風哭き声














AMENT OF THE WIND.







 朝から降り続いている雨は、夕暮れどきの今になってもやむ様子がない。濡れそぼった革靴の中で、一歩ごとに足がぐしゅぐしゅ音を立てる。外套のフードを下ろしていても、雨は繊維の間をくぐって下に入りこみ、顔も、髪も、上着もびしょぬれにしていく。下着がぴったりと肌に貼りつく感覚が不快だった。
 二日前の夜に王国中を襲った嵐は、一晩中荒れ狂い、びょうう、びょううと甲高く哭(な)いて戸をがたがた鳴らしたのち、ようやく朝方去っていた。それでも太陽はまだ見えない。曇天と雨がずっと続いている。
 デューラムは溜息をついた。早く行きつけの酒場に着きたかった。春も半ばをすぎたというのに相変わらず冷たい雨のことを、赤々と燃える暖炉のそばで忘れてしまいたかった。軽く小腹もすいていて、<まだらの竜>亭ご定番の揚げじゃがが恋しい。湿った空気を吹き飛ばすために、今日はなんなら大ぶりの焼きソーセージくらい注文したっていい。
 けれども、ここはまだ市壁の外である。もう少し歩く必要があった。
 ――やれやれ。
 デューラムはあたりを見渡した。上げた顔にぽつぽつと雨が当たる。周囲の町並みは、彼の飲み仲間が暮らす市壁の中の下町とはまた違った雰囲気だった。建物がごみごみと密集しているのは変わらないけれども、赤煉瓦づくりの壁がそのまま露出した長屋が多く、視界に映る色が、まず市壁の中とは違う。なんでも、このあたりは比較的新しい街になるらしい。別な場所から移住してきた人々が何世代か前に居着いて壁回りの街を形成したのだと、以前に聞いたことがあるような気がする。
 この地域にデューラムはあまり詳しくない。だが今日は、安くて腕のいい研ぎ屋がいるという噂を聞いて、わざわざ足を運んだのだった。愛用の鎌の刃を、去年うっかり欠けさせてしまっていたのだ。
 噂に聞いた研ぎ屋の親父は赤ら顔の小柄な男で、初客のデューラムにも人なつこく対応してくれた。刃研ぎの腕もなかなかのものだった。そのいっぽうで、どこかとらえどころのない雰囲気もあり、言葉尻のユーモアにかすかな皮肉っぽさを混ぜては、デューラムを返答に詰まらせた。デューラムはその親父の訛りをどこかで聞いたことがある気がしたのだが、とっさには思い出せなかった。
 デューラムは顔に垂れてきた雨水をぬぐうと、歩き出した。市壁まではもうすぐで、あと少しのしんぼうだ。
 と、そのとき彼は前方に人影を見つけて足を止めた。
 人気の感じられない街というわけでもない。この天候でも外に出ている人はいて、先ほどから何人かすれ違っている。それでもこのときデューラムが立ち止まったのは、その人影が、建ち並ぶ家の一軒の前で足を抱えてうずくまっていたからだった。
 デューラムはいぶかしく思いながらも歩み寄った。遠目からは子どもなのかと思ったが、近づいてみると、どうやら大人の女のように見えた。長い灰色の衣服を身に着けている。体をちぢこまらせるようにしゃがみこんでいるものだから、黒く長い髪は地面の水たまりに届きそうだ。若いか、年寄りかはわからない。うつむいているから表情が見えない。
 雨音にまじって、ごくかすかに、しゃくりあげるような声が聞こえた。
 泣いている。
 「大丈夫か?」デューラムは尋ねた。「気分でも悪いのか」
 女は答えなかった。彼に気づいているのかどうかも不明だった。顔を上げることすらせず、静かにすすり泣いているだけだ。
 「おい、大丈夫かって」デューラムはもう一度尋ね、それから――もしかして耳が聞こえないのかと思い、そっと女の肩に触れた。「誰か呼ぶか?」
 すると、女は初めて顔を上げた。
