瘧熱












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LOCKED WINDOW.







 ある冬の夕方のことである。
 ヘプタルクの街の一角、仕事帰りの人びとでほどよくにぎわう雑踏を歩いていたデューラムは、前方に見知った影を認めて足を止めた。暗い色の学帽をかぶり、たっぷりした外套のすそを揺らしながらこちらに向かって歩いてくるその男は、確かにここ数年来の飲み仲間である学士のツァランであった。この学士にはままあることだが、何か考え込むような顔、というより心ここにあらずといった面持ちである。
 デューラムはやや身体を横にひき、通りぞいの店の軒先に立って、友人が自分のところまでやってくるのを待った。ツァランは確かにそのままやって来た。だが、ぼんやりした顔つきのままデューラムのすぐ目の前を通り過ぎていく。
 デューラムは大きく咳払いをした。学士は振り返り、デューラムを認めて眉を上げた。
「これは青年。奇遇だな。調子はどうだい」
「まあまあさ」とデューラムは答えた。「友達だったはずのやつに無視されそうにならなければ、もっとよかったんだけどな」
 ツァランはばつが悪そうに笑った。「そう拗ねるな。どうもぼくは考え事をしていると目の前のことに気が行かなくなるたちでね。だが、きみのような男に珍しくも皮肉を言わせるほど気分を害してしまったとはな。申し訳なかった」
「そこまで害しちゃいないさ」とデューラムはぼそぼそ答え、「どこかに行くのか。まさかこれから仕事かい」と聞いた。
「そのとおり。塔に住みこんでる根暗で本だけがお友達な御仁連中は、下っぱ学士が仲間とささやかに楽しむ酒の夕べを奪っちゃならんなどという気づかいとは無縁と見える。明日の正午までに一仕事片づけろとのお達しだ。これから王立図書館に向かうところだ、今日はおそらく夜通し作業さ」
 ツァランのいう「塔」とは、街の学者たちが集う建物群のことで、都の南西部に固まって建っている。中心に高い塔が二つ、三つ立っているからこの名で呼ばれているのだろうと思うが、くわしい由来をデューラムは知らない。王の相談役だの、お大臣連中だの、あるいは大寺院のお偉いさんだのを輩出したりもする立派な機関らしいが、農作業の手伝いをして日々をすごすデューラムのような青年にはゆかりのない世界である。ツァランはこの塔にかかわりのある王立図書館というところで働く学士らしい。
「突然おしつけられた仕事なのか」
 ツァランは「あー」とあいまいな返事をした。「二週間前かな」
「べつに塔の御仁連中が気が利かないんじゃなくて、二週間前からこつこつやってれば、直前になって夜通し作業する必要もなかったとかそういう理屈じゃないだろうな」
「まあそう言うな」とツァランは肩をすくめ、「ところできみのほうはどうなんだい。もう日も暮れる、これから村に帰るんじゃ暗くなるぜ」
 ううん、まあ、とデューラムは答えた。「今晩はダグラスはいるのかい」
 デューラムの住む村カリャンスクは、市壁で囲まれたヘプタルクの都のすぐそばに位置する集落だが、それでもここから歩けば半日かかる。買出しなどで都に出てきた日には、そのまま帰れば真夜中になってしまう。ただでさえ日の短い冬のこと、真っ暗な道を一人でとぼとぼ歩いて帰るのは気の滅入るものだし、だいいち安全ではない。だから、そんなときには市壁の中に住む友人の家に一晩泊まって、ついでに軽く酒盛りをしていくというのが冬の間のデューラムの行動様式だった。畑から目が離せない季節と違って、今は数日家をあけてもとくに問題はおこらない。
「ダグラスか。いるよ」とツァランは答えた。「泊まっていくのか」
「そうしようかな。おまえが仕事で出ているときに悪いがな」
「なに、ちっとも悪かない」とツァランは言い、眉を引きあげて笑った。「よし、じゃあ今晩はダグラスを頼んだ」
「はあ?」
「実はだな」とツァランは腕を組んだ。「やつは熱を出してる。三日前からだ。ベッドでうんうん唸ってばかりで起きて来られん。仕方ないからぼくが家にいるようにしていたが、今日のところはぼくもさすがに塔に行かなきゃならない」
 デューラムは目をしばたたいた。「大丈夫なのかよ」
「まあな。ただの風邪だろう」
「しかし、病気ってんなら医者に見せたほうがいいんじゃないか。寝て治ればいいが、もう四日目になるんだろう」
