瘧熱 2

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ATS' VOICE.








 そうこうしているうちに日もすっかり暮れた。いかにも食欲がなさそうに粥をのろのろと食ったダグラスは、言葉も少なく、毛布の中にもぐりこんだ。
 浅い、だが規則正しい寝息を友人が立て始めたのを確認すると、デューラムは薪を居間から運んできた。暖炉をかきまわしていると、すぐ横にかけられた火かき棒が目に入る。長年使われて煤けてはいるが、人ひとり刺し殺せそうな立派なしろものだ。デューラムはツァランの腕のやけどを思い出す。
 あれをダグラスがやったのだとは――。それも事故ではなく、意図的に。今のところダグラスは、ツァランの話にあったほど凶暴なようにも理性を失っているようにも見えなかった。ぶっきらぼうではあったが、気心の知れた友人同士のこと、たまにあんな風になることはある。だが、あそこの窓はどうだ、明らかに常規を逸した、偏執的なあの閉ざし方は。あれだけ見れば確かに狂人の所作だ……、
 と、何かの物音を感じとって、デューラムは顔を上げた。
 どこから聞こえた音だったのか、とっさにはわからなかった。だが部屋の中ではなかったような気がした。
 外だろうか。
 窓の外で猫が鳴いた。甘えるような、不機嫌なような、どちらとも取れる調子で喉を長く鳴らし、かと思うとギャウっと大きな声を出す。何匹かいるらしい。さかっているのだ。発情した猫が多い時期なのか、ここしばらくはデューラムの家の近くでも野良の猫がこんな声を出している。
 だが、先ほど聞こえたのは猫の立てる音ではなかったような……、
 誰か外にいるのだろうか?
 窓を開けられないことはわかっていた。一枚や二枚の板をはがしたところで開くような状態でもない。それでも何か気にかかって、デューラムは窓に二、三歩、近づいたのだ。
「やめろ!」
 突然背後で大きな声がした。デューラムはぎょっとして振り向いた。
 ダグラスである。ついさっきまで眠っていたはずで、なんの音も気配も感じられなかったというのに、いつのまにか寝台の脇で仁王立ちになっている。
「開けるな!」かっと目を見開き、ダグラスは叫んだ。「窓を開けるな!」
「落ちつけ、ダグラス、開けやしない。開けられやしないだろ」デューラムはダグラスの剣幕に気圧されながらも、「わかった、窓には触らない。誰か外に来たような気がしたんだ。扉に回ってみる」
「駄目だ!」と、ダグラスは怒鳴った。「開けるな! 絶対に開けるな!」
 言うなり、ダグラスが寝台の下からぎらりと光るものを取り上げたので、デューラムは仰天して一、二歩、後ずさった。いつから隠していたのか――なんと、斧である。さほど大きなものではなかったが、ダグラスの怪力でもって殴りつけられれば、へたをすれば命がない。
「家から一歩も出るんじゃない。いや、この部屋から出るんじゃない! 座るんだ、デューラム、さもないと頭を叩き割るぞ!」
「わかった、座る。座るからその斧を下ろすんだ」
 デューラムは手をあげてダグラスを制しつつ、彼から目を離さないようにしながら、自分が先ほどまで座っていた木椅子(スツール)までゆっくりと移動してみせた。その様子を、斧をふりあげたままダグラスが目で追う。燭台の灯りに照らし出された彼の目は、真っ赤に血走っていた。
 デューラムは椅子に腰かけ、両手を広げてみせた。「な、もう外には出ない。わかっただろ?」
 ダグラスはしばらく彼を睨みつけていたが、数秒の後、ふうーと息をついて、斧を持った腕を下ろした。