 若い女だった。とりたてて目立つところのない風貌だ。だがデューラムは一瞬、奇妙な違和感をおぼえた。なぜかわからない――どこがおかしいのかわからない。そして、その違和感の原因を突き止める前に、泣きはらした女の目はふたたび下げられてしまった。女はデューラムなど見なかったように、ふたたびうつむいて、うずくまった体勢のまま、しくしくと泣きつづけた。
 デューラムは溜息をついた。――雇い主にでも叱られたか、あるいは男と諍いでも起こしたか? いずれにせよ、彼に助けを求めているふうでもなかった。彼は肩をすくめると、「風邪ひくぜ」と言い残し、その場を後にした。


 <まだらの竜>亭に着いてみると、すでに何人かの仲間が集まっていた。考える事はみな同じだったようで、店の隅のテーブルの上には大皿の揚げじゃがと、ちょっとした肉料理が乗っている。三人ほどの仲間は一様に背を丸め、杯を口に運びながら、何かをひそひそ話し合っているようだ。そろそろ混み合い出したカウンタでエール酒を頼んで、デューラムはそちらに足を向けた。挨拶がわりに皿の芋に手を伸ばしつつ、近くにあった空き椅子を引き寄せて仲間のあいだに割り込む。
 「よう、どうした、湿っぽいな」
 「おう」と仲間の一人、ダグラスが答える。「今日は朝早くから仕事に出てたもんでなあ。疲れちまった」
 ダグラスの仕事は用心棒である。商店や、酒場、ちょっといい宿屋などで、出入り口に立ってスリやコソ泥のたぐいが入ってこないか見張りをしたり、酒癖の悪いのを追い出したり、荷物の運び役をしたりしている。体格がよく腕っぷしも強い男だから、なかなかにふさわしい仕事と言える。
 軽く手を挙げてデューラムに挨拶を返したツァランが、すぐに視線をダグラスに戻す。
 「じゃあ、その嵐が呼び声だったというのか? たしかに二日前の嵐は不気味だったな。ぼくも何度か風の声を人の叫びかと思ったぜ」
 「うんにゃあ」と、ダグラスは肯定とも否定ともつかない返事をした。「それなんだよ。女の金切り声がなあ、聞こえたって同僚がいるんだ。真夜中、嵐のさなかにな。風の音だろうって言ってやったんだがな。いや絶対に女の悲鳴か叫び声だったって言いやがる。そいつはてっきり、どこか近くで女が絞め殺されたのかと思ったらしい。それくらいはっきりした断末魔だったと」
 「でも、夜が明けてもそんな話は聞かない、と。かわりに……」
 「……あの坊主の父親が死んでた」と、ツァランの言葉をダグラスが鬱々と引き継いだ。
 「なんの話だ?」とデューラムは眉を寄せ、「やけに不吉な話をしてるなあ」
 「仕事仲間の方に不幸があったんですって」と、これは今日の四人のなかでは紅一点のアルマだった。必要以上に声をひそめているあたりが丁寧すぎてなんともおかしいが、彼女はいつもこんなふうである。
 「そのひとが来られなかったもので、ダグラスがその分まで仕事に入ることになったんですって。それで一日立ち通しだったらしいの」
 「新入りの若造で、ひとり二十歳にも満たないのがいてなあ」と、ダグラスが顎の無精髭をひねりながら、デューラムに説明してくる。「まだいかにも青い小僧って感じなんで、おれたちは坊主坊主って呼んでるんだが、そいつの父親が昨日、死んだ。おれも明日葬式に行こうと思ってる」
 「そりゃ御愁傷様だな……」
 デューラムは濡れた外套を脱いで、暖炉に近い側の椅子にかけた。靴も脱いでしまって、椅子の上であぐらをかく。「けっこう年いってたのか、その親父さん」
 「それがなあ、まだ五十前で、ぴんぴんしてたんだよ。おれも一度か二度、会ったことがある。ちょっと太ってたが元気な仕事盛りの親父だった」