「もちろんそれは考えた。あすクリッサが来る。今日来られればよかったが、大事な客の予定があってどうしても無理なんだそうだ。今晩をしのぐ人間が必要だった」
 クリッサは彼ら二人の友人で、町一番の魔法使いと噂される男の屋敷に見習い魔女として居候している女である。魔女や魔術師と医者とは専門領域が重なるものなのか、デューラムはつねづね疑問である。ただ、クリッサが様々な薬や軟膏、香料などに詳しいのは事実である。胃がむかむかしたときに飲む煎じ薬だの、額と鼻筋に塗れば頭痛が治る軟膏だの、湯に煮出したものを夜に飲むとよく眠れる香草だのを、デューラムも以前もらったことがある。
 だが、と彼は思う。
「クリッサばかりが医者じゃないだろう。だいたいあいつはまだ見習いじゃないか。町医者なんかほかにも色々いるだろ」
「まあな」とツァランは少し視線を泳がせ、「だが今回にかぎればクリッサを待つのが確実なんじゃないかと思った」
「じゃあクリッサが来るまで、あの彼女に頼んだらいいんじゃないか。金髪の――」と、デューラムはダグラスの新しい恋人を思い出しながら言った。ダグラスより二つ三つ年下の、色白でふくよかな女で、優しそうだがてきぱきと動く印象だった。名はなんといったか、パメラかロビンか。「ダグラスだって、むさい男に看病されるよりゃ、できたばかりの恋人にやさしく付き添われてたほうが嬉しいだろ。おれはろくに世話なんかできないし」
「それはあまりよくない」
「よくない?」
「リベカに看病させたせいで二人の仲に亀裂が入ったりしたら、ぼくもきみも寝覚めが悪いだろう」
 パメラでもロビンでもなく、リベカだったようだ。「なんで亀裂が走るんだ」
「ちょっと特殊な風邪のようでな。世話など大していらないが、できるだけ目を離すな。ひどく怒りっぽくなっていて、ちょっとでもやつの言うことを聞かないと予期できない行動に走る。押さえつけているのがよいと思う」
 ――目を離すな? 押さえつける?
 デューラムはあっけにとられていると、「見ろよ」と言って、ツァランが左腕を前にぬっと突き出した。外套の袖を引き、さらに下に着ていたシャツの袖もまくりあげる。その腕を見てデューラムは目を見開いた。肘から少し下あたりに、赤く焼けただれた傷跡が長細く、一直線に入っている。まだ新しい――せいぜい一日、二日前にできたものだ。
「窓を開けて空気を入れ替えようとしたら、とつぜん激怒して暖炉にささっていた火かき棒を投げつけてきた。それでこのざまだ。きみも気をつけてくれ」
 じくじくと爛れた傷口を見つめ、デューラムは「ひでえな」と呟いた。「しかし、いったいどういうことなんだ。すぐに暴れるような男じゃないはずだろ」
「知るものかよ」ツァランは神経質に笑った。「いずれ数年来の友人にすることじゃないぜ、もう少しで目に当たるところだった。実はおれは少しばかり頭に来ている。正直、もうやつの看病はごめんだと言いたい。きみに頼めたのは僥倖だった」
 ここまで来て、ようやくデューラムは先ほどツァランがリベカを呼ぶなと言った意味を了解した。病床のダグラスは、何故だかわからないが理性をひどく失ったような状態になっている。もともと6フィート(注:180cm強)を超える筋骨隆々の大男だし、暴れ出したら普通の男だって対処するのは大変だ。クリッサのような半魔女ならともかく、リベカは普通の女だし、ダグラスとのつきあいもまだまだ浅い。熱にうなされ凶暴化したダグラスにひどい仕打ちを受ければ傷ついて当然だし、下手をすればじっさいに怪我をするかもわからない、ということなのだろう。
「いったいなんの病気なんだ」
「わからん。風邪だ」
 意味の通じないことを言う。デューラムはげっそりした。何故おれが、と思わないではない。病床にある友達をほってはおけないのはもちろんだが、謎の症状に対処するすべを彼が知っているわけでもないからだ。しかし断るわけにもいかない。
「とりあえず今は近所のおばさんを呼んで、粥を作ってもらってるのと、それから洗濯を頼んでる。なにしろ汗がひどくてシャツがすぐびしょぬれになるようなんだ」とツァランは袖を下ろしながら、「解熱剤と煎じ薬はダグラスの部屋の机の上だ。夜にまた飲ませてくれ」
 デューラムは唸った。「おまえは明日帰ってくるのか」
「明日の晩になるだろう。昼にはクリッサが来るはずだ。……大丈夫だ、粥を食わせ、水を飲ませ、薬を飲ませて身体が冷えないようにしておけば、死ぬことはない。やつはもともと馬鹿みたいに体力がある。むしろ、発作的に屋根に上って飛び降りたりしないよう見張るのが重要かもしれない」
