主は来たれり














HE LORD IS COME.








 虫の知らせがなかったわけではない。
 あのとき、どうしようかと悩んだ瞬間に、首の後ろのあたりにちりりと妙なかゆみが走ったではないか。
 石造りの壁にぽっかり縦に開いたあの空間が、やけに暗く見えるなと、そう思ったではないか。
 だが予兆などというものはいつだって、何かが起こってしまってから気まぐれのように記憶に浮かび上がるにすぎない。ああそうか、あれが予兆だったのか、と。顎に生えた無精ひげのむずがゆさも、無意識に拳をきつく握りしめていたことも、ごくかすかな耳鳴りも、そのときには気に止めやしないのだ。何かを避けえたときも避けえなかったときも、いずれすべてが起こってしまってから、彼は予兆があったことを思い出す。
 おかしな話だと彼は思う。予兆の方が後なのだ。
 わけがわからない。
 だけれども、ダグラスにとっての虫の知らせは、いつもそんなふうだった。
 今日もまたしかり、である。
 
 
 ダグラスは急いでいた。だからこそ本当は慎重になるべきだったのだ。たとえずいぶん効率のいい近道に見えたからと言って、どこに通じているかもわからない裏道に足を踏み入れるべきではなかった。時間の無駄になることだって十分考えられたのだ。
 いやむしろ、ただの行き止まりでありさえすれば、どれだけよかったことか。
 あの気の短い娘のきげんを損ねただけで済んだのだ。
 いずれにせよ、もう遅い。後悔はいつだって先には立たず、予兆すらも実のところ先に立ったためしがない。人生を決する重要な瞬間は、いつもそうと知れずに起こっているのだ。
 生死にかかわる選択ですら。
 建物と建物の間の暗い隙間に身をひそめ、大きな身体を壁にぴったりと張り付かせながら、ダグラスは息を殺し、目をつむり、ただ願っていた。
 “それ”が通りすぎてくれることを。


 ことの起こりは、一刻程前にさかのぼる。その日用心棒の仕事が早くに終わったダグラスは、行きつけの酒場<まだらの竜>亭でエールのジョッキを傾けつつ、酒飲み仲間がやってくるのを待っていた。ところが仲間のひとり、赤毛の娘エーリーンが彼に加わってほどなくして、彼はほかに用事があったことを思い出したのだ。
 数日前に借りた金を返しに行くと仕事仲間のクレイグに伝えていたことを、ダグラスはすっかり忘れていたのだった。クレイグは今日は大ヤルミラ通りの酒場にいるはずだと言ったから、そこにおれが返しに行くよと、そう言ってあったのである。
 ほかの飲み仲間はまだ誰も来ていない。やってきたばかりのエーリーンを放り出してクレイグのもとに行くのは気がひけた。それでも、いっぺんこの日に返すと約束した金だ。たいした額ではないが、友達同士の信頼関係の問題である。
 大ヤルミラ通りは<まだらの竜>からさほど遠くない。だからダグラスはエーリーンに、行かなきゃならん用事を思い出した、すぐに戻ると言い残して酒場を出てきたのだ。
 ところが、いざ大ヤルミラ通りに行ってみると、まだ晩も浅いというにクレイグはべろんべろんに酔いつぶれていた。どうも午後早くからひとりで飲みふけっていたらしい。もともと酒癖の悪い男である。そんな状態で借りた金を渡したところで、家に帰り着くまでに財布ごとスラれるのは目に見えていた。加えて、立ち上がれもしないほど前後不覚になったクレイグに酒場の店主もほとほと困り果てていたものだから、ダグラスは仕方なく彼を担ぎ上げて家まで送って行ったのだ。
 ドア・ノッカーの音に迎え出たクレイグの奥方は、亭主の醜態を目にするなり怒髪天を突かんばかりの剣幕を見せた。玄関先に突っ立ったままの奥方のすきまからクレイグを押し込む事もままならず、ダグラスは場を辞する機会を逸して途方にくれた。結局、たっぷり半刻もろくでなしの夫についての愚痴を聞かされたのち、ダグラスは彼女の手に金を押し付け、ほうほうの体(てい)でその場を逃げ出したのだった。
 ――エーリーンは怒っているだろうな。
 半刻以内に戻ると言って出てきたが、もうずいぶん時間が経っている。行きにはうっすら明るかった西の空も今ではすっかり暗くなり、遠目に見える寺院の鐘楼の横で星がちかちかとまたたいていた。
 <まだらの竜>亭に戻る道を、ダグラスは早足に歩んだ。クレイグの家のある地区と<まだらの竜>の間には直接つながる通りがなく、いったん正反対の方向に向かうようにして、ぐるりと大きく迂回しなくてはならない。
 ――この家どもをひょいと飛び越えれたらなあ。
 壁と壁を接し、途切れる様子もなく何十軒も立ち並ぶ下町の住居群を恨めしい思いで眺めていたダグラスは、ふと眉を寄せて立ち止まった。道に沿って伸びている建物の壁のあいだに、大きく開いた陰を認めたからだ。
 そんな場所に道があった記憶はない。だが近づいてみるとたしかに路地だ。先は夕闇の中に溶けていて見えないが、すぐに行き止まりになっている様子はない。向こう側まで突き抜けているとしたら、表通りを行くより何倍も近道である。
 ――行ってみるか。
 途中で厄介に曲がりくねっていたら、という懸念がちらりと頭をかすめる。が、近道などというものは冒険心がないといつまでも発掘できない。ダグラスは思いきってその路地に足を踏み入れた。