 ダグラスはそう言うとジョッキのエールを啜った。「なのに、その朝――嵐の明けた朝だがな、呼んでも呼んでも起きてこないんで見に行ったら、布団の中でつめたくなってたらしい。眠ってるようだったと。……で、その同僚はな、嵐のなかに聞こえた泣き声が、坊主の親父が死ぬ前ぶれだったんだって言いやがる。そういう女がいるんだと。誰かが死にそうになると出てきて、おいおい泣く女の幽霊が」
 「でも、偶然じゃないかな」と、アルマがいつもながら慎重に、「元気そうでも体に無理がかかってる人はいますよ」
 ううん、とダグラスは唸った。「やっぱりそうかな」
 「夜に泣いて人の死を知らせる女というと、泣き女(バンシー)だなあ」
 芋をかじりながらツァランが言う。こんな下町の酒場に出入りしているけれども、この男は一応学士のはしくれで、日々の生活の役に立たないことを色々と知っている。
 「辺境の叙事詩にそんな妖精が出てくるぜ。灰色の服を来た女で、長い慟哭で人の死を知らせる」
 茹でソーセージの一本に手を伸ばしかけていたデューラムは、そこで手を止めた。「灰色の服?」
 「……なんだ、デュール」と、突然会話に割り入った彼をツァランはけげんそうに眺めつつ、
 「まあ、バンシーは若かったり老婆だったり、黒い髪をしてたり金髪をしてたり、肌が黒いとか白いとか、いろんな風貌で出てくるから、詳細は眉唾だがな」
 「それだ」とダグラスは指でツァランをさした。「バンシー。その同僚、そんなことを言ってやがったぜ。灰色の服を着てるんだろ? その坊主の話によるとなあ、嵐の前、その親父が仕事からの帰り道に家の前で変な女とすれ違ったと言ってたらしい」
 エールを口に運びかけていたデューラムは、思わずジョッキを下ろしてまじまじとダグラスの顔を見た。
 とくにそれには気づかぬ様子で、ダグラスは続ける。「長い髪の女で、ずっと下をうつむいてるんだそうだ。どこか気分でも悪いのかと聞いても、答えやしないし、顔も上げやしない。しくしく泣いてるだけだ。親父は家に入って来るなり、その坊主にあの女を泣かせたのはきさまかと聞いたんだそうだ。坊主が何事かと思って外に出てみると、その女はもういなかったらしい。――その翌日だ、親父が死んでいたのは」









 ――偶然だ。
 灰色の服などありふれている。長い髪の女というが、大半の女の髪は長いではないか。黒髪だって珍しくはない。さらに言えば、若い娘なんて泣いてばかりいる生き物だ。
 デューラムの見たあの女が、恋人と喧嘩したか、親に叱られたかは知らない。だが泣いている娘とすれ違うなんて珍しくもない。繁華街で夜遅くまで飲んでいれば、そういう女を一晩に三人は見かける。
 いや、三人は言い過ぎか。でも一人や二人は、毎回……、
 デューラムはぎゅっと目をつむった。
 ――偶然だ。
 ――偶然なんだ。
 そう思ったから、デューラムは仲間たちに何も言わないで、今日そのまま家へと帰ってきたのだった。しくしく泣きつづけている灰色の服の女を見たというだけでフォークをろくに持てないほど震えているなど、男として恥ずかしいのではないかと思ったからだ。
 彼は変なものをよく見る。よく奇怪なものにも悩まされる。彼の仲間たちもいいかげんに奇妙な経験をしているが、それにしても彼ほどではない。だいたい、仲間らの経験にしてもデューラムがことの始まりになっていたりする。
 デューラムにはそれが少し悔しかった。
 ――つけいる隙があるから、変なものが見えてしまうんだ。
 でなければ、「変なものがいる」と彼が信じ込んでしまっているせいで、ごく普通のものが「変なもの」として見えてしまうのかもしれない。今日の女がいい例だ。幽霊だ、死を告げる妖精だなどと思い込むから、不気味な姿をしていたような気がしてくる。それだけだ。
