた毛布のすそから、きゃしゃで小さな裸足のつまさきがかすかに覗いているのでございます。 扉が押し開かれると同時に、寝台の中の影はさっとふたつにわかれました。戸口に立ちつくした兄が、かすれた声で弟の名を呼びました。薄暗い部屋の中で起き上がった娘は、いっぱいに目を見開き、あらわれた夫の姿をただ見つめていました。その横でやはりのろのろと裸体を起こしたのは、ふたごの弟その人でございました。弟はおびえたような、傷ついたような、なんとも言えぬ表情を浮かべておりましたが、しばしあってかん高く笑い出しました。そうして、おめでたい花婿だ、この女は夫とほかの男の区別もつかぬのさ、と言いました。 嘘、と娘がつぶやくちいさな声を、その人は聞きました。弟はそんな娘を一瞥し、それからいつもの表情からは想像もつかぬような、ねっとりとしたまなざしで兄をねめつけました。それから低い声で、これはおれが見つけたものだ、おれが持ちかえったものだと言ったのでございます。 そう言い捨てるがはやいか、弟はそばに脱ぎ捨ててあった着物をひっつかみ、戸口にいたその人を突き飛ばし、あっというまに外に飛び出して行ったのでした。 |