CoLuMn 7


失恋という物語の困難




 まだ小学生だったころ、姉に借りた少女漫画雑誌を読んでいて、話が「失恋」で終わっていた中編に新鮮な驚きをおぼえた記憶がある。
 少女漫画といえば、おっちょこちょいの主人公が美形万能男と最終的に相思相愛になるもんだと思い込んでいたので、その作品は新鮮だった。
 それもサブカル系おしゃれ漫画ではない。りぼんだかなかよしだか忘れたが、小中学生をターゲットにした雑誌である。ほかにもいくつかの号を見せてもらったが、似たような雰囲気の漫画を見た記憶はない。
 いま考えてみても、あの作者はあんな媒体で思い切った作品を書いたなあ、という気がする。
 案の定、人気は出なかったようで、その作者がブレイクしたという話を聞いた事はない。
 自分はその作者が好きだった。


 恋愛もののなかに、「主人公が誰かを本気で好きだったのに、フラれました。終わり」という作品は思ったより少ないように思う。
 少し大人向けになれば、「付き合っていて別れました」がある。「相手と死別しました」もある。だが「フラれました。終わり」は少ない。
 一方的にフラれた人間の心理状態に真っ正面から取り組むというのは、思いのほか難しいものなのではないかと思う。
 
 概して物語にはテロス(telos, 「行き着くところ」とかいう意味)が必要だ。このテロスはその後に続く「新しい始まり」を予感させる。この最後の「行き着くところ」の地点から、それまでの悲しい事や辛い事が、自分を成長させた経験としてポジティブに評価される。
 このテロスが見つけられないとき、悲しい事は悲しいまま、辛い事は辛いまま、ポジティブに評価する事ができない。
 このテロスが示されないとき、物語は俗にいう「救いのない」物語となる。
 「付き合っていて別れました」の物語は、多くの場合、そこに主人公の選択がある。「もうだめだ。別れよう」という主人公の意思がある。それは次の関係につながっていく意思だ。
 「死別」というテーマには、多くの場合、「あの人は死んでしまったけれどこんなにわたしを愛してくれた」がある。失ったものと同時に、残されたものがある。それは主人公のそれからの生につながっていく。(ちなみにたいてい主人公は妊娠していたりする・笑)
 けれども、「自分は選ばれなかった」「好きだったのにフラれた」という経験には、自分の望みも意思も介在していなければ、自分のなかに残されるものもない。「好きだった」という感情をポジティブに評価することがとても難しいのだ。
 フラれた状態で沸き上がる感情は、自分をフった相手に対する憎悪であったり、徹底的な自己否定であったりする。あるいは自分と相手双方に対する蔑みによって、「好きだった」感情そのものを否定しようとする動き。そこにあるのは【内破】だ。内に向かって破裂し、崩れていく自分。
 「フラれました。終わり」の物語には、テロスがない。つまり恋愛もののなかではもっとも救いのない物語であり、おそらくもっとも困難なテーマとなる。

 どうにも因果なのは、おそらくこの「フラれました」の経験は誰の人生にもたいていつきまとっているということだ。多くの人間がこの【内破】の苦しみを抱えこむ。だがその苦しみと共鳴すべき漫画や小説は、実のところ、さほど豊富でない。物語として書き表しようのない経験を内に抱えつつ、誰しもが毎日を生きている。
(2008.8.4の日記より転載)





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