 溜息をつくのはこっちだ、とデューラムはひとりごちる。一瞬、本当に殺されるのではないかと思った。もちろん数年来のつきあいで、ダグラスがそんなことをする男ではないのはいやというほどわかっている。だが先ほどの彼の目は激怒に見開かれながらもぼんやりと濁っていて、何をしでかすかわからない不気味さがあった。
「ダグラス」
 斧を寝台の下に押しやる友人を見ながら、デューラムは言った。できるだけ平静な声になるよう注意する。「まぎらわしい動きをして悪かったよ。だが頼むから寝台に戻ってくれ、おまえは熱がある。体を冷やすのが一番良くないんだ」
 ダグラスは返事をせず、こちらに背を向けたまま、のろのろと寝台の中にもぐりこんだ。ついさっきの荒々しさとは対照的な、愚鈍な動作だった。
「それから、薬を飲んでもらう。いいか、これからおれは立ち上がるが、そこにある紙包みと水を取るだけだ」
 デューラムはゆっくりと文節を区切りながら、大きなしぐさでテーブルの上を指差し、「外には出ない、窓にも触らない。薬を取るだけだ。いいな? さっきの斧は持ち出すなよ」
 ダグラスはくぐもった返事をした。
 デューラムはそろそろと立ち上がると、慎重な動作でテーブルの上の紙包みと水を取ってきた。紙包みを開くと、中には粉薬の入っているとおぼしきいくつかの小さな包みと、見たことのない黒く乾燥した果実のようなものが一握り入っていた。添えられたメモには「朝夕、粉薬二包み、果実を一つずつ」と書いてあった。クリッサの筆跡と思われた。
 寝台から何かうめき声が聞こえる。デューラムは「何?」と聞き返し、耳を寄せた。
「そいつは頭の薬か」とダグラスは言った。
「頭の薬なんかじゃない、解熱剤だ。おまえの熱が下がらないので、ツァランがクリッサに相談してもらってきた」
 だが、ダグラスは聞いてはいないようだった。彼は片腕で目のあたりをおおって息を吐いた。すすり泣いているような、湿った息の音だった。「おれの頭はおかしくなってなんかいない。デューラム、わかってくれ。おれは正気だ。おれは狂っちゃいないんだ」
「わかってる。そんなこと思っちゃいない」とデューラムは根気づよく、「だが、この薬は飲んでもらわなくちゃならない。ただの解熱剤だ。これから夜になると、ますます熱が出てくるぞ。下手すりゃ目か耳がやられる」
「本当か。頭の薬じゃないのか」
「本当に決まってるだろ」
 ダグラスはゆっくりと腕を下ろし、デューラムが渡した薬包みとカップの水と受け取った。そのさまを、デューラムは息をつめながら、だが少なからずのショックとともに見つめていた。常日頃のダグラスが気のいい、こだわらない快男子であるのを知っているだけに、いまの彼の異様な言動は痛々しく胸に刺さった。すべて熱のせいだ、一時的なものだと、デューラムは無理やり思い込もうとした。
 粉薬と果実とを飲み下すと、ダグラスは寝台にあおむけに横たわり、もう一度大きな息をついた。それから、「悪いな、デューラム」と言った。
 その声音に、ようやくふだんの彼らしい響きを聞き取った気がして、デューラムはほっとした。
「まったくだぜ。治ったらたんまり奢ってもらうぜ」
 ダグラスは少しだけ笑った。それから、
「なあ、デューラム。おれはこのままおかしくなるのかな」
 と言った。
 デューラムはぎくりとした。
「何を弱気になってるんだよ、お前らしくもない。ちょっと熱は出てるが、ただの風邪だろう」
「風邪じゃない」ダグラスは小さな声で、だがはっきりと否定した。「風邪じゃないんだ、おれは知ってる。あれに会ったからなんだ。瘧(おこり)に――おれは瘧に会ったんだ」









 ふっとデューラムは目をさました。
 部屋は真っ暗だった。
 寝台のそばと壁際に置いた燭台のろうそくも消えている。ダグラスの様子をうかがいながらぼんやりしているうちに、いつのまにかうつらうつらとしていたらしい。