 人気のない道だった。高い壁に両側を囲まれた道は暗く、時おり建物と建物のあいだの隙間が袋小路のように左右に開いている。
 しばらく歩いていると、ぶうんと一匹の蠅が頭の回りを飛んだ。暖かい季節になってきたから、虫が出てきているのだ。わずらわしい羽音を響かせるその蠅を手で払いつつ、思ったより長い路地だな、とダグラスは考える。向こう側の通りの明かりも喧噪も、まだ感じられない。加えれば、誰も後ろからはやって来ず、誰一人としてすれ違いもしない。
 あまりに静まり返った雰囲気をダグラスが奇妙に思い始めたころ、前方から明かりが近づいてくるのが見えた。よくはわからないが、ランタンか何かを手にした人影と見えた。また一匹、頬のあたりをうるさく飛んだ蠅を手で払いながらも、ダグラスは人の気配にほっとした。すれ違うときに声でもかけてやろうかと、そんなことを思いながら足を進める。
 周囲の建物は変化もなく延々と続いている。妙に長々と伸びた気分にさせるこんな路地を誰が作ったんだとダグラスは思う。もうずいぶんと長いこと歩いているような、いやそれも錯覚にすぎないのだろうが、……
 そこまで考えて、ダグラスは立ち止まった。
 おかしい。
 肩に止まった蠅を追い払い、前方の明かりを見つめる。人影はこちらに向かっているはずだ。こちらはあちら側に向かって歩いている。もうとうにすれ違っていいころだ。なぜいっこうに距離が近づかない?
 そしてこの蠅は一体なんなのだ。ダグラスは新たに腕に止まろうとした蠅を、周囲を飛び回る四・五匹ごと、いらいらと手で払った。たしかに季節はもう暖かいが、この道の蠅の多さは尋常でない。前に進めば進むほど数がどんどん増えていく。まるで前方に何かがあるような、
 ――たとえば、巨大な死体でも横たわっているような。
 明かりをもつ前方の影はたしかに少しずつ大きくなっている。だがその速度はまるで亀が這いずるかのように遅い。いまだにその影が男か女かすらダグラスには判別できなかった。ランタンの明かりの中にシルエットが黒くぼんやりと浮かび上がっているだけで、その輪郭しか、
 いや。
 突如としてダグラスは悟った。彼は悟り、それと同時にすぐ右に開けた建物の隙間にとっさに飛び込んでいた。人ひとりがぎりぎり嵌れる程度の空間の、その壁に背をぴったりと押しつけ、ぜいぜいと荒くなりそうな息を必死に押し殺す。何を考えるひまもなかった。こちらに向かってくる“それ”に対する本能的恐怖が、ただ彼の身体を動かしたのだ。
 あれは何かのシルエットなどではない。
 近づいてくる“あれ”じたいが真っ黒なのだ。
 その真っ黒な身体からひっきりなしに無数のごま粒のようなものが空中に飛び散り、また表面に吸い付いている。隙間に飛び込む寸前に、ダグラスはそのことを認識したのだった。
 蠅だ。
 おびただしい数の蠅が手から足から顔から、つま先から頭の先にいたるまで全身をびっしりと覆いつくしている。それがゆえに“あれ”は真っ黒なのだ。前方からこちらへ向かってくるのは、人の形をした蠅の塊なのだ。
 どっと汗が噴き出した。
 その蠅の塊がなんなのか、ダグラスにはわからなかった。人かもしれなかったし、彼の想像を超えた何かかもしれなかった。いずれにせよ――たとえ人であったにせよ――見てはならない何かであると、彼の内部の声が鋭く叫んでいた。
 “それ”は少しずつ近づいてくる。いまや、一歩石畳に足が踏み出されるごとに濡れた音が響くのまでもが聞こえてきた。剥いだばかりの動物の生皮を地面に叩きつけるような、重みと粘りけのある音。その足音に蠅の唸りがぶうんぶうんと絡みつく。腐敗が進んだ何かの刺激臭が鼻をついた。
 このまま行けば、“それ"はダグラスが身を隠している隙間のすぐ横を通り過ぎていくだろう。もしかしたら全速力で表通りまで逃げるべきだったのかもしれない。だが、あのときはとっさにもう遅いと感じたのだ。回れ右をして逃げて間に合うものではないと、身体のどこかが伝えたのだ。だからこの隙間に逃げ込んだ。
 不快な脂汗が背中を幾筋も流れ落ちる。握りしめた手のひらがやけに滑る。あれはこちらに気づいているだろうか? 気づかれたらどうなるのか? いや、気づく気づかないなどという、人のけちな思惑の領分ですらなく、あれは、……
 ともすればがちがちと鳴り出しそうな奥歯を顎が痛くなるほど噛みしめて、ダグラスは考える。
 ――そうだ、あそこに路地など開けているはずがなかった。
 何度も通った道なのだ。いつでもぐるりと大きく通りを迂回しなければならないから、近道を探したけれども一つたりとて見つからず、……
 そもそも考えてみるがいい。微細な血管のように路地が複雑に分岐したこの下町で、なぜ直線距離にしてみればごくわずかでしかないあの二つの通りの間だけ、いっさいの路地が存在しないのか。
 なぜ、大小を問わずあらゆる道が、この場所を避けて作られているのか。
 なぜ、その迂回路に立ち並ぶすべての建物は、扉も窓も外側に向かって――つまり“ここ”に背を向けるようにしてしつらえられているのか。
 まるで内側にある何かからことごとく目を背けているかのように。
 それが目にしてはならないものであるかのように。
 ――ここは一体なんなんだ。