 デューラムは眉を寄せ、少し考えた。「わかったけどな。やばいと思ったら、おれは医者を呼びにいくからな。手遅れにさせるわけにはいかない」
「ああ」
 ツァランは大きく息をついた。一瞬、表情に疲労の影が見えた。ツァランには珍しいことである。それから彼は「それじゃあ」と手を上げ、塔のほうへと歩いていった。


 デューラムを出迎えたのは、エプロンをした小太りの黒髪の中年女だった。人がよさそうな顔つきをしていたが、落ち着きがなく、そわそわとしている。濡れてもいない手を、むやみやたらに前かけで拭いているのが気になった。ダグラスの様子をデューラムが聞いても、「さあ、あたしも台所にいたし」と言葉少なに答えるばかりだ。
 台所にはポリッジ(注:麦を牛乳や水で煮た粥のこと)がいっぱいに入った鍋があり、また暖炉のそばやソファの横など、いたる所にシーツやシャツが干してあった。ツァランが彼女に頼んだ家事はひととおり済んだと見えたので、デューラムは女に今日はもう帰ってもらってかまわないと伝えた。女はあからさまにほっとした顔をした。
 玄関先で彼女はデューラムに顔を寄せてこう言った。
「多少の家事ぐらい、困ったときにゃおたがいさまって引き受けたけどね、なんだい、あれは? 正直言っておそろしいわ」
 デューラムは眉を寄せた。女はきまりが悪そうに視線を動かし、「でも洗濯くらいなら手伝いますよ。明日また来てもいいわ。早くよくなればいいけどね」と言った。
 嘘を言っているわけではないのだろう。悪い女ではないのだ。デューラムは「ありがとう」と言った。女は申し訳無さそうに、そそくさと出て行った。
 その扉が閉まるか閉まらないかという時である。家の奥から太い唸り声が聞こえた。まるで雄牛の苦痛の咆哮だった。くぐもった、だが捻れるはらわたから絞り出されるような声である。デューラムは驚いて居間を抜け、奥にあるダグラスの寝室に飛び込んだ。
「ダグラス!」
 見知った友人は、暗い部屋の中にいた。自分の寝台の上で上体を起こし、前屈みになり、頭を抱えている。分厚く筋肉のついた肩が上下に大きく動いていて、荒い息の音が聞こえた。まくりあげたシャツからむきだしになっている腕が、窓の隙間から差し込む細い日光を照り返している。
 びっしょりと汗をかいているのだ。
「くそやろうが」と、頭をかかえたままダグラスは呻いた。「失せろ、消えてなくなれ――どこかに行ってしまえ!」
 その悪態にデューラムは一瞬たじろいだが、自分に向けられた言葉ではないことは、なんとなく察しがついた。まるで両腕で抱え込んだ己が頭に向かって言っているような、そんな調子だった。
「ダグラス?」
 デューラムはもう一度、友人の名を呼んだ。ダグラスは前屈みになったままの姿勢でちらりとデューラムのほうに目をやり、また「くそやろうが」と繰り返した。それから茶色の髪をかきむしり、
「水」
 と言った。
 寝台から少し離れた小さなテーブルの上に、水差しとカップが乗っていた。隣には紙包みも見える。おそらくツァランの言っていた、クリッサの解熱剤と煎じ薬だろう。デューラムはテーブルに歩み寄り、カップに水を注いでダグラスに差し出した。ダグラスが震える手でカップを一気にあおると、水が胸元にこぼれた。だがダグラスは気がついてもいないようだった。
 デューラムが部屋の「異変」とでも言うべきものに気づいたのは、このときである。部屋が異様に暗いのだ。時刻はすでに夕方だが、日は完全には沈んでいない。外はまだ十分に明るくて、灯りをつけるにはまだまだ早い。加えてダグラスの部屋は、裏通りの小道に面した壁に窓があって、夕方には西日が差し込んでいたはずだ。ところが、なぜ今日ばかりはこんなに暗いのか。カーテンでも引いているのかと目を凝らして窓を見、デューラムはぎょっとした。
 窓は内側から板を打ちつけられていた。斜め、縦、横、さらにもう一つ斜め、縦、横といった具合に何枚もの長い板が重ねられており、その板の一枚一枚につき、何十本もの釘が使われている。釘は方向もばらばらのまま、金鎚でめちゃくちゃに打たれており、板からひしゃげて飛び出し、あるいは曲がったまま木の中に潜り込んでいた。幾重にもなる板のせいで、窓が内側に盛り上がっているかのように見えた。ぶくぶくと膨れ上がる粘菌か何かのようだ。
 異様だった。誰がやったのだろうか。
 まさかダグラス本人が?