 ダグラスはこちらに背を向けて眠っている。
(少し落ち着いたのかな)
 デューラムは手さぐりで新しい蝋燭に火をつけた。橙色の光が部屋の一部をぽうっと丸く照らし出す。デューラムは病人の様子を見ようと、立ち上がって身を乗り出し、そしてぎょっとした。
 横を向いた彼の顔いちめんに、びっしりと汗の玉が浮かんでいる。眠っているようだったが、その呼吸は浅く、荒く、ひどく不規則だった。デューラムは指で彼の首に触れてみて、その熱さに二度驚いた。
 「ダグラス」とデューラムは声をかけた。「ダグラス!」
 だが友人は目をさまさない。肩に手をかけてゆすってみても同じことだった。そしてデューラムは、ダグラスが意識のないまま全身を小刻みに震わせているのに気づいたのである。
 デューラムは唾を飲み込んだ。熱病をひきこんだ人間の看病をしたことは何度かある。その結果、無事に病人が峠を乗り越えられたことも、そして、駄目だったことも……。いまのダグラスの様子が悪い兆候であることを、確かにデューラムは知っていた。熱がどんどん上がっているのだ。
 明日の昼になればクリッサがやってくると、ツァランは言った。だがそれまでのんきに待っていていいものだろうか? 下手をすれば、朝までもつかもあやういのではないか。
 あやうい。
(一刻も早く、医者を呼んでこなくては)
 焦燥感が体中の肌をざあっと駆けめぐる。デューラムは外套をひっかけると、棚の上にあったカンテラを手に取った。居間を通り抜け、玄関の扉の閂を開き、ドアノブを握り――
 しかしそこで一瞬、手の動きが止まった。
 何が気になったのか、よく自分でもわからなかった。なぜか体が硬直してしまったのだ。
 たぶん……、おそらく、外で何か物音がしたのだ。物音……、そう、何かが通りすぎていったような……。
 ――家の外に一歩も出るな、デューラム。
 先ほどダグラスが激昂して叫んだ台詞が蘇る。
 そもそもなぜダグラスは窓を開けるのを嫌がるのだろうか? 熱に浮かされた病人の言動として、まともに考えていなかったけれども……。ツァランも部屋の空気を入れ替えようとして窓に近づき、彼に攻撃されたと言っていた。
 もしかしてそのときも、先ほどのように――そして今のように――何ものかの気配があったのではなかったのか?
 馬鹿馬鹿しい、とデューラムは自分の頭に浮かんだ考えを一蹴した。――何をためらっているというのだ。いま医者を呼びに行かねば取りかえしのつかないことになりかねないというのに。
 デューラムは息を殺し、玄関の扉をじっと見つめた。もう物音は聞こえない。もしかしたら先ほどの音も気のせいだったのではないか、という気がしてくる。窓や扉がひとりでにきしんで鳴る音が、時たま誰かの気配のように聞こえることがあるではないか。
 深呼吸し、デューラムは一気にノブを回すとドアを開いた。
 ふっと生暖かい風が頬に当たる。
 冬の終わりの夜にしては暖かすぎる風、ただそれだけ。
 それだけで、外には何もいなかった。
 デューラムは街の闇の中に飛び出した。
 
 
 医者の家は、たしかダグラスの家の前の通りをまっすぐ行って、角を曲がり、さらに五つ通りを行った先にあるはずだった。急いで行って医者を連れてくれば、半刻もかからないはずだ。相応の金を払うと言えば、馬車を出して来てくれるはずだった。自分に今それだけの持ち合わせがあるかは疑問だったが、いざとなったらツァランに払わせようとデューラムは決めた。下っ端、へたれとは言え、腐ってもツァランは学士である。
 だが、医者の屋敷の玄関口まで辿りついたデューラムは、愕然としてそこにある看板を見た。「外出中」とある。その後、戻るのは何の月の何日云々と書いてあったが、デューラムにはどうでもよい情報だった。医者が必要なのは、今この瞬間、今晩なのだ。