 
 重く濡れた足音はどんどん近づいてくる。異様な気配と強烈な異臭が満ちた濃厚な空気はすでに蠅の大群で覆い尽くされており、黒い小さな羽虫がぶうんぶうんと耳障りな音を立てて、ダグラスの手に、耳に、首に、顔に、ひっきりなしに止まってはまた飛び立つ。そのむずがゆい感覚に気が狂いそうになるが、動けない。ランタンの明かりがすぐそこまで近づいている。あと十数秒で“それ”は彼の横に来るだろう。もう何年も切ったことのない神のみしるしを胸の前で素早く刻み、ダグラスは目を閉じた。
 もうできることは何もなかった。
 ふと、唸る蠅の羽音に混じって甲高いささやきが聞こえた気がした――近づいてくる人影からか? 重い足音のせいでよく聞き取れない。まるで幼児のような、舌ったらずの、それもひとつではない。何十ものブレて重なる高く幼い声が、“それ”の表面で何かをわんわんと異口同音に叫びつづけて、――何を言っている? 何を、……


 「主は来たれり! 主は来たれり! 主は来たれり! 主は来たれり! 主は来たれり! 主は来たれり! 主は来たれり! 主は来たれり! 主は来たれり! 主は来たれり! 主は来たれり! 主は来たれり! 主は来たれり! 主は来たれり! 主は来たれり! 主は来たれり! 主は来たれり! 主は来たれり! 主は来たれり! 主は来たれり! 主は来たれり! 主は来たれり!」
 「主は来たれり!」
 「主は来たれり!」
 「主は来たれり!」