「デューラムか」
 しゃがれた声が言ったので、デューラムはぎくりとし、視線を部屋の主に戻した。
「何しに来た」
「何しにって、おまえが熱を出しているっていうから付き添いに来たんだろ」デューラムはつとめて平静を装って答えた。部屋の隅からスツール(木椅子)を引っ張ってきて、寝台の横に腰かける。「すごい声を出してたぞ。どこか痛むのか」
「痛みやしねえ」
「じゃ何だ」
「やつらが……」
「やつら?」
 デューラムは聞き返したが、ダグラスは聞いていなかった。ぶるっと体を震わせると、毛布の中にもぐりこむ。くぐもった声で、「ツァランのやろうに言われたのか」
「まあな」
「あのおせっかいが」とダグラスは毛布の中で悪態をつく。ひどい寒気がするのか、声が震えている。「付き添いなんざいらねえと言ったんだ。おまえは酒でも飲みに行け」
「そういうわけにはいかないよ。ツァランに会ったのは事実だが、あいつに頼まれなくてもおまえのこの状態を見たら看病が必要だと思うだろうさ。おまえ、死人みたいな顔色をしてるぞ。歯もがちがち鳴ってる」
 ダグラスは呻いた。悪寒があるならと、デューラムは追加の毛布を取りにいこうと歩きかけたが、ダグラスの寝台をよく見てみれば、すでに5、6枚かけている。これまた奇妙だった。いずれにせよ、6枚で駄目なら7枚でも駄目だろう。
 嫌な気分がした。
 ダグラスの容態が思わしくなさそうだという不安も、もちろんある。否、デューラムが抱いているのはまさにその不安である。だが、その「容態」から感じられる違和感と落ち着かなさは、ツァランが言ったような「ただの風邪」にあるべきものより、もっと暗く底深いものである。目の前で毛布にくるまる大きな人型の塊が、まるで見知った友人ではない、何か異物のような、……。
 デューラムは頭を振り、その思念を追い払った。
 ――ばかばかしい。
「粥、食うか」とデューラムは尋ねた。
「いらん」
「今日は何か食ったのか」
 ダグラスは答えなかった。デューラムは立ち上がると台所に足を運んだ。鍋のポリッジに蜂蜜をかけたものを持ってきて、寝台わきの台に置く。
「できるだけ食べるようにしろよ」
 毛布にくるまるダグラスは、うんともああともつかない生返事をした。デューラムはその様子を眺めていたが、思い切って聞いてみた。
「あの窓はずいぶん頑丈にしてあるな。眩しかったのか」
 ダグラスは答えなかった。
「おまえが自分でやったのか?」
 やはり答えはなかった。
 デューラムは溜息をついた。小腹もすいてきたので、自分の分も台所から少し取ってこようと立ち上がりかける。そのとき、ダグラスが何か唸ったようだった。聞き取れず、デューラムは眉を寄せた。
「なんだって?」
「開けるなよ、デューラム。絶対に」とダグラスは呻いた。「あの窓を絶対に開けるな」






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