 ――なんというタイミングの悪さだ! デューラムは不運を呪いながら、必死に考える。このあたりにほかの医者がいただろうか? わからない。覚えていない。彼はなかば自暴自棄になって、小走りに隣の屋敷に走ると、大声で叫びながら扉を叩いた。
 「誰か! このあたりの医者を知りませんか! 医者は!」
 祈るような気持ちでいると、中でわずかに気配があったようだった。家の住人が起き出してきたのだ。しかし、いくら待っても扉は開かないままで、そのうち小さな足音はふたたび奥へと引っ込んでいった。
 デューラムは絶望的な思いでその場に立ちつくした。医者探しを騙った強盗、あるいは酔っぱらいと疑われても不思議はない。近隣住人で、しかもしらふであれば、医者の家がどこなのか知っていて当然だからだ。
 そう、近隣住民であれば、たとえばツァランだったら知っていたかもしれない。――ああ、夕方彼に会ったとき、のらりくらりとしたあの口上に乗せられず、クリッサ以外の医者の住まいを無理やりにでも聞き出しておくべきだった。
 ツァランのことを思い出し、デューラムは悔しさに拳を握りしめる。そもそもなぜやつは、今日のようなときにダグラスを放っておいて仕事になど出ているのか。ツァランはダグラスの親友だったはずではなかったのか? 締め切りのある仕事があると言った、ダグラスにやけどを負わせられ頭に来ていると言った、だが、こんな非常時に仕事もくそもない! ダグラスに何かがあってから後悔しても、すべては後のまつりだというのに。
 デューラムは目を閉じて深呼吸した。落ち着け、と自分に言い聞かせる。楽天的に考えていたのは自分も同じだ。こうなったらクリッサを無理やりでも連れてくるほかない。明日の午(ひる)では間に合わないかもしれないのだ。別の患者がいるのだったら、その患者ごと引き連れてでも来てもらわなくてはならない。
 そう腹を決めると、デューラムは早足で歩き出した。
 医者の屋敷の前の通りは、普段ならばそこそこにぎやかな場所だが、さすがに今はしんとして人通りがない。そういえば、今は何時なのだろう。灰色の雲に覆い隠されて月は見えず、そのため、空の色を読むことに慣れたデューラムにも時刻の感覚はつかめなかった。深夜の鐘はもう鳴ったのだろうか。
 どこかで猫の鳴き声がした。先ほどダグラスの部屋でも聞いた、長く尾をひく発情期の声だ。デューラムは苛立つ。猫は嫌いではないが、こんなふうに気分が落ちつかない時には、さかり声が耳にひっかかる。夜の間、へたをすれば一晩中続くし、ときたま大声を出すのが気に障る。何より、まるで赤子のような声で不気味だ。どうやら何匹かの猫が前方の三叉路のほうにいるらしかった。
 その三叉路を右に曲がったときのことである。左から威嚇するような複数の唸りと鳴き声が聞こえた。かと思うと、三、四の影が、ものすごい速さでデューラムの足の横をすり抜けていき、彼はあやうくバランスを崩して転倒するところだった。影はそのまま一目散に道を走り去って行く。小さくてしなやかな、……思った通り、猫だ。
 ――と、
 つんと鼻をつく匂いがあった。
 (なんだ?)
 デューラムは眉を寄せる。嗅いだことのない臭いだったからではない、むしろよく知っている。しかし、こんな道ばたで嗅ごうとは思いもよらなかった匂いなのだ。しかもずいぶんと濃く、かつ何か別な臭気と混じったような……。あるいは、よく似た匂いの花なのだろうか。確かこんな匂いを出す木の花があると聞いたような――
 こんな匂いを。
 デューラムは立ち止まった。
 ――そんなわけがあるのか。これが花の臭い、植物の臭いだというのか?
 このむせ返るほどの生臭さが?