 彼は女の顔を思い出そうとする。これといって特徴のない、ごく普通の、……
 違和感。
 きんと頭が痛んだ。なにか不透明なもやが一瞬頭を横切って、すぐに通り過ぎていく。
 デューラムは舌打ちをして座っていた椅子から立ち上がった。戸を少しだけ開いて家の外をのぞくと、帰り道にいったん止んでいた雨は、また激しくなっているようだった。曇天の灰色を背景にして、木々の枝が風に激しく揺れているのが目に入る。
 恵みの雨とはいえ、あまり降り続くと新芽が腐ってしまう。
 早く止んでくれればいい、とデューラムは思う。今晩が嵐にならないようにというその願いは、しかし、畑への心配だけから出たものではなかった。
 彼の願いに反して、雨脚と風はどんどんひどくなった。二日前の晩そっくりである。突風が何度も彼の小さな家をなぶり、藁ぶきの屋根が、頼りなげにがさがさと呻く。質がよいとは言えない半透明の窓硝子には、ひっきりなしに雨粒が吸いついて、外などろくに見えなかった。食卓の上に置いた燭台のあかりは、どこかの壁のすきまから吹き込む風のために絶えずゆらゆらと揺れていた。
 ひょう、と遠くで風が啼く。ああした音は、空気がどこか狭い場所、たとえば木のうろや岩のすきまなどを通り抜けるときに出るものだと、以前に聞いたおぼえがある。人の叫びではない。妖精の呼び声でもない……。
 野菜とベーコンのスープにパンを付けただけの簡素な夜食を終えたデューラムは、食器を土間に持っていこうと、立ち上がってテーブルに背を向けた。
 と、
 デューラムは飛び跳ねるようにして振り返った。食い入るようにテーブルの近くの窓を見つめる。
 ――いまたしかに、何かが、
 窓に――頭が。
 長い髪ではなかったか?
 女?
 夜の闇色になった窓に、外からぴたぴたと水滴がはりついている。デューラムは荒い息を押し殺しながら、じっと窓を見つめた。二枚重ねた皿が、手の上でかたかたと音を立てて震えている。
 そのとき、暖炉の火がぼうと燃え上がって、再度デューラムをぎょっとさせた。煙突から逆流してきた風に煽られて、火は激しく荒れ狂い、暖炉から飛び出そうな勢いでぱちぱちと火花を散らす。デューラムはあわてて暖炉に駆け寄ると、灰をかけて火の勢いを弱めた。
 炎が安全な程度に収まったのを確認して、窓のほうを振り返る。だが、あいかわらず窓の外は真っ暗で、そのむこうに何も見えはしなかった。
 ――気のせいか。
 彼は溜息をついて、食器を土間に運んだ。


 長い夜だった。嵐は一晩中家を軋ませ、ざわざわごうごうと近くの木の葉を揺らしつづけた。そのあいまには、甲高い音を立てて風が窓の外を通り過ぎていく。寝床で毛布にくるまって、デューラムはしっかりと目をつむり、眠ろうとした。いったん眠りに落ちさえすれば、すぐに朝が来る。そうすれば嵐は去っているだろう。
 だが、うつらうつらと意識が遠のくたびに、ダグラスの台詞が蘇る。「……その翌日だ、親父が死んでいたのは……」。そしてそのつど、二度と目をさますことができなかったらという不安に、ぱっちりと目が冴えてしまうのだ。
 杞憂だ、とデューラムは思い込もうとする。
 ――死んだ男はそれなりの年だった。自分はまだ若い。なぜ自分が死神に魅入られなければならないのか。ふだん足を踏み入れることもない、あの下町の街角などで。
 うまく思い出すことのできない灰色の服の女の顔。足を抱えてうずくまる、あのシルエット。しとしと道路に落ちる雨の音に混じって聞こえた、かすかな嗚咽。震える肩。その肩に触れた自分の手の感触……
