コラム


ファンタジー的異世界における単位について




 異世界ファンタジーと名付けられたジャンルにおいては、さまざまな「単位」を日頃われわれが慣れ親しんだものとは異なるふうに設定すべきという論があるようだ。たしかに、われわれが用いている「メートル」「一月二月三月」などの単位はいずれも現実の宗教や神話、科学をベースにしてこの地球の歴史のなかで作られてきたものなので、異なる歴史をもち異なる地理をもち異なる宗教と神話をもつはずの異世界において、同様の単位が存在するのはおかしいという理屈になるのは納得できる。多くのファンタジーが聞き慣れない名の単位を設定しているのも、そうした理由によるものだろう。

 しかしだからこそ、単位や暦の設定を完全にオリジナルで、かつ整合性のあるものとして作るのは並大抵の作業ではないはずである。上に記したように、時間の単位ひとつとってみても、そこには天文的、宗教的、神話的、農耕・漁業等の人間の営み等、さまざまな要素が複雑に絡み合っているからだ。

 たとえば「月」が約30日なのは月の公転であるのは誰しも知るところだが、「週」はもっと複雑である。一週間が7日なのはキリスト教的な「安息日」の概念で説明されることが多いが(主は最初の六日で世界を創造し、七日目に休まれたという創世記の記述)、じつのところその歴史はユダヤ・キリスト教より古く、バビロニアやシュメール、古代エジプトなどであるという。インド、中国でも七日を一区切りとする慣習は見られたらしいから、それはなにもキリスト教が無から作り上げたものではないのだ。
 また、「季節」が四つなのは地理的であると同時に産業・文化的なものである。最後が文化的というのは、あったかい季節と寒い季節があるのはどこでも一緒だが、それを四つに分ける必然性はないからだ。日本やヨーロッパでは四季の区分がもっとも優勢だが、それは起源からいえば日本やヨーロッパの地球上の位置ゆえのものであって(温帯〜冷帯)、かつその地理上の位置ゆえに発展した農耕や漁業のシステムに由来するからである(春に種まきをし、夏に育て、秋に収穫し、冬に休むという確固としたサイクル)。地球上の別の地域では雨期・乾期の二季や、熱期・雨期・冷期の三季で数える場所もある。オーストラリアの先住民文化では、季節は八つにまで分けられるという。 こうした諸事情を考えれば、週であれ季節であれ、ある特定の自然環境、天文環境、地理的環境から人間の産業が育ち、そのなかで宗教や神話という物語として区切りが定められていくという経緯であるわけだから、それらの諸事情から遊離して「よし、この世界では15ヶ月で一年で、週は9日で、季節は五つで、主たる産業は狩猟だ!」とか決めるわけにはいかないのだ。本当のところ。

 しかし、んなものを全部考えるのはしちめんどくさいことこの上ないし、設定したところで誰が「すごいね」と言ってくれる訳でもない。だから無難なのは実在の単位をできるだけコピーすることなのであって、だとすれば「こいつ異世界ファンタジー書いてるくせに七日を一区切りにしてやがんよ。キリスト教ねーくせによブゲラ」というのは言いがかりも甚だしいのだ。現在の単位や暦というのは数千年の人類の歴史の中で様々な要因があって構成されてきたものなのだから、その由来をよく知らないまま一部だけをひねって変えるのは、むしろ世界観的には危険なのである。いや言い訳だけど。いや、つーかそのへんの由来や影響を全部調べるのめんどくせえという話なんだけど、自分の場合、実のところ。

 ただし、長さの単位について言えば、事情は多少異なる。ミリ、センチ、メートル、キロメートルの単位はあきらかに近代西洋科学が人工的につくりあげたものだからだ。周知のように、18世紀の終わり、子午線を測定するというきわめて「科学的」な方法でもって定められたのがメートルであり、赤道から北極までの長さの1000万分の1が1メートルとされた(その後測定技術の改良により1mと子午線の長さの比率は若干変化している)。なお、フランス語metreの語源はギリシャ語で「測定」「基準」(つまりmeasure)を意味するmetronであるらしく、人間の身体感覚に依存しない抽象的・絶対的な基準から演繹的にものを測定するという意味で非常に「科学」的な単位であるわけだ。人間が自然を身体的に経験するなかから編み出していった単位ではなく、まず抽象的な基準ありきで作られた単位なのである。だからこそ、1,000だの1,000,000だの、きれいな数が単位の区切りめとなるわけである。

 このメートル法に対し、英米文化圏でしばしば用いられるフット/フィート、ヤード、ポンドなどの単位、あるいは東洋の尺貫法は、その起源においては非抽象的で感覚的な「身体の長さ」をもとにしているがゆえに、「科学」のない世界を想定する傾向にあるファンタジーでも用いやすい類の単位と言える(起源から言えば、フットは男性の足の大きさ、尺は親指の先から中指の先までの長さ)。したがって、もしあなたがファンタジー小説や漫画の作者で、世界構築にあたってオリジナルの単位を設定しようと思うのならば、メートル法よりもむしろ、ヤード・ポンド法や尺貫法を参考にすべきかもしれない。
 
 とはいえ、英語圏の国がメートル法を導入しないのは、べつに抽象的・科学的な世界観に対するアンチテーゼを唱えているからではなく、たんに「フランスが発明したものに合わせる義理はないよ」という態度のあらわれではないかと思われる。これ半分冗談半分真面目。
 あと注記しておけば、当サイトの小説で単位フィートを用いているのは、ここに挙げたいずれの理由によるものでもない。たんに翻訳ファンタジーっぽい文体を無意味に演出しているだけのことである。

 さらに注記しておけば、以上とりとめもなく書いてきた理屈などというのは、小説作品の完成度にとってはしょせん些事にすぎないのであって、聞き慣れない単語を使うのも、言ってしまえば八割型は雰囲気をかもしだす小道具にすぎない。したがって、あるファンタジー小説のこうした諸設定が、たがいにまったく整合性もなく決められており、一ヶ月が40日で1年が18ヶ月という設定の世界において、20歳のうら若き娘がほんらい40すぎの年増に相当すべきと思われるにもかかわらず若さを売り物にしたヒロインをやっているような場合であっても、話の筋がおもしろきゃそれでオッケーなのである。では結論はどこにいくのかというと、結局、そうした粗が「これだからこのMy神はwwwwwwwまったくもうwwww」と愛とともに受け取ってもらえるのは、物語だのキャラだのが異様なカリスマをもっているごく一部の場合に限られるのであって、凡庸な筋の作品がデタラメで頭を使ってない世界観を披瀝してしまった場合の厨臭さは目も当てられないということである。さらに逆にひっくりかえせば、プロットじたいがさして度肝を抜くようなものではなかったとしても、些事をていねいに描き上げていくことで、深みのある作品にはなりえるということだ。小説作品を豊かなものにするのは、キャラだけではなく、物語の起承転結のみでもなく、世界についてめぐらされた深い思弁でもありうるのだから。





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