 三叉路に立ちこめたその異臭は、デューラムの左後ろのほうから流れてきていた。たった今、背を向けて走り去っていった猫どもがやってきた、その方向。デューラムの首筋、後頭部の毛の生え際と耳の裏に吹き付けてくる生暖かい風。巨大な動物の呼気のような湿った空気の流れが、その間違いようもない匂いを運んできている。さらには屎尿のような、体臭のような、野生の獣の強烈な臭気が混じり……。
 そして三たび、デューラムは「あの声」を聞く。今度はひどく大きく、近い。喉を鳴らす長いうめき、甘えるように抑揚する声。さかりのついた、つがう猫の声だ。どのような状況で出される声なのか、デューラムは知っている。猫の交尾の場に出くわすのは珍しいことでもない。雌の上に雄がのしかかり、雌を押さえつけてその首筋を噛み……、そして下になった雌が顔を上に向け、あのしゃがれ声で喉を震わせる……、そうだ、よく知っている。だが、一つがいの猫が出しているにしてはけたはずれの音量ではないか。――そして、何か、……あれは何だ? 獣の声のなかに時たま響く、あの声音はなんなのだ? 人間じみた、ある種の歓喜の色のような……、
 すぐ後ろだ。彼の立っている、そのすぐ後ろ。
 デューラムは振り返った。
 三叉路の向こう側の、彼が手にしたカンテラの灯りがぎりぎり届くか届かないかという境界で、何か白っぽいものが四肢を絡ませあっていた。毛のない、灰色がかった肌が蝋燭の灯りをかすかに照り返している。丸みを帯びた、のっぺりとした胴体。ひっきりなしに蠢く腕の先に確かに見える、五本の指。
 それは二つの人間の裸体のように見えた。道の脇の土の上に座りこむような格好で、二体ともにあちら側を向いているようだ。こちらには背中と脇腹を見せている格好である。だがいったいその二体がどのような体勢になっているのか、デューラムにはとっさに把握できなかった。彼の知っている人間の手足の構造ではまるで不可能な体勢をとっているように感じられたのである。両手両脚の動作も、とても関節と骨がある通常の人間の動きとは思えない。後方の一体は前の一体の胴に手足をぐるぐると巻き付けている。前の一体は、四本の四肢をばたん、ばたんとひっきりなしに動かしており、その動きはまるで蛸の触手か何かのようだ。
 胴体は異様につるりとして凹凸がなく、双方ともに男か女か、子どもか老人かもわからなかった。頭部から生えた長く黒い毛髪が、顔の大半を覆い隠している。後ろ側の一体は、いちじるしく発達した歯を剥き出し、相手側の毛髪を後方からくわえるようにしながら、くるくると鼻を鳴らしている。前側の一体は、髪を後ろに引っ張られて胸と喉をのけぞらせているが、その上を向いた口からひっきりなしに獣のさかり声が漏れている。
 その声音が波うち、高くなって、人のあえぎ声のように響くたびに、唇から白い液体があふれ出る。どろりと糸をひくその粘液は、濡れたように光る首元と胸の肌に、そして土の上に、幾筋もの線をひいて流れ落ちていく。
 ふと、後ろの獣がもう一体の髪を押さえつけていた口を離す。
 耳にまとわりつく鳴き声が止む。
 カンテラの灯りのなかで、二体の獣がゆっくりと顔だけをこちらを向ける。
 長い黒髪の隙間に見える、二つの顔の両まぶたの間から、何かが長く、長く、伸びて蠢いている、あれはなんだろう。涙を流すように目から垂れ下がった、何本もの肌色の触手のような、あれは、……、
 ……。


 それから何が起きたのか。その奇怪な生き物がデューラムに襲いかかったのか? いや、そうではなかった。二体はただそうやって、周囲に濃厚な異臭をまきちらし、獣の声で甘く喉を鳴らしながら、三叉路の横の道ばたで絡みあっていたにすぎない。デューラムは後ずさり、重なりあう二体の生き物に背を向けて歩き出したのだ。
 そして気がつけばデューラムは、ダグラスとツァランの家の玄関で、扉の内側に背をもたせかけ、目を見開いて床を見つめていた。