 いくつもの心象が次々と浮かび上がっては、意識の波間に沈んでゆく。夢かうつつか不安の発作かわからぬ混沌のなかで、ああ――と長く伸びてかぼそく消えてゆく女の声を、デューラムは聞いた。
 それは、深い深い淵の底で漏らされたようにくぐもった、悲嘆と哀悼の吐息だった。









 「デューラム!」
 名を呼ぶ声に、ろばに取り付けていた荷台の中を整理していた彼がぎょっとして振り返ると、そこに赤毛の背の高い娘が立っていた。飲み仲間のひとり、エーリーンである。
 「お野菜売ってるの? あたしも少しいただこうかしら」
 「ああ」デューラムは胸を撫で下ろした。「驚かすなよ。おまえの声はやけに響くんだから」
 「あら、久しぶりに会ったってのに、ずいぶんね」とエーリーンは口をとがらせた。「なんだかしばらく家に閉じこもってたっていうじゃない?」
 嵐の日からすでに数日が過ぎていた。ひとしきり雨が降った後に快晴が二日ほど続いたせいで、畑の菜っ葉のたぐいがやけに元気になった。それでデューラムは大家の――実質的には友人のようなものだが――若いきょうだいに頼まれて、春野菜を売りに街に出て来たのだった。
 「べつに、ちょっと忙しかっただけさ。隣ん家の納屋が水びたしになったから、それを乾かすのを手伝ってたんだ」
 「ふうん?」とエーリーンは細い首をかしげ、
 「嵐の前の日に飲んでたのでしょ? 様子が変だったって、みんな心配してたわよ。ちょっと神経質な感じだったって。能天気なあんたにしちゃ珍しいんじゃなくって」
 無神経で悪かったな、とデューラムは呟いた。「あの晩はさんざんだったよ。まるでひっきりなしに女が泣いてるみたいで、ろくに眠れやしなかった」
 「ああ――」と、エーリーンは青々とした菜っ葉の束を物色しながら言った。「あの夜、バンシーが出たんですってね」
 デューラムは思わず吹き出した。「おまえもそんなこと言ってるのか。あれはただの風だよ。その証拠に、ちゃんと普通に朝が来たぜ」
 エーリーンはデューラムをちらりと見た。
 「そりゃ普通に朝が来るわよ。あんたには関係ないじゃない」
 「いや、あのな」デューラムは頭をぼりぼりと掻き、「バンシーに殺される奴ってのは、前日に灰色の服を来て泣いてる女とすれちがうって噂だろ? おれもすれ違ったぜ、あの前の日にな。それでも、ぴんぴんしてる。あの子は普通の娘だよ。悲しいことでもあって、毎日泣きながら街を歩いているんだろ」
 エーリーンは野菜を吟味していた手を止めると、まじまじとデューラムを見つめた。なんだよ、とデューラムが口をとがらせると、みどり色の大きな双眸がきゅっと細められた。
 「あんた、バンシーを見たのね」
 「だから違うって……」
 「あたしの故郷の言い伝えではね」と、エーリーンはデューラムの言葉をさえぎった。「バンシーは『家』に出るのよ」
 デューラムはその意味がとっさに取れず、眉を寄せた。
 「バンシーは誰も殺さないわ。ただ家の誰かが死のうとしているとき、家の前や屋根の上にあらわれて、その人の死を悲しんで泣き叫ぶの。――あの嵐の翌日、市壁の外の下町で葬列を見たわ。デューラム、あんたが女を見たのって、どこかの家の前でしょう? 死人を出したのはきっと、そこの一家だったのじゃなくって」


 デューラムは金を置いて立ち去っていくエーリーンの後ろ姿を見つめていた。あの下町で聞いた独特の訛りが誰のものに似ていたのか、いま彼は思い出していた。声音が違うのですぐにはわからなかったが、エーリーンのものに似ていたのだ。
 そして、あの雨の日に見た女の顔は、やはり、まだよく思い出せなかった。




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