 ダグラスは目を開けた。
 ランタンの光は失せ、周囲には路地裏の暗闇が戻っていた。
 不気味な足音も奇怪な子供の合唱も聞こえず、蠅の大群はどこかに去っている。
 心臓がいまにも破れんばかりに激しく脈打っていた。汗の粒がひんやりとした感触となって首筋を伝わり落ちる。
 ――助かったのか。
 彼は大きく息を吐いた。
 周囲は静まり返り、まるでつい先ほどの体験がすべて夢だったかのようだ。
 ――何がなんだかわからんが、とりあえず、助かったのなら。
 壁際に張りついたまま、ひとり安堵の苦笑を漏らす。気持ちを落ち着かせようと数回深呼吸をして、
 そこでダグラスは、突如として胃からせり上がってきた強烈な吐き気に口を押さえた。
 匂いが。
 日なたに放置された魚の内蔵を大量にかき集めたような刺激臭が、先ほどとは比べものにならないほど、強く、……
 ――そんな馬鹿な、だって音はもう聞こえないし、明かりだって、蠅だって、……
 ダグラスは震える手で口元を押さえたまま、ゆっくりと横に目を向けた。
 そうして彼は見る。彼のいる隙間の入り口、たった二フィート(注:約六十センチ)の場所に“それ”が立っているのを。その顔の表面に、びっしりと羽虫の群れがひしめいているのを。蠅どもは空中を舞うのをやめ、かわりに小刻みにわななく無数の薄い羽の下で何千何万の虫の腹を蠢めかせている。
 眉もなく目もなく髪もない――あったかもしれないが、すべては蠅に覆われて見えもしない――その人影の口の部分が、頭の半分まで刃物で切り裂かれたようにぱくんと横に割れた。その奥から円柱状の長いものが、ぬ、ぬ、と突き出ると、ダグラスの顔に向かって伸びてくる。薄い夜の光の下で、その表面が桃色に濡れて光る。舌だ。長い、長い舌。微細な白い粒粒――うじ――が、ぽろぽろと割れ目からこぼれ落ちる。むっと強まる刺激臭が、もう耐えがたい程度まで、……
 その舌はダグラスの顔にまさに触れんばかりの位置で動きを止めた。大量の粘液を滴らせる先端に、嬰児の顔を思わせる皺が刻まれているのを彼は見た。まだ目の開かぬその嬰児は、限界まで伸びきった身体をまだ伸ばそうとするように二、三度のたうってから、ぱくりとその口を開いて一言、叫んだ。
 
 「主は来たれり!」










 「おれがおぼえているのはそこまでさ」
 酒精の高さと悪酔いで悪名高い<鉱夫の火酒>の杯を啜ってから、ダグラスはそう言った。
 「地底の大王の名にかけて!」
 さすがに気分の悪くなったデューラムは、火酒の瓶の横にある水差しに手を伸ばした。「なんて話だ……、よく帰ってきたなあ、おまえ」
 カップに注いだ水を一口、二口ふくんで深呼吸をしてから、デューラムは窓から外を見やった。彼らが今日集まって酒を囲んでいるダグラスの家は、<まだらの竜>から少し歩いたほどの距離だ。ダグラスの話が本当ならば、ここからほど遠くない場所に、そのぞっとするような奈落が口を開けていることになる。
 「まあ、あまりスマートな帰り方ではなかったがな」と、ダグラスの相棒ツァランが自分の杯に火酒を注ぎつつ、
 「次の朝方、表通りでひっくり返って吐瀉物にまみれてるところを、親切な仕事仲間らが助けてくれたのだそうだ。おかげでここ最近、<げろ丸太>とかいう甚(はなは)だ不名誉なあだ名で呼ばれているのだぜ、こいつは」
 「生まれたときから頭の中にゲロしか詰まってない奴が何をえらそうに言いやがる」
 ダグラスは口のへらない同居人を睨みつけてから、顎の無精髭をひねった。「それにしても、この街にゃあ変な場所がいくつもあるとは聞いてたし、おれも気味の悪い経験をいくつかしてきたが、今回のはさすがに肝が冷えたぜ。しばらく近道はしないと決めた」
 「まあそれが安全かもしれないな」とツァランが肩をすくめ、
 「それにしても、街の路地のつくりに色々とおどろおどろしい謎があるのは本当らしい。たしかに地図で見ると、意図のまったくわからない構造になっている場所がいくつもある。あの二つの通りの間にいったい何があるのか、大いに興味をそそられるが、一度首を突っ込むとそれこそ帰ってこられなくなるかもしれないな」
 「しかし、そんな化けもんでも人殺しの追いはぎよりゃましなのかもしれないぜ」と、デューラムは酒のつまみの薫製干し鹿肉に手を伸ばしながら、「じっさい、そういう怖い話をする奴ってのは、たいてい生きて帰ってきてるじゃないか」
 「――おい青年。ひとつ言っておくが」
 ツァランが片方の眉を持ち上げる。
 「ぼくらが耳にできるのは、たった一握りの運のよかった者どもの話だけかもしれんのだぜ。二度と帰ってこなかった無数の人間たちの物語を、どうしてぼくらが知りえるというんだ?」



励みになります ↓



 NOVEL INDEX  TOP