 真っ暗だった。扉の上にある明かり取りの窓からわずかな夜の光がさしこみ、そのなかで廊下や階段、家具の線がぼんやりと見えるだけだ。持っていたはずのカンテラはどこに置いてきたのだろう。まったく覚えていなかった。
 自分自身の荒い息の音が聞こえた。冷たい感触が顔の横を伝い、音を立てて床に落ちた。
 びっしょりと汗をかいている。
 ――ダグラスは、
 ――医者に行かなくては。
 ――ダグラスの様子は。
 鋭い頭痛が走った。デューラムは足を居間に向けようとしたが、とたん、バランスを崩して床に倒れ込んだ。全身が尋常でないくらい、がたがたと震えている。恐怖か? わからない。とにかくひどい震えだ。
 力の入らぬ足を引き摺り、腕で廊下を這うようにしながら、デューラムはほうほうのていで居間につながる扉を開けた。
 と、巨大な影がぬっと突っ立っている。デューラムは息をのんだ。
 真っ黒な影はダグラスの声で言った。静かな声だった。
「見たんだな」

 扉の向こうで、猫が鳴いている。









 玄関の扉は、中から板で何重にも打ち付けられていたという。
 というより、翌日クリッサがやってきたとき、デューラムはまさに扉を中から塞ごうとしている真っ最中だったそうだ。外に向かって開く扉だから、内側から多少の棒や板を打ち付けたところで、扉が開かないようにすることはできない。だがデューラムは、板切れや棒を手当り次第に中から戸口にめちゃくちゃに打ち付けて、戸口を完全に封鎖しようとしていたのだという。
 ダグラスが窓にやっていたのと、まったく同じように。
 玄関近くに置いてあった木の椅子や額、足台などは、斧で無惨に切り裂かれ、戸口を塞ぐための木片へと変えられていた。
 デューラム自身がやったことだという。
 彼にその記憶はまったくない。
 デューラムはツァランの部屋に運び込まれ、五日間寝込んだ。クリッサは奇々怪々な薬汁を作り上げて彼に飲ませた。池に生える藻のようなひどい味のする、この液体の記憶だけはデューラムの脳裏にこびりついている。意識がはっきりしてから、デューラムは自分の両手首と両足首に黒インキでびっしりと記号が描きつけられているのを見つけ、さらに鏡に映った自分の額にも奇妙な絵が描かれているのを見て驚くが、これもデューラムが朦朧としている間にクリッサがやったことらしい。
 ダグラスのほうは、クリッサが見つけたとき自分の寝室でぐっすり眠り込んでいたという。デューラムが周囲の木の家具をぶち壊している間も、クリッサとデューラムが戸口で押し問答をしている間にも、目を覚ましもせず眠っていたらしいのだ。彼もそのままデューラムと同じ処置を受けた。
 その二日後には、ダグラスの熱は下がったそうだ。
 だが、彼は片耳の聴力を失った。
 「熱のためかもしれないけど、わからないわね」とクリッサは言った。「窓のところに何度もやって来たっていうくらいだから、ダグラスの方がデューラムより強く感応したみたい。そのせいで耳がやられてしまったのかも……、わからないわ。でもおはらいを早めにすれば、もしかしたらなんとかなったのかも……。わたしがもっと早く来ていればよかったわ。ごめんなさい」
 いつになく落ち込んだクリッサの様子に、ダグラスは肩をすくめ、「まあいいさ、まだ一つ残ってるし。薬をくれて助かったよ」と言った。
 クリッサに少し遅れて仕事から戻ってきたというツァランは、ダグラスの耳のことを知って、やはり普段より寡黙なようだった。デューラムが彼の寝室を占領したせいで居間の長椅子で寝ることになったらしいが、いつもなら際限なく愚痴りそうなその件についても、とくに何も言わなかった。
 その後しばらく、夜道で猫の鳴き声を聞くたびに、デューラムはあの夜のことを思い出してぎくりとした。ダグラスも同じではないかと思われたのだが、驚いたことにたいして時間も置かず、ダグラスは自分で猫を飼いはじめる。そこで再度一悶着が起きるのだが、それはまた別の話になる